2.船での生活①
ニンニク臭い部屋の中、これでもかという量を吐く女。しかも扉を開けた瞬間吐かれ、赤髪の男ジンは呆気にとられた。
ニンニク臭と吐瀉物特有のすえた匂いにジンは思わず鼻を摘み、一歩後退る。だが視線は四つん這いで吐き続ける少女へ向けたままだ。
港町で拾ってきたこの女、服装は平民と同じ物を着こんではいるが雰囲気からして貴族だろうとジンは思っていた。手入れが行き届いた艶のある明るいラベンダーブロンドの髪は平民にはまずない髪色、瞳の色はわりと多い黒ではあったがその佇まいの品の良さは平民には出せないものだった。多少おかしな性格ではありそうだったが、奴隷として売るには良い商品だろうと、そう思い攫ってきたのだが……
(なんだこいつ……)
それは間違いだったのかもしれないとジンは冷めた目をユッタへ向けた。吐いている間にたまに入る声は少女にしては中年の加齢臭を発しそうな男の声をしており、それが尚商品価値を下げる。ユッタは先日16歳になったばかりの少女なのだが、そんな事存ぜぬジンは見た目のわりに歳がいっているのかも知れないと思った。
そうしていると吐き気が落ち着いたユッタがゆっくりと口元を服の袖で拭いながら顔を上げる。顔色はまだ白いが、だいぶすっきりした顔をしていた。
「ふう」
すっきりした、という息を吐くとユッタを担いで攫ってきた張本人が真顔でこちらを見ていた。その顔にムッとしたユッタは抗議の声を上げる。
「凄く気持ち悪かったの!ニンニク臭いし!」
ニンニク臭に関してはユッタが悪いのだが、それを棚上げし文句を言う。ユッタの主張に表情を変えぬままジンは部屋の中を覗き込んだ。
「この部屋、窓なかったか。くせえな。換気してえのに」
ユッタの主張をまるっと無視して鼻を摘まみ続けるジン。ユッタは心の中で悪態をついた。
「何この人、耳ないの?」
「あぁ?」
「ああ!また声に出てたわ!」
気を抜くとすぐポロッと出てしまう声に、ユッタは大袈裟に驚き口元を覆う。だが自分の口から吐瀉物の臭いがし、直ぐにその手を離した。
「臭い。吐いたからね、きっと」
「それ以外ないだろうが」
吐き終わってから怯える事も無く、話し続けるユッタを見てジンはやはり攫ってきたのは間違いだったと改めて後悔した。普通の女であれば男に嘔吐姿を見られたら恥ずかしく、穴があったら入りたい気持ちになりそうなものだがユッタは実に堂々としている。しかも吐くのは当たり前だと攫ってきたお前がいけないのだと言わんばかりの態度だ。
ジンは思う。
もし自分が想像していた通り、貴族令嬢であれば海賊に攫われたこの状況に嘆き、怯えると思うのだ。だがどうだ、目の前の少女は怯えてもいなければ、嘆いてもいない。いやそれどころか何も考えていなさそうである。
(馬鹿なのか?)
そう頭に浮かんだところで、ジンはあるものを思い出した。以前船にいた猫の事である。その猫は老衰で既にこの世にはいないが、その猫と目の前の少女が似ている事に気付いたのだ。別に生まれ変わりなど馬鹿な事を言うつもりは毛頭ない。だが、よく草を食べ吐いていたところと何も考えていなさそうなところ、そして猫のくせに人間の会話に入ろうと良く鳴いていた姿が何故かダブった。
(そうか、猫か)
目の前の少女が猫だと思えば、何故だかその愚かさも許せてきた。ジンは先程まで奴隷の商品価値について考えていたが、もうそんな事どうでも良いとばかりに口端を上げ、ユッタへ声を掛けた。
「おい」
ずっとひとりで話し続けていたユッタは、話の勢いのまま返事をする。
「ん?なあに?」
「お前名前は?」
そこで初めてユッタは自分が名乗っていない事に気付いた。ポンと手を叩きユッタは自己紹介を始める。
「私ユッタ。あの港町の領主の娘で、王都の父のところへ行くところだったの」
名前だけ聞ければ良かったのだが、ユッタは自分が何処の誰で、何をしようとしていたのかまで話をしてきた。少し頭があれば自分の出身など海賊には隠すのだと思うのだが、ユッタにその頭はないらしい。いとも簡単に自分が領主の娘であると説明したユッタにジンはやはりこいつは馬鹿だと思わず鼻で笑ってしまった。
だが、ジンが思っていた通り少女は貴族令嬢だった。ジンはあまり土地には詳しくないので爵位はわからないが、あの港町の領主であればそこそこの家だろう。
「ユッタか、変な名前だな」
「お婆様がつけたらしいわ。由来は知らないけれど」
「ふぅ~ん」
「それよりあなたの名前は?赤い人」
赤い人と呼ばれ、ジンは声を上げて笑った。確かに赤い髪をしているがそんな風に呼ばれた事は無い。
新鮮な呼び名に何度も笑いが込み上げ、その笑い声に人が集まってくる。その内の何人かがジンの傍まで来たが部屋に近付くにつれ眉を顰めていった。ジンとユッタは匂いに順応してきたが、嗅いだばかりの人には悪臭だろう。何事だと数人が鼻を摘まみながら部屋を覗いたが、皆その部屋の悲惨さにギョッとしていた。あまりの部屋に覗いていたひとりがユッタへ何か言おうと眉を吊り上げたのだが、その行動をジンが片手で制止する。
ひと笑いし終わったジンはふぅと息を整えると、自身の髪をかき上げた。
「俺の名前はジン。この船の船長だ。あとお前、ユッタだったか?奴隷商に売ろうとしたがゲロ女は買い手がつかんだろう。今日から俺の小間使いな」
笑いの余韻が残る中、そう言われユッタはぽかんと赤髪の男を見た。くつくつと笑う男は集まった部下に掃除道具と女物の服を用意しろと命令し、楽しそうに去っていく。
「殺されると思ったけど、案外優しいのね」
漏らした言葉に部下のひとりがモップ片手に呆れた声を出した。
「お前、良いから此処掃除しろよ。ゲロ服は捨てろ」
こうしてユッタの海賊船生活が始まったのだった。
◇◇◇◇◇
家事など全くと言っていい程やった事がないユッタではあったが、やってみれば以外に出来るもので掃除も洗濯も問題なく出来た。と思っているのは本人だけで実際はズタボロな状態である。
掃除をすれば物を壊すし、洗濯をすれば穴をあけ、脱色や変色をさせる。そもそもジンの服には色物が多い。取り合えず洗えば良いと思っているユッタは色物と他を分けるという事をしなかった。
「わぁ、派手なパンツ!」
今日も今日とて青空の下、変色をさせた洗濯物を干しているユッタ。手には元は灰色だったジンのパンツがある。
「でもなんでこんなにまだらなのかしら?変な模様」
「お前が何でもひとつの桶に入れて洗うからだよ!」
パンツを掲げていたユッタに突っ込みをいれたのはいつぞやモップを持ってきてくれた下っ端海賊、アトである。アトはユッタが船に来てから何かと面倒を見てくれる少年だ。歳はユッタと同じ頃か少し下だろう。まだあどけなさが残る顔にユッタは親しみを感じていた。
「ん?でもその方が早く終わらない?」
「早いけど服駄目にしてたら元も子もないだろうが!」
「駄目にしてるの?ジンはいつも笑ってて楽しそうだけど」
「あー!そうだけど!確かに楽しそうではあるけど!もうっ!良いよ!怒られるまでそうやってなよ!」
「え、うん」
いきなり怒り出すアトを不思議に思いながら、ユッタは洗濯物を干していく。今日も雲一つない青空。そして何の障害もない海の上。洗濯物が良く乾くに違いない。
初日はあんなにも船酔いしたユッタであったが、あれ以降吐き気を感じていない。自分は船が苦手なのでは?と不思議に思っていたのだが、どうやら船酔いは空腹時になりやすいらしい。その日の朝、林檎ひとかけのみだった為、ああいう事になったのかとユッタはひとり納得した。それにしては良く出たとも思ったが。
洗濯物を干し終わったユッタは今度は掃除をしようと船内へ戻る。掃除場所である船長室へ行く途中、鼻を赤くした船員が酒瓶片手にユッタを呼び止めた。
「おい、ユッタァ」
「どうしたの?」
酔っぱらいは千鳥足でユッタに近付くと肩に腕を回した。酒のせいで力を加減出来ないのだろう、ユッタの小柄な肩にずしりとした重みが乗り、体がグッと沈む。思わず転びそうになったユッタは口をへの字にした。
「重い!お酒臭い!離れて!」
ぐいぐいと腕を外そうとしたが、16歳の少女と成人済みの男とでは力の差は歴然だ。赤鼻の船員は鼻歌でも歌い出しそうな顔で酒臭い口を開いた。
「お前お頭の小間使いなんだろう?どこまでやってんだぁ?」
「くさーい!もうやだー!」
「夜のお世話もしてんのかぁ?ハッハー!」
低俗な質問であるが、16歳のユッタにはその質問の意味がわからなかった。夜とは何のことなのか、そもそも夜は自分の部屋で寝ている為全く世話はしていない。もしかしてベッドメイキングの事か?だとしたらユッタがやるよりもアトが先にやっているので、その意味でもやっていない。
「アトがやってる!私はやってない!」
腕をいかに外すか暴れながらそう言えば、酔っぱらいは間抜けな声を出した。
「へ?アトが?え、アト?」
その声と共に腕が外れ、漸く自由になったユッタは酔っぱらいと距離を取った。
「だって私よりも先にアトがやってるんだもの。私はやった事一度もないわ!」
距離を取りながら尚もそう言う。船員は酒で赤かった筈の顔色を段々と白く変化させていった。その船員の変化をユッタは不思議に思いながらも、もう絡まれるのはごめんだとばかりにその場から遠ざかる。背後から『まじかよ!』という絶叫が聞こえ、何事かと振り向けば先程の船員が酒瓶を落とし、しゃがみ込んでいる姿が見えた。
「いきなりどうしたのかしら?」
まさか自身の発言のせいで大きな誤解が生まれた事など純粋なユッタが知る良い由もなく、首を捻る。ユッタは『まじか』と何度も繰り返す船員の姿を暫く見ていたが、ハッと自分のする事を思い出し、駆け足でその場を後にした。
その後もユッタは面白半分で色んな船員に話しかけられ、足止めをくらった。揶揄いや悪意のあるものまで全て相手にし、漸く辿り着いた船長室。ノックもなく入室したユッタは、その入り口の真正面にあるごちゃついたベッドに大きな塊を見つけ、にんまりと口角を上げた。とことことベッドの脇へ移動し、バサッとその塊のタオルケットをはがす。
「ジン!起きて!もう昼になるわ!」
部屋の主、この船の船長であるジンははがされたタオルケットを目を開けぬまま奪い返そうと腕を動かした。だが、奪われるよりも早くユッタがそれを床へ落とす。
「起きて!昼!お昼よ!」
「あーうるせぇぇぇーー」
「だってお昼よ?洗濯物も干し終わったわ」
「そうかい、ありがとよ。だが俺は寝たのが朝方なんだ。まだ寝かせろ」
掛け物が無いのならしょうがないとベッドの上にただ丸くなったジンはユッタのいる場所とは反対方向に体を向けた。朝方に寝たというのが信じられないユッタはジンの顔がある方へ回り込む。
「何で朝寝たの?仕事?」
「酒飲んでたんだよ、お前いなかったか?」
「夜は暗くなったら寝るもの」
「あーお子ちゃまはそうだよなぁ」
そう言いながらジンはまた体の向きを変えた。
「あ、そうか。夜のお世話ってお酒の相手の事ね。さっき間違えた事言っちゃったわ」
「あぁ?夜の世話?ちげぇだろ、そりゃセッ……って」
少女の口から出た言葉に閉じていた瞼をパチリと開けたジン。すると目の前に逆さまのユッタの顔があった。
「さっき、聞かれたのよ。私ベッドメイキングの事かと思って、アトがやってるって言っちゃったわ。あら、でもおかしいわね。だとしたら何であんなに真っ白になっていたのかしら?自分がジンのお酒の相手に選ばれなかったから?」
どうやらユッタはベッドの上に乗り、ジンを覗き込んでいるらしい。間近に見える黒い瞳が猫のように細められた。
「ねえ、ここは面白いわね。とっても飽きないわ!」
そう言って笑ったユッタにジンは攫われた自覚がないのだろうかと苦笑し、ユッタの頭に手を置いた。柔らかい髪が猫を思い出させ、猫が居た頃を思い出しながらそれを撫でる。嬉しそうに笑った顔はやはりあの猫に似ていた。




