第一章 2-4
小さな老婆が、カラカラと手押し車の車輪を鳴らしながら歩いていく、そのななめ後ろをついていき、うるさいおばあさんの家まで歩いた。
おばあさんの家は僕が歩いていた通りをそのまま更に歩き、しばらく行ったところで左に曲がった路地にあった。それは砂利の敷かれた前庭の奥に、クリーム色をした外壁の一軒家が建っている、田舎としては標準的な大きさの住宅だった。夕暮れの闇に、玄関の明かりがぽつんと灯っていた。
小さな老婆に案内されるままにその敷地に入る。老婆が僕の先に立って、玄関のインターホンを鳴らした。はい、とインターホンのスピーカーから女性の声がした。
「林田ですけど」
小さな老婆が、彼女の口よりだいぶ高い位置にあるインターホンに向かって、叫ぶように言った。少し間があって、玄関の扉が開いた。
「あらどうも、林田さん」
中から出てきたのは、豊かなほうれい線を持つ、エプロンをかけた中年女性だった。(小さな老婆の話から想像すると)恐らくうるさいおばあさんの息子の嫁だろうと思われた。
中年女性は小さな老婆に儀礼的な笑みを見せた後、ちらと僕の顔を見た。見て、森の中で熊にでも出くわしたかのようにぎょっと固まった。中年女性に僕が会釈をすると、そのぎょっとした表情のまま会釈を返してきた。
「前から言っとったソウちゃんに似たお兄さんだ。アキさんに会わせるのに連れてきた。な、ぶんぬきだべ」
小さな老婆が中年女性に言った。中年女性は水飲み鳥のように忙しく二度、三度うなずくと、
「本当に……。これなら林田さんの言うとおり、お母さん、ソウシロウと勘違いするかも知れないわ」
「だべ? だべ? 今アキさん起きてるんけ? 中入ってもいいけ?」
「ああ、どうぞ。あなたも、わざわざありがとうございます。お名前は? 真島? 真島さん、ありがとうございます。上がってください」
おいおい、本当にだいじょうぶなのかよ、そんなに似てるのかなあ、などと思いながら、僕は流れに従ってそのまま家の中に入った。
短い廊下を歩いて、リビングに通された。十二畳ほどの空間に、大型テレビと、黒の革張りのソファ、雑貨の置いてある棚に食卓用のテーブル、電話機の乗った背の低いタンスなど、家具が多数配置されている。物が多くて生活感のある部屋だった。ソファに、あのうるさいおばあさんが座っていた。おばあさんは目に見えてやせ衰え、小さくなっていた。薄手の毛布をかけられている。ソファの背もたれに頭を寄りかからせて、じっと目をつむっていた。
中年女性と小さな老婆の手招きを受けて、僕はソファの、うるさいおばあさんの隣に座らされた。すると中年女性がおばあさんの前の床の上にしゃがみ、おばあさんの肩にそっと手を置き、
「ばあちゃん」
話しかけた。
「隣にいる人、分かる?」
「アキさん、ソウちゃんだ! ソウちゃん来たんだ」
中年女性の隣に来ていた小さな老婆が言った。
うるさいおばあさんは毛量の少ないまつげをふるふるうごめかし、目を開けた。そうして首をゆっくり横に回し、僕の顔を見た。意識があるのかないのか――怪しく思われるような、とろんとした瞳だった。
「ああ……」
数秒の間があって、おばあさんはやっと声をあげた。
「ソウシロウ。帰ってきやったかい。会いたかった」
そう続けて、最後は少し声を震わせた。僕はとりあえず、はい、はい、と当たりさわりなく返事をした。
「うっ……」
おばあさんの肩を手でさすりながら、中年女性が涙をこらえた。
「アキさん、よかった、よかったな」
小さな老婆が、自分が一番うれしそうに言った。
おばあさんは、いったい何年ソウシロウ君と会っていないんだろう。僕は思った。孫に久しぶりに会うということが、こんなに祖母というものを感動させるのだということが、もうずいぶん昔に父方・母方両方の祖父母を亡くした僕にとっては、新鮮に感じられた。
おばあさんは、今はしっかり僕を見つめて、瞳を閉じると、その目尻からすっと涙を流した。そうしてしばらく目を閉じていたが、やがて再度目を開き、突如かつての元気さを取り戻して、ぺらぺらぺらっと話しだしたのである。
「帰ってきたってことは、もうあの変な女の格好はやめたんだべな? 今日は、確かに女の格好、してないけども……。え? どうなん? オカマバーだとかいうところに勤めるのもやめて、体育の先生になるんだべ? でないと、ばあちゃんと父ちゃんが許さんぞ!」
なんだか変な方向に話が行きだした。僕は、はあ、いえ、あの、そうですね、と呟きながら、すっかりまごついてしまった。それで、おばあさんが「許さんぞ!」と言ったところで一拍間が空いたので、ここだと思い、
「じゃあ、今日はこれで」
と言ってソファから立ち上がった。おばあさんはそんな僕に「ん」と高圧的に相づちを打ち、
「その覚悟をしてから、戻って来いや。なんて言ったってお前はな、この井岡家の跡取りなんだかんな」
と言う。僕が苦笑いを浮かべて中年女性と小さな老婆に会釈すると、中年女性が慌てて、「すみません。お茶の一杯でも……」
と後を追いすがった。
「いえ、早く帰って、夕飯の準備をしなければならないものですから」
僕はそう適当に理由を述べて、
「じゃ、おばあちゃん、会えてうれしかったです」
とおばあさんに声をかけ、「ん」と相変わらずぶっきらぼうに答えるおばあさんを尻目にリビングを出た。
中年女性と小さい老婆がすぐ後を追ってきて、特に中年女性は何度も僕にすみません、すみませんと謝った。
「いろいろ、あったものですから……」
僕はもう玄関口で靴を履いて、ようやくホッとし、余裕ができた。
「いえいえ、気になさらないでください」
「あんなでしたけど、息子に会えたと思って、うれしかったんだと思います。あんなにしっかりしゃべること、ここ最近無かったものですから」
「そうですか。おだいじになさってください」
中年女性はまだ僕に何か話したそうだったが、そこで僕は家を出た。家の敷地を出たところで、ほう、と一息、息が出た。見上げると空に星がちらちら、瞬いていた。




