第三章 美沙樹 1-1
あの居酒屋で、二人でひどく酔っ払った夜が、もしかしたら僕の人生で一番幸福な時だったのかも知れない――それは過去だけでなくこれから先の未来も含めて――と思ったりする。
妻と出会ったのは僕がまだ学生のころのことだった。
大学に入って二年目の夏休みの、ひどく暑い日だった。その昼下がり、世田谷の住宅街の一隅にあるおんぼろの学生アパートを、僕は出た。最寄りの駅前のスポーツバーで知り合った、近所に住む若い大工職人の友人が、要らなくなったテレビを譲ってくれるというので、その友人の家まで出かけようとしていたのである。
すると、アパートの前を通る狭い路地に出たところで、路地の脇にしゃがんでいる女を見かけたのだ。白地に花柄のワンピースを着て、麦わら帽子を被っている。その麦わら帽子をうつむけてアスファルトを見下ろしているので、帽子のつばの陰になって顔は見えない。
その女の足元に、黒い物体が横たわっているのに、僕はすぐに気づいた。よく見ると、真っ黒な猫がアスファルトに伸びているのだった。車に轢かれたのだろう。
(死んだ黒猫を眺めてるなんて、ちょっと趣味が悪いな)その時はそう思っただけで、僕は友人の家に行くためにくるりと振り向き、路地を女と黒猫のいる反対側へ歩き出した。
テレビは古いいわゆる箱型テレビで、小型ながらも友人の家から僕のアパートまで抱えて歩くのにはだいぶ重かった。汗が吹き出てTシャツの背中の部分を濡らした。僕は時々テレビを熱いアスファルトに下ろして休みを入れつつ、アパート前の路地へ戻ってきた。すると、あの女が、先ほどの姿勢のままで、やはり路地にしゃがんで猫を見つめていたのである。
僕はその時初めてこの女の異常さを感じた。僕が友人の家と自分のアパートを往復して、さらに友人の家で友人と少々話をしたことを含めると、合計二十分は経過しているのだ。その間ずっと、女は猫の死骸を見つめていたことになる。平日の昼間に、猫の死骸と電柱の他には何も無い住宅街の路上で、真夏の太陽に焼かれながら。
(……変な女)僕は女のことを横目で見ながら、テレビを運び込むためアパートの中に入った。
テレビを部屋の隅に置くと、あの女に対する興味が、じわじわ湧いてきた。猫の死骸を見つめていることだけではない。顔は見えなかったが、パッと見、若そうなスラリとした女性であることが僕の興味をそそった。当時僕は二十一歳で、脳内の半分くらいは女性のことで占められていた。
僕はサンダルをつっかけて再びアパートを出た。路地に、やはり女がしゃがんでいた。僕は多少緊張しながら、女に近づき、声をかけた。
「あの」
女が顔をあげた。卵型の輪郭の、つるんとした顔。鼻筋が高く、切れ長の眼は大きい。化粧っ気はまるで無く、しかし真白なその肌はどこまでもきめ細かく透き通っている。かたちの良い、薄い唇が、どこか幸の薄げな表情を作り上げていた。それは若い女というより、まだ少女というべき顔だった。その顔を包むように、暗い茶に染められた中分けのストレートヘアーが麦わら帽子から伸びている。
(は?)
少女は不思議そうに僕を見上げ、そう心の中でつぶやいたような顔をした。
「ああ、いや、実は」
僕はどきまぎした。少女の顔が予想をはるかに超えて綺麗だったことと、その体から乳臭い女の匂いがムッとただよってきたからだった。
「僕の家、そこなんですよ。で、そこが」
少女と僕のすぐ目の前の、狭い長方形の庭を指さした。庭は僕のアパートの前に広がって、それぞれ一階の室の前に物干し竿が並んでいる。
「アパートの庭なんです。なんで、良かったらその猫、そこに埋めませんか?」
少女は僕の指の先の庭を見て、それから再び僕の方に顔を向け、少し翳のある笑みを唇の端に浮かべた。
「……いいんですか?」




