終章
借りていたTシャツを返しに、あなたの部屋に行く。
電話口でそう言った愛花は、いざ弾真の目の前に現れた時、借り物のTシャツとタオル以外の物を大量に抱えていた。
レジャー用品と思わしき大きな折り畳み式のパイプ椅子に、ビニール製のクロス、櫛、霧吹き、男性用の髪型のカタログ、それとすきバサミ。それらを手にして、愛花は弾真を部屋から引っ張り出し、近くの公園へと連れて行った。
絆との試合を終えてから、初めて訪れた日曜日、その昼下がりのことである。
気持ちの良い晴天だ。ホムラも、公園のベンチでうたた寝をしている。
「試合の後、髪をそのままにしておけって言ってたのには、こういう意味があったわけだ」
「ええ。ずっと切ってしまいたかったのよ、あなたのそのやぼったい髪。いい機会だと思って。……あなたにとっても得なはずよ、美容室に行く手間が省けるんだから」
「でも僕は、別に髪を切ろうだなんて」
「右目の上だけ前髪がないなんて前衛的な髪型で過ごす気だったってこと?」
「……数日間は過ごしてたんだけど。稲穂さんがいじるなって言うから」
「それはそれ、これはこれ。……じゃ、始めるわよ」
「……僕に拒否権は?」
愛花は、むっと口を尖らせた。
「…………。あるわよ。……やめる?」
「……いや。……お願いします」
そこまで嫌ではない。むしろ愛花の好意を無下にする方が、弾真は嫌だった。……あと、その言い方はずるい。
弾真はクロスをかけられ、椅子に座らされ、じっとさせられる。愛花の手中にあるすきバサミが、しょきしょきと動くのが少し怖かった。
「そ、その前に訊かせて稲穂さん。……その、得意なの? 人の髪切るの」
「何事にも、初めてってあるわよね?」
「…………」
「大丈夫よ、前髪を同じ長さに切り揃えて、それに似合うように全体を整えるだけだから」
「それ、大変な作業なんじゃ?」
「奇遇ね、私もそう思うわ。でも大丈夫よ、ヘアカタログも買って来たし。……悪いけどこれ、置くところないから持ってて。手、空いてるでしょ」
愛花はカタログを適当なところで開いた後、しっかり折り目を付けて、クロスの穴から出た弾真の手に握らせる。その後、弾真の前で前かがみになり、櫛で前髪をといて揃えていく。
「……。ねえ、髪型の指定とかってしたら、その通りに切ってくれるの?」
「そんな器用なこと出来るわけないでしょ」
「……ボウズは嫌だからね、絶対に」
「下手に動いたらなるかもしれないわ。だからじっとしてて。……あと、それ以上私の胸に目を向け続けるなら、問答無用でボウズにするわよ。嫌なら閉じること」
「……わかりました。……すみません」
弾真は、椅子の上で覚悟を決めて閉眼した。
「ん、よろしい。……それじゃ、行くわよ」
ぷしゅぷしゅ、霧吹きで水を頭にかけられる。その後、愛花の指が持つ櫛が自身の髪を撫でていく感触に、弾真は身を強張らせた。
……しょきしょき、しょきしょき。
軽い音に切り落とされた髪が、クロスを伝って落ちていく。
(ああ、もうなるようになれ)
頭皮を引っ張られる感覚に、本当の意味で弾真は腹を括った。
四月の終わり。温かな日差しが降り注ぐ晴れの日。
ぽかぽかと、時が流れていく。
「ねえ。……もう、なくていいの。眼鏡」
「……うん」
陽だまりの中、二人はそっと、言葉を交わし始めた。
「嫌だったんじゃないの? 周りの人を、その目で直接見るのが」
「まあ……ね。でも、もういいんだ」
目を閉じたまま、弾真は頬を緩ませた。
「あの眼鏡があったら、見つけられなかったものがあるって、気付いたから。それが、僕にとって大切なものなんだって……そうも、思えたから」
「……どんなもの? それ」
「……。……嬉しかった。見に来てくれて」
「っ……」
一瞬、髪を切る愛花の手が止まる。
「……ごめんなさい。しばらく、連絡も取らなくて。……私、みっともないとこ見せたから。何だかあなたと顔を合わせるのが気まずくて。あなたも大変だったはずなのに、私何も……。試合の日も、何だか迷っちゃって……」
「それでも、稲穂さんは来てくれた」
「……」
「すごく力になった。稲穂さんが、僕との約束を守ってくれたって。だから、僕も頑張らなきゃって。そう思ったら、力が湧いて来た。……絆には、ちょっと悪いことしたけどね」
「どうなったの? 彼」
「しばらく入院だってさ。後遺症とかは残らないみたいだけど、しばらくは立つどころか、ベッドの上で身動きひとつ出来ない状態だって……そう聞いた」
あの試合と同時に、完全に関係は終わった。絆とのものも、彼を好きだった、溟とのものも。
弾真は、ため息を禁じえなかった。
これからの未来を共に歩む人たちではなくなっても、大切にしていた過去を一緒に歩いていた二人であったことは確かだ。
「……そう。……でも……彼は立ったわ」
弾真の言葉を受け、愛花はそう答えることを選んだ。
「あなたの渾身の技を受けても、彼は立っていた。あんな技、受けたら普通は立てないはずなのに。あの根性があれば、きっと大丈夫じゃない? たぶん、またみんなを守るために立ち上がるわ。……そう、思わない?」
「……そうだね、そう思いたい。……溟もついてるしね」
「ええ。……そう思いましょう」
「うん。…………」
弾真は、少し勇気を振り絞った。
「あの、さ。どうだった? あの試合。……稲穂さんから見て」
「……」
しばらくの沈黙。……ハサミが動く音と、毛先が落ちる音が、弾真の頭部をくるくる回り、公園の風に消える。
そして、愛花は手を動かしながら、言った。
「愛花でいいわ」
「え?」
「私のこと。……愛花でいい」
「……い、いいの? 僕なんかが」
「いいから言ってるの」
弾真は、その言葉の真意がわからなかった。目を開けられない今は、表情から測ることも出来ない。
……けれど、そう呼ばない理由もない。照れくさいが、言う通りにすることにした。
「……あ、ああ。じゃあ……ま、愛花」
「はい」
「……どうだった、かな? 僕の試合……」
「…………すごかった」
愛花の声から、少しカドが取れたように、弾真は思った。
「大きなランク差を覆して、聖騎士から勝利を掴み取ったガンナー。見ようと思ったって、なかなか見られる試合じゃなかった。数の不利にも、あの鋭い攻撃にも臆さないで……打ち勝った。あなたは、本当にいい戦いをしたと思う」
「……はは、よかった。ありがとう。……でもね、愛花」
少しだけ、弾真は間を置いてから、言った。
「愛花は、そんな僕に、勝ったんだよ」
「……。でも、あなた私と戦った時は眼鏡かけてたじゃない」
「それでもだよ。眼鏡を外した今だって、僕は愛花に勝てる気がしない。僕はやっと、自分に向けられる人の目と戦う覚悟が出来た状態に過ぎない。ずっと戦って来た愛花とは、実力的にも、精神的にも、まだまだ差がある」
「……どうかしらね。……私自身、自分がそんなに強い人間だとは、やっぱり思えないわ」
「そっか。……じゃあ、もっと頑張らなきゃな、僕」
「え?」
「愛花に、強い自分自身を知ってもらいたいから。」
弾真は自信を持って、心の内を言葉にしていく。
「君に負けた僕だからこそ出来ることだ。僕がいろいろな人と戦って、価値のある勝利を掴み取っていけば、いつか愛花が僕に勝ったことを誇ってくれるようになるはず。今は駄目でも、いつかそうなったら嬉しいと思うんだ。そうすれば、愛花が感じられなくなった、『意味のある勝ち』を、僕があげることが出来るから」
強いからと言って、何もかもが出来るわけじゃない。逆に、弱いからと言って何も出来ないわけじゃない。弱いからこそ、出来ることだってある。
弾真は決めていた。自身の牙をもって、どこまで行けるか試してみよう、と。
ここからが、再スタート。今はEランク、しかしいずれランカーになり……その先にも、上りつめていきたい。そのために、どんな人間とも戦う。手段など選ばずに。
その過程には、自分自身が求める、ごまかしのない世界があるはず。そしてその世界をいくつも踏み越えて行けば……愛花に誇れる自分になれる。きっと愛花が誇ってくれる自分になれる。
戦うための新しい理由を、見つけられた。自分を縛る鎖も、もうどこにもない。
今、目を凝らして見据えているのは、とてつもなく遠い場所だろう。今は明るい青空に阻まれて見えない星に向かって、手を伸ばすような真似に等しいのかもしれない。
それでも、今はこの脚で進むことを選べる。
「だから、これからも見ていて欲しい。僕は、君に誇ってもらえる、僕になるから」
「…………」
「……駄目、かな?」
「……ううん」
弾真が今まで耳にしたことがないほど、優し気な声がした。
「駄目なわけない。約束したもの。……見てるわ。もうずっと、目を離さない。……楽しみにしてる。これからの、あなたを」
「……ありがとう、愛花」
「うん。……その、ね」
「?」
「……私こそ。……ありがと。……そんなこと言ってくれる人、他にいないから」
「…………。ははっ。……どういたしまして」
「……どういたされまして。……というか」
「?」
「頼まれたって、目、放さないわよ。……もっともっと、あなたのこと知りたいもん」
「え? ……それって――」
弾真が反射的に目を開いた瞬間、手にしていたカタログがひったくられ、視界がクロスで覆われた。
「はい、終わったわよ!」
ばさっと大胆にクロスが取り払われ、大量の赤い髪が地面に落ちる。
立ち上がって、周囲をぐるりと見た弾真は、深い不安に襲われた。
「……こんなに切ったの?」
「元の量が多かったのよ、仕方ないでしょ」
そっぽを向いて咳払いをした後、愛花は弾真へと視線を戻した。クロスをパイプ椅子にかけ、ハサミも手放した後、弾真のまわりを一周しつつ、櫛で髪を整えた。
「……うん、いい感じ。すっきりしたわ」
「えっと……その、どうなってるの? 今の僕の髪型……」
「気になる?」
「当たり前だよ」
「じゃあ鏡……あ、そういえば持って来てなかったわね」
「なら、部屋に戻って……」
「いいわよ、面倒でしょ? ……はあっ!」
愛花は左手を弾真の前方の空間に向け、開いた。
忌術によって、人間の身長ほどの氷の柱が生み出される。その表面は、周囲の景色を映し出すほどに滑らかで綺麗だ。
「はい。これで見られるわ」
「……。許可のない忌術の使用は……」
「わかってるわよ。でもいいじゃない、手遅れだし、この公園誰もいないし。……ちょっとだけ、あなたたちの影響を受けてるのかもね、私」
「……はは、かもね」
弾真は笑った後、意を決して、氷柱に顔を近づけた。
「……お……?」
弾真は、いい意味で驚いた。
端的に言って、悪くない。前髪、トップ、もみあげ、襟足……ほぼすべての部分が、少々遊びを残しながらもすっきりと整えられている。さすがにプロ同然とはいかず、長さを揃えた後に、全体に強引にシャギーをあしらったような髪型ではある。しかし、前のような手入れなど微塵もしていない重い髪型よりも、幾分か洒落ていた。
弾真は頭に手を当ててみる。とても、軽くて快適だ。
「本当に初めて? 上手だよ」
「ほら、悪くないでしょ?」
「うん。……伸びたらまた切ってもらおうかな? はは、なんて――」
「いいわよ、いつでも言って」
「――え、本当?」
「ええ。同じ髪型になるとは限らないけど」
「……覚えておくよ」
やや不安もあるが、とにかく今の髪型を、弾真は気に入った。
心機一転。そんな言葉がよく似合う姿だ。生え際以外の色は赤いままだが、これもまた、一度底に落ちた過去を忘れぬ要素としては上々だろう。
眼鏡も、視界を隠す髪もない。けれど自分には変わりない、新しい姿。
笑みを浮かべた弾真の隣に、愛花が並び立つ。
「……うんっ」
氷の鏡の中、隣り合う二人の視線が合った。
愛花の眉尻が下がり、頬が緩む。目が、甘い輝きを放つ。
それは弾真へとまっすぐ向けられた、心からの笑顔だった。
「素敵よ、弾真」




