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ただ一つの名、ただ一人の人  作者: 神空うたう


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32話(完) 四角い空



「ほらセレ、どうしたの!アンタはなにもしなくていいんだから、せめてこのぐらいはやりなさいよね!」


 衣替えでもするつもりかと思うほど、アドゥリーから衣装を押しつけられる。どれも洗うのに手間がかかるものばかりだ。


「……こんなに洗濯に出していいんですか。館に出る時に着るものがなくなりますよ。手間が減っていいのかもしれませんが」


 そう言い返せば、『キー!』と、絵に描きたくなるような怒り方をされた。まあ、アドゥリーはいつもどおりと言えばいつもどおりな感じはある。しかし――


「私があの『ただ一人の人』の『ただ一人の人』になれていたのなら。……こんな生活をしなくてすんだのかしら」


 館で私達の他に唯一『ただ一つの名』を持つルォウレンですら、 なんとも複雑な表情をしている。それはそうだ。館に居を置く娘奴隷でありながら、館の仕事に従事しないでいられるなんて、そりゃあやっかまれる。

 この旦那様の館は他の館に比べてかなり良い扱いを受けられて、普段も奴隷とは思えない自由を利かせられる。だが、それは『娘奴隷として、成すべき事をしている限りは』『この館にいる限りは』と、様々な制約の中でだ。

 一番比重が大きいのはやはり『館の仕事をこなす事』になる。

 一山いくらの苦役奴隷は、人格どころか命すら軽く扱われる。それを思えば、娘奴隷の扱いはとてもいい。とはいえ、娘奴隷達が美しく生まれついたのも美しくあるのも、娘奴隷本人が望んだ事ではない。

 自分のため、あるいは自分がこれと見染めた相手のために美しくあるのは自由だが、館の仕事に従事するために美を磨く事は、生きながらえるための方策でしかない。


 誰が好んで、見も知らぬ男に傅きたいと思うものか。

 その苦しみから解放された私を、憎んだり、僻んだりしないわけがない。


「狡いですよねー!?」


 ……ラパパパエメナほどはっきり言ってくれるのは、ある種すがすがしい。


「代わってくださいよー」

「無理」


 何と言われても、代わってあげる気はない。そもそも、代わるも何も。

 旦那様によるこの特別な計らいは、私がセレという『ただ一つの名』を『ただ一人の人』であるゲゼルから授かり、また私もゲゼルの『ただ一人の人』で、ゲゼルという『ただ一つの名』を再定義したからに他ならない。


 『ただ一つの名』を『ただ一人の人』から得る事自体が稀有なのに、互いが互いの『ただ一人の人』なんて、そんな奇跡みたいな話が現実に起きてしまったからなのだ。


 その偶然、あるいは奇跡が私達の身に起きただけの事。代われるわけがない。

 私は、洗濯物籠にアドゥリーの洗濯物をぎゅうぎゅう押し込んだ。


「あらセレ。だったら私も」


 ついでに意地悪に乗っかろうとする娘奴隷達もいる。


「この、洗濯物より優先する洗濯物があるのなら、どうぞ?」

「う……明日にするわ。ただし、明日必ず、ですからね!?」

「はいはい」


 こういう時、アドゥリーを使うと便利だ。私ならともかく、下手に触れれば誰にでも噛みつく古参娘奴隷であるアドゥリーに立てつこうという娘奴隷は、少ない。


「あ、じゃあこれー!」


 ……ラパパパエメナぐらいのものだ。ラパパパエメナは別にアドゥリーに立てつく気はない。こういう子なのだ。


「ああっ、それ、何したの!?」


 思わずリャーラが声を差し挟んだ。気持ちはわかる。目立つところにべっちゃり汚れがある。一瞬血かとも思ったが、僅かに色味が違う。


「お客さんから果物を貰ってー。で、一緒に食べてたら、潰しちゃってー」

「……それならそれで、その時点で先に相談に来てよ。これ、シミになるよ」

「えー!?困るー!」

「何を言われても、できる事とできない事があるの。頑張ってみるけど、部屋着行きだね、これは」


 私が服をつまむ。リャーラが『うわあ……』と、それを覗き込んだ。そして、ラパパパエメナを呆れた顔で見る。


「ラパパパエメナ、アンタやたら大部屋で可愛い服を着ていると思ったら……」

「館に来ていく衣装が、なくなっちゃうー……」


 そのあたりは、ディアラン婆さんと相談してほしい。まあ、新年だとか祝い事でもない限り、新しい衣装は望めまい。客から差し入れの多いサタネテあたりから、古い衣装を譲ってもらうか、汚れた衣装のマシなところを上手く組み合わせるしかないだろう。

 よいしょ。私は洗濯物籠を抱え込むように持ち上げると、館の裏手に回る廊下を行く。




「お、何が歩いてくるかと思ったら、セレか。あいかわらず、ちっこいな」


 途中で監視役達から揶揄われる。地下牢に引き連れて行かれた時は誰も彼も恐ろしい顔をしていたが、こうして見るといつもどおりの間抜け顔ばかりだ。……酒の匂いが鼻につくのも。不快なので、あまり距離は詰めない。




 裏手の井戸に出る。


 石鹸を擦りつけながら洗い始める。奴隷用の匂いのきついものではないが、人間用のやたらいい香りがするものでもない。日差しが強くなり始める前には洗濯を終えていないといけないので、まだ水は冷たい。建物の高さの関係で、日差しもあまり射しこまないので余計に堪える。

 ……今さら怖くもないが、入ってきたのと反対側にある汚らしい木の扉――あの先をいくつか抜ければ、苦役区画に出るはずだ。


 ただ生きる事だけがすべてだった地獄。そこで、意味なんてない苦役を続けるだけだった私が、娘奴隷として今は館という別の地獄にいる。娘奴隷として働かずにすむというなら、地獄としては生ぬるいのだろう。それでも、自由はない。


 泥で肌を固めたようなあの時の私。振り返るほど昔の事でもないはずなのに、すごく遠い昔の事のように感じる。

 あの私が今の私を見ても『よかったね』『羨ましい』とは言わないだろう。『その程度の事で安住を得た気でいるのか』『『ただ一つの名』を得られて、それで満足したのか』


 ……あの時の私ではない。これはきっと、今の私の声だ。


 でも、今さら、すべてを放り出して館から苦役区画に戻る気はない。

 あそこなんて、なおさら自由はなかった。

 ……外にだって。足を踏み入れた事は無いけど、きっとそこにも自由はない。種類が違う地獄があるだけなんだろう。


「おう、セレ。今日も張り切ってるな?」

「……よりにもよって、アンタか」

「なんだよ」


 ゲゼルは笑顔のつもりで手を振って現れたが、その薄ら笑いは腹立たしさの方が勝る。


「あれ?色、変わってるね?」

「……どうして降格した時には、気づくんだよ」


 支給服の襟ぐりや袖のライン。部署や階級が変わると色やデザインが変わるらしく、ゲゼルはよく自慢をしてきた。毎回、うざったいったらない。


「いや、降格じゃねえ。今回は部署異動だ。むしろ、暇な部署だからこそ、監視役の合間にこうしてセレとのひとときを……」


 どうでもいい。ゲゼルは井戸の枠に腰を掛けてペラペラ喋っている。洗濯を手伝ってくれる気はないのだ。別にこれは私の仕事だし、コイツみたいな奴が洗濯をしたら、手間が増えるだけだから、いいけど。


「……娘奴隷同士で殴り合いの喧嘩でもあったのか?」


 洗濯物を覗き見たゲゼルが引き気味の顔をしている。ああ、これか。


「果物の汁だってさ」

「捨てちまえよ。そこまで汚れたら」

「私の衣装じゃないし。そこは本人判断だから」


 とはいえ、石鹼液に漬け込むにしても、もう遅すぎた。ざっと色を落としてもはっきり汚れがわかる。やはり、叩き洗いどうこうでどうにかできるものではない。ラパパパエメナはこれをどうするつもりだろうか。

 ふうんとゲゼルは特に気にしたそぶりもない。

 久々の閑職への異動を指摘されたのが不本意なのか、支給服の袖を織り込み始めた。袖のラインがわからないように誤魔化そうと画策する方に、気を取られている。そんな事をしても、襟ぐりの派手なラインが残っているので、私にだってバレバレだ。本人の視野からは見切れる位置なので、頭にないのだろう。

 ……ああ、それは私も同じか。


「……私もゲゼルも、この程度ですんでよかったね」


 私の方も、ディアラン婆さんの扇子による、顔と耳に残るかどうかも曖昧な傷ができただけ。……美が己の商品価値となる、娘奴隷達はドン引きしていたが。


 『旦那様のお計らい』があったにしても、私と館から脱走しようと画策していたのは事実だ。ゲゼルの異動は、それについての処分なのだろう。監視役の役職なんてあってないようなものらしいが、だとしても横の異動だけで降格でないのは意外だった。

 それとなくそれについて話すとゲゼルは、ああ、と少し思案した。


「……降格させるとややこしくなるからだろ」

「ややこしい?」


 まだ詳しく聞いてないのか?とゲゼルは首を傾げた。


「旦那様は『『ただ一つの名』を授け合った『ただ一人の人』同士』って事に俺達の価値を見た。だから俺とお前を『観賞用』として、異例の扱いにする。……わけだが、表立っては『よくできた監視役に、娘奴隷を下げ渡す』って形にするらしいからな」

「下げ渡す?」

「褒める相手を降格させるんじゃ、話がおかしいだろ。だから監視場所の部署異動」


 どうやらそれ自体は、過去にもある事だったらしい。

 優秀な働きをした者への恩賞。ただ、館の監視役でいる以上、多少の金銀財宝を与えたところで、外でそれを使用するつもりがなければ、何の価値もない。館で娘奴隷達を監視する程度の監視役が、実利として求めるものは、酒や遊興に関わるもの――たとえば、娘奴隷。

 もちろん、金銭を得てそれを必要とする者にさらにばらまいて運用する者もいるし、一定の金銭を手に館の監視役を辞めて、外に出ていく者もいる。

 しかし、旦那様はゲゼルの功を労うのが目的ではない。



 ゲゼルと私を、旦那様の手元に留め置く事こそが、目的だ。



 だから、仕込み中で娘奴隷としては今後も価値がそう高くないであろう私を、ほどほどの功績に対するほどほどの恩賞として下げ渡す。という形で落ち着くらしい。


 ……ゲゼルが私に執着していたのは以前から多くの者が知るところなので、おさまりとしても納得できるのだろう。脱走未遂の方が記憶に新しいゲゼルが、いったい何の功を挙げたのかについての疑問はあるが。私を与えて留め置きたいほどゲゼルが有益と思えないし。

 ……それとも、出世に前向きで、迷惑客の排除には率先して動き、強者にはおもねるゲゼルは、上の人間からすればそれなりに有益な人物なのだろうか。面白くない。

 まあ、他の娘奴隷も監視役も、そのうちに旦那様の狙いには気づくだろう。誰だって、それほど愚かでもない。


「でも――じゃあ何?私はアンタの物、って事?」


 洗濯の手は止めずに、不愉快だとばかり顔を顰めてやる。なのにゲゼルはふにゃっと破顔した。


「……ははっ!まあ、そういう事だな!?名実ともに!」

「馬鹿なの?なに喜んでるの」



 一生私達は、買い殺されるという事なのに。



 ……でも、飼い殺しなんて、『ただ一人の人』同士でなくても同じ事か。

 ただ、同じ飼い殺しでも、保障されている者は段違いになったはずだ。脱走を失敗するまでもなく、画策しようとしただけで処分されるところだった事を思えば。


「うわっ!?ちょっと、ゲゼル!?」


 急に抱きあげられた。洗濯物が地面に落ちる。アドゥリーの衣装だった。……知るか。ゲゼルが悪い。


「『ゲゼル』なんて、小さい頃から呼ばれ慣れた『呼び名』だったのにな。お前がそれを『ただ一つの名』として呼んでくれるようになってから、ずっと特別なものなんだ」

「……」


 なんだよ。そんな笑い方するなよ。

 日の差し加減のせいだろう。やたらゲゼルがキラキラして見える。


「……セレ。お前が、俺だけのために『ゲゼル』と呼んでくれる。俺もお前を想って『セレ』と呼べる。これからもずっと、ここで。――それで喜ばずに、何で喜ぶんだ?」

「なに。……恥ずかしいんだけど?」


 ……照れる。


「お前を館の仕事に出して、他の男に触れさせるのを避けるには、ここを脱走するしかなかっただけで――セレ、お前が知らないだけで、この館の外は、ろくでもないところだ。旦那様が出した条件の下、ここで暮らしていけるなら、その方がいい」

「そんなの、いつひっくり返るかわからないでしょ」


 今は、私達に価値があると旦那様が思っているだけだ。


「……それなら、その時こそ、本当に脱走すればいい。場当たり的なのじゃなくってな?今から時間をかけて考えりゃ、完璧な方法が思いつくだろうさ」


 そんな楽観的な事では、おそらく次も無理だろう。……次なんて、もう来なくていい。


「――私は、今でもアンタに『セレ』と呼ばれるたびに腹が立つ、悔しい」

「……なんだよ」


 望みもしない相手から、一方的に与えられたもの。

 しかも、『呼び名』どころではなく、それは名もなき奴隷として唯一の希望だった『ただ一つの名』だった。

 私を誰より傷つけ、穢したお前が何故、よりにもよって。



 ――そして、そのお前なんかを……特別に思うようになってしまったのかと。



「でも、仕方ないから……ゲゼルと一緒にいてあげる」

「――喜んで一緒にいろよ」

「うるさいなあ。どうあれ一緒にいるなら、それでいいでしょう?」

「……とりあえずは、まあ許してやるか。俺の寛大さに感謝しろよ?」


 ゲゼルが井戸の脇に、私を横たえさせる。


「ちょっとゲゼル。私まだ、洗濯の途中なんだけど」

「なんだよ。……いいだろ?な、セレ。……セレ」


 『ただ一つの名』を呼ばれて気でも昂っているのか?馬鹿だな、コイツ。……なんにしても、ここでは嫌だ。

 まだ互いに名を呼び合う事もなかったあの日、ここでこいつは私を『深く傷つけた』んだ。ゲゼルはそれをもう覚えていないのか。……覚えているから興奮しているのなら、なおさら最低だ。


「私の代わりに叱られてくれる気もないんでしょ。やだ。いーやっ!」

「何を――ぐっ!?」


 ゲゼルが身をこわばらせた。悔しそうに私の太ももに滑らせていた手を放し、拘束を解く。小さな舌打ちが聞こえた。


 ふうん?

 私の『ただ一人の人』だから、庇護すべき私が『害される』と強く拒めば、手出しできなくなるのは今も変わらずらしい。

 そのあたりの判定があやふやなのが不満だけど。……だってまるで、それまでゲゼルの暴言や蛮行を許していたみたいじゃないか。


 ……抱きあげられた時点で、ちゃんと不快だったんだけど!?


「……じゃあ夜。館が空いたら、他の娘奴隷は館の仕事に出るだろ?その時に」

「アンタ達はいつでも暇なんだろうけど、私は人がいないからこそ、しなきゃいけない仕事が多いんだからね?」


 娘奴隷の待機場所は、予約の客待ちや客あしらいが終わった娘奴隷達が入れ替わり立ち替わりで完全にいない時が稀だし、私の今の状況から、娘奴隷やディアラン婆さんは『どうせ暇なんだから』と本当に私がしなきゃいけないのか?というような仕事まで申しつけてくるんだ。いい性格をしている。


「夜が駄目なら、やっぱり、今ここでするぞ」


 私の意に染まぬ事をしようとすれば、心臓をひっかかれるみたいに苦しいんじゃないのか。できもしない事をと呆れる。まあ……


「夜、上手く時間ができたら、考えてあげてもいい」

「よし、言ったな!?」


 パチンとゲゼルが指を鳴らす。そして身をかぶせるようにして、私の頬に唇を触れた。


「……ん」


 ゲゼルが首を傾げ、頬を差し出している。……まったく。


「はいはい、『お仕事頑張ってー』……っと」


 仕方なく、こちらもゲゼルに倣って、頬に唇を寄せる。『じゃあ夜な、絶対な!?』と、上機嫌となったゲゼルが館の方へと戻っていく。『目的』がわかりやすいし、それが今果たせぬとなれば撤退も早い。本当に嫌な奴だ。



 ……ただ、あんなゲゼルでも『私が得たもの』だ。



 私は旦那様からゲゼルに下げ渡されたらしいけど。私は誰に許可を得ずとも、ゲゼルを手に入れた……と思う。

 何もなかった奴隷の私が、奴隷のままに、『ただ一つの名』と、『ただ一人の人』を得た。それで十分だ。


「夜を楽しみにしてろよ、俺のセレ!」

「ちょっと!?……ぜ、絶対じゃないからね!?それに――ゲゼルにだけは、そう言われたくないから!」



 私の声は、地獄と地獄に切り取られた四角い空に、むやみやたらと反響した。




※ 完結! あなたを一人、孤独にはしませんでしたよね!?

  毎日一話ずつ更新完了。


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