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第一章 煩いおばあさん 1-1

 ほんの三、四行、文字を書いた原稿用紙を、とうとう、くしゃくしゃ、と思い切りよく丸めて、テーブルに軽く叩きつけた。ぬるくなったコーヒーの残りを飲み干して、原稿用紙とボールペンを鞄にしまった。テーブルの端に置かれた会計伝票を取り、席を立つ。カウンターの奥に立っているマスターと眼が合う。


「お会計を」


 支払いを済ませて、町でたったひとつしかない、その喫茶店を出た。ため息をつきながら、だ。また、ひとつもプロットが思い浮かばなかった。いや、正確にいうといくつもそれらしき断片は思い浮かんでくるのだけど、どれも商業出版するレベルの小説にできるほどのアイデアとは思えず、結局何も書けずに終わってしまうのだ。


 もう、小説家を続けるのは無理かな。喫茶店の駐車場を歩きながら思う。いや、そもそも活字になった小説が新人賞受賞作を含めてこれまで二本しかなくて、しかも最後に雑誌に載った短編小説から丸二年、小説が売れていないのだから、客観的に見ると自分は既に小説家ですらないのではないか。そんなことが頭をかすめる。じゃあ今の自分は一体なんだ? 主夫、ニート、無職、ヒモのいずれか。ニート。ふふふ。なぜだか笑いがこみ上げてきた。


 一台も車の停まっていない寂しい駐車場の、端に停めてある自転車まで行く。鍵を開け、自転車にまたがろうとする。


 ――と。自転車の前輪の先に店があるわけだが、その店の壁と駐車場のアスファルトとの間の土地が、壁に沿って帯状に、緑色の芝生の生えた地面になっている。その芝生の一角に、汚い布と黒い毛がかたまったひとかかえほどのゴミが置いてあったのに気づいた。そのゴミが、ガサ、と動いたのである。


「うわ!?」


 驚いた僕は自転車のハンドルを握ったまま、小さく声をあげ、ゴミを凝視した。ゴミのかたまりは左右にゆらゆらっと揺れたかと思うと揺れに合わせてぐんと上に伸びた。その頂点には黒い毛があり、その下はボロ雑巾のような洋服で、……要するに僕がゴミだと思ったそれは人間で、ちょうどしゃがんでいたのが立ち上がったところだった。


「ああ、あ、お兄さん」


 立ち上がったおじさんはその見てくれに反した高い声を出し、ふらふらとこちらへ歩いてきた。立っているのもやっとという感じで、僕の自転車の前カゴにすがりついた。


「え、え、なんですか?」


 僕は恐怖に駆られて、しかし逃げだせもせず、情けない声を発した。自転車の前カゴを挟んで、おじさんをさっと眺めた。


 おじさんはぼうぼうに伸びた蓬髪で、毛先はちりちり、その毛にはところどころ小枝や葉っぱやセロテープの破片が絡まっていた。服装は、穴だらけのジーンズに色落ちして首の穴が大きく伸び広がったTシャツ、その上に無数の染みのついたパーカーを羽織っていた。その服の全てが泥のような灰色だった。頬のこけた細面の顔は色黒で、無精ひげが生え脂で黒光りしていた。体中からきつい汗の臭いを発している。


 僕はおじさんの姿を一目見てすぐに、「ああこれはホームレスの人だ」と思い、全国のホームレスの方には失礼ながら、そんな人に絡まれた自分の運の無さを嘆いた。おじさんは僕をじっと見て、震えながら、


「お兄さん、お願いやから。腹減ってんねん……」


と言った。


「はい?」


「腹、減ってんねや。もう、死んでまうかも知れん。お願いやから、このサ店で飯、おごってくれへんやろうか。ほんま、頼んます」


「ああ、ああ、そうですか。じゃあこれで……」


 と、僕がポケットから財布を出そうとすると、おじさんはその僕の右腕をおもむろに掴んで押さえつけ、


「いやいや、そうやなくて、一緒に店に入ってもらえまへんか? ワシ、こんな見てくれやし、一人で入ると店から追い出されるかもしれん。ほんま、迷惑なんは分かるけど……」


 僕はなんだかこのおじさんが哀れになってきた。ちょっとしたお金と手間で、路頭に迷っている一人の人を救うことができるなら、むしろ喜んでそうしようと思った。自転車のハンドルを放し、鍵をかけ直して、


「わかりました。じゃあ行きましょう」


するとおじさんは、ゲヘッ、と下卑た笑い声をあげ、


「ほんまですか? ほんま、おおきに。さすが、イケメンは違うわあ」


と、店に入ることを了承したのを僕がちょっと後悔するような、いやらしいお追従を述べた。


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