1海賊に攫われた令嬢
その日は快晴だった。
雲一つない青い空。空の色を溶かしたような海が誘うように優しく揺れていた。誘われれば最後、足を掬うというのに。
突然だが、ある人が言うに予兆はあったという。例えば船荷が中々到着しないだとか、ある方向へ漁に出た漁師がまだ戻らないだとか、関わる人からすれば大きな出来事が頻発しいていたらしい。後から考えれば、点と点が繋がるのだが事は起こらないと『そうだったのか』とわからない。
だから今更嘆いてもしょうがない。たられば程無駄な事など無いのだから。
だがしかし、しかしだ、それでも『あの時、ああしていれば』と思うのが人間なのだと思う。
薄暗い小さな部屋の中で真っ白な顔で口元を抑えているユッタ・シュルマンもそんな人間のひとりである。グラグラと慣れない揺れの中、必死に吐き気と戦っていた。少しでも大きく息を吸えば胃の中のものをぶちまける自信がある。
何故こんなにも揺られているのか。その答えは簡単だ、この下に地面は無い。あるのは母なる海のみ。つまり此処は海上。船の中にユッタは居た。
ユッタはお忍びで来ていた港町で海賊に攫われたのである。白昼堂々、大勢の目の前で。
◇◇◇◇◇
ユッタはこの領地の領主の娘、シュルマン伯爵令嬢だ。だがそんなもの名ばかりで専属の侍女も付けられていない娘である。何故、伯爵令嬢であるユッタがそのような事になっているのか。原因は義母だ。ユッタの実母が亡くなってから後妻として入ってきた義母。別にユッタの父と以前から関係があったとかそんな事はない筈なのだが、初対面から嫌味を言われ本格的に伯爵夫人として振舞い始めてからは目に見えてユッタを虐げてきた。食事を与えなかったり、物を捨てたり様々だ。
ユッタの父であるシュルマン伯爵はユッタの実母が亡くなってから領地に近付かず、王都にあるタウンハウスで仕事をしていた。たまにユッタへ手紙が届くのだが、内容にあまり代わり映えはない。『元気にしているか?』という内容ばかりである。
義母と暮らし始めて初期の方に手紙でいかに義母がクソババアかと書こうとしたのだが、父に訴えるのは最終手段であると気付き、それ以来当たり障りの無い返事をしている。それにユッタは思ったのだ。初期の段階で訴えるのは負けなのではないかと。
それからは日記に義母の所業を書き、いくつもの暴言をユッタは書き記すに留めていた。文字としておこすだけで大分スッとしたので精神衛生上もとても良かった。
義母から虐げられていても使用人達に助けられ、問題なく過ごしていたある日、ユッタは自分が40歳年上の光輝く豊満ボディの初老の男性に嫁がされる事を知った。まさに青天の霹靂である。そしてユッタは思った。
(あのババア、やりやがったな)
と。
義母は虐めても虐めても太々しい態度のユッタが気に食わず、遂に自分の懐を温める為だけにユッタを成金貴族の豊満ボディに嫁がす事にしたらしい。きっと父であるシュルマン伯爵には事後報告で済ますのだろう。シュルマン伯爵は娘を溺愛とまではいかないが、普通に愛している。そんな父が愛のない結婚を許す筈もない。
この時流石のユッタも父へ手紙を書こうとしたが、やめた。いや少し語弊がある。手紙を書くのだけをやめた。ユッタは手紙ではなく直接父へ言いに王都へ行く事を決めたのである。
だがそこに問題が立ちはだかった。10代の貴族令嬢がどうやって王都へ行くかだ。屋敷の誰かと行くのは義母の耳に入ってしまう可能性がある。そうしたら阻止されるに違いない。
だとしたら方法は一つ。
街でギルドに護衛依頼をし、王都へいくしかない。金さえあればギルドは何でも受けてくれる場所だ。ユッタ個人の貯金はそう多くないが、それは貴族基準である。ギルドに護衛を頼む分には十分あった。そうと決まれば直ぐにユッタは荷物を軽くまとめ、お忍びスタイルでこっそりと屋敷を抜け出した。抜け出す途中、何人かの使用人に見られたが、どの人物もユッタが幼い頃から勤めてくれている者達で優しい笑顔で見送ってくれた。そんな人たちと暫く会えないのは寂しかったが、義母との対決が決着したらまた会える。だから大丈夫だと自分に言い聞かせ、ユッタは港町を目指したのだった。
今にして思うと町に入る前から走っている人や叫び声が聞こえていた気がする。だが、ユッタは何だろうと思いはしたが特に他には何も考えず町へ入った。
町に入って最初に目に入ったのは赤い髪の男。男は町の入り口にある宝石店の店主に三日月型の剣を突き付けていた。
「え!強盗!」
思ったままを口にしたユッタ。その声に赤髪の男はゆらりと視線をユッタへ向けた。その際に剣先が僅かに揺れ、店主の頬を掠る。情けない声を上げた店主を赤髪は一瞥し、またユッタを見た。
「強盗じゃねえ。海賊だよ」
赤髪はそう言うとにやりと笑った。そして店主へ突き付けていた剣を店主の頬を撫でるように動かす。先程切れた頬から流れた血が剣先を汚した。今にも卒倒しそうな顔をした店主をユッタは助けようとも思ったが、ユッタは腐っても貴族令嬢。どうやっても海賊に挑める力はない。
目を丸くしたまま赤髪と店主を交互に見ていたユッタは足元に転がる大き目な石を見た。これを投げるという手もあるが、投石に自信はない。変に投げて店主に当たるのも可哀想だ。
ならば、とユッタは一歩足を下げた。ここではなく、別の町へ行く事を決めたのだ。赤髪の海賊が興味があるのは町の金品。ならばここからか弱いユッタが居なくなったとしても問題はない筈だ。一歩、また一歩とずりずり下がる。野生動物との遭遇時と対処法は同じだ。相手から目を離さぬようユッタは慎重に下がった。必然的に店主の悲壮な顔が目に入ったがそれをも無視。そもそもまだ10代のユッタに助けを求めるのが間違っている。まあ、少々良心が痛んだがユッタが助けても共倒れになる可能性が高い。変に刺激して死期を早まらせる事もないだろう。
赤髪は不敵な顔をし、ユッタから視線を外した。逃げる者は追わないという事に違いない。許されたと思ったユッタはホッと胸を撫でおろし、二人に背中を見せる。最後に見えた店主は絶体絶命そのものだった。
ここで突然だが、ユッタの短所を伝えよう。
「海賊も強盗も一緒じゃない。何カッコつけてんのかしら」
ユッタの短所は思った事がすぐ口から出るところである。
見逃して貰った事で気が緩んだユッタはポロリとそう溢した。それは独り言にしては大きく、当然赤髪の耳にも入る。
赤髪はユッタの声に店主から視線をゆっくりと外すと首の筋を伸ばした。それは別にストレッチとかそういう事では当然ない。乱暴者が喧嘩前に首を捻るそれである。座った緑色の目でユッタを見た赤髪は店主に突き付けていた剣を下すと喉の奥から唸るような声を出した。
「おい」
ユッタはその声に自分の思考が声に出ていた事を知った。ハッと気付き、口を押えたが背後から感じる不穏なオーラは殺気だ。怖いもの見たさでチラリと後ろを見れば赤髪は鋭い視線をユッタに向けていた。口元だけ笑っているのが余計恐ろしい。
「わーお」
ここでも軽率な発言をしたユッタ。ぴくぴくと赤髪のこめかみが動いたのをユッタは見た。本能的にやばいと感じたユッタは一瞬にして逃走の体勢を取る。貴族令嬢とは思えぬ健脚で走り出したがそんなユッタの揺れる髪に何かが掠った。
視界に自身の髪がハラリと落ちるのが見え、足が止まる。冷や汗を垂らしながら視界の先にある木の幹を見れば見覚えのある剣が刺さっていた。
背後からザッザッと緩慢な足音が聞こえ、その音にユッタは言いようのない恐怖を感じた。音が段々と近付き、そして真後ろで止まる。その男はもう武器を持ってはいない筈。だが、恐怖で冷や汗が止まらない。これは先程まで宝石店の店主が感じていた恐怖だろう。見捨てようとしたから立場が逆転したのだ。
(なんで私!?神はいないの!)
店主からしてみれば神はいたのだが、ユッタからしてみればそうに違いない。背後の赤髪の男は何も言わず、ユッタの肩に手を置いた。わざとなのか、肩に石でも置いたのかという重さを感じ、ユッタは思わずまた声を出しそうになった。だが、この短時間で学習したユッタはグッと口を噤む。
肩に体重を乗せられ、強引に振り向かされたユッタ。足が縺れ、転びそうになったが肩を掴まれていた為、転ぶことは無かった。
真正面から見たその男は視覚的にやかましい男だった。赤い髪は言わずもがな、原色に近い緑色の瞳に、どこの国のものか分からない沢山の民族的なピアス。広く開けられている胸元から黒い何を模しているのか分からない刺青も見えた。
赤髪はスッと目を細めると片手でユッタの頬を潰すように持った。
「可でも不可でもねえな。見ようによっては愛嬌があるか」
鼻を鳴らしながら言った赤髪はヒョイとユッタを肩に担いだ。一瞬殺されるのかと思ったが、自身が担がれている事に気付いたユッタは手足をバタつかせ抵抗をした。だが、いくら暴れても赤髪は落とすことなく大股で歩き続け、遂には船の物置小屋へとユッタを押し込めたのだ。
埃まみれの部屋へ乱暴に投げ込まれ、しまいには鍵を掛けられる。暫くは手あたり次第物を扉にぶつけていたが、ニンニク臭がするものが入った瓶が割れた事でユッタは戦意が消失した。
そして話は冒頭へと戻る。
◇◇◇◇◇
「ぎもぢわるい……」
ユッタはもう限界に近かった。慣れない船に、この揺れ。しかも押し込められた部屋は窓がない物置部屋だ。ニンニクの刺激臭も頭をくらくらとさせる。
時折、波が高くなるのかグッと強い揺れを感じる度に喉に物が込み上げてくる。それを必死に耐え下へ戻すのだが、大きな揺れが来る度にどんどん喉への圧迫は増し、心なしか上へ上へと押し上げられる。口元を強い力で覆い、必死に耐えているがそれはすぐそこまで来ている気がする。
いくら海賊相手でも吐瀉物は見られたくはないと思っていたが、そんなユッタの尊厳もじきに砕け散るだろう。
「なんでこんなことに」
吐き気と不甲斐なさで涙目になったユッタは小さく口を動かした。空気を少しでも多く口から取り込むと吐きそうになるからだ。だったら喋るなと思うのだが、それでもユッタこの自分の身に起きた事を嘆きたかった。どうしてこうなったのか、と。
本来であれば今頃、ギルドで護衛依頼をして運が良ければ護衛が決まっていた頃だろう。にも関わらず、船上にいる。意味が全くわからない。
何故、人が走って町の外へ向かう姿を見ても不思議に思わなかったのか。今となってはそれが悔やまれる。
うだうだと吐き気と戦いながら過去を嘆いていると、ユッタの耳がある音を拾った。この部屋へ近付いてくる足音である。ユッタは現在、白い顔をしながら床に倒れこんでいる。つまり床の音には敏感な状態なのだ。
ユッタは音を聞き、やっと出してくれる気になったかとよろよろと上半身を上げた。そして扉を見ていると思った通り、カチャリと開錠され勢いよく扉が開く。
「くっせぇぇぇぇぇ!!」
開かれた瞬間、絶叫され、それに驚いたユッタの喉が詰まる。いやまさか、と思う間もなく一気に胃の物がせり上がって来た。嘘だろう?本当に今出てしまうのか?これまで耐えてきた時間が脳裏を巡ったが、本当に巡っただけ。抵抗など出来るはずもなく、喉をそれが通過した。
「おぇぇぇぇぇ」
吐く瞬間、朝ご飯は何を食べたっけ?とユッタは現実逃避で考えた。そうだ、林檎だと思い出した時、じゃあそんな大惨事にはならなそうだと思ったが、吐瀉物は吐瀉物。汚いものは汚い。
あらかた吐き終わったユッタは部屋の入り口にいる赤髪を見る。その顔はドン引き以外の何物でもなかった。