静寂の盗人
重苦しい雲に覆われた、月すらもない漆黒の夜。
暗く伸びる狭い裏路地に、複数の足音が響いた。その間を縫うように、黒い外套を被った影が音もなく過ぎ去る。
「いたぞ! 」
「なんだ、馬鹿みたいに早い 」
そう叫ぶ男たちを嘲笑うように、その頭上を黒い影が駆け抜ける。手に持つランタンを掲げた時には、既にその姿を捕えることは出来ない。
たんっ、と軽く壁を蹴る音がした。追う男たちの目に、優に5階ほどの高さへ跳躍する逃走者の姿が飛びこんだ。ローブをたなびかせ、通常の人間には在りえない位置まで飛び上がったその者は、さも当然のように軽く聖堂の上に着地してみせた。
「“静寂の盗人”」
手の届かない場所にいる逃走者を見上げ、誰かが呟いた。こちらを見下ろす逃走者の顔は闇に呑まれ、その表情を窺い知ることはできない。やがて逃走者はローブを翻し、夜の町へ溶けていってしまった。
☆ ☆ ☆
「でえ、今日の仕込みが全部ぱぁ! ぜーんぶ、ぱぁだよ?! 」
信じられない、と鼻息荒く言うのは、ザクの酒場の従業員(であり、店主の娘)のアンナだ。ミザル・ブルクに押し掛けた彼女は、せっかくの美貌が台無しの般若のような形相を浮かべ、何やら両手をワキワキと動かしている。おかげで、他の従業員は怖がり、私たちがいる食堂に近づこうとしない始末だ。
「わかった。わかったから、机を拭きたいの。ちょっとずれてくれる? 」
「おまけに、朝から衛兵が調べてて、お店は休業しろって。あいつら、商売人舐めてるわけ? 大損した分、こっちは稼がなきゃなんないっつーの! 」
素直に体をずらしながら、アンナがさらに憤怒の色を濃くする。あれま、こっそりのぞきにきた厨房スタッフが運悪くその形相を見てしまい、涙目になって逃げていった。
アンナがここまで荒れている理由は、昨晩にまでさかのぼる。
昨夜遅く、ザクの酒場に物取りが入り、食材がごっそり奪われた。その時間、店はクローズしており、お店の人たちは表の片付けやら皿洗いやらに追われていて、仕込みのために用意した食材は厨房にむき出し状態だった。
そんな中、物取りはバタバタと動き回る店員たちの前に突如としてあらわれ、大勢の目の前で堂々と食材を奪い、逃走したのだという。
「でも、みんなで追いかけたのにね 」
「当然! ただ飯野郎は地の果てまで追いかけるのが、うちの店だもん」
だけど、とアンナが悔しそうに歯噛みする。
それもそのはず、ミザルを賑わせた昨夜の逃走劇はもう町の全員が知るところだ。店の男手、ついでに近所の数件も手伝って盗人を追いかけたにも関わらず、犯人を確保することはおろか、食料も取り返せずに終わったのだ。
「それで犯人の、えっと何だっけ? シュレ? 」
「静寂の盗人! いくつもの町を点々としている泥棒よ」
さすがは情報通。さっきまでとは違った意味でアンナが目を輝かせた。
静寂の盗人。その呼び名を誰がつけたのかはわからないが、ここ一年ほど王国中を賑やかしている泥棒だ。
その手口は、ザクの酒場で披露したのと同じ。盗み自体は堂々と人の目の前で行うくせに、逃げ足がやたら早い。今までも、衛兵や腕利き、居合わせた冒険者、時には騎士団に追いかけられたこともあったのだが、音もなく駆け抜ける俊足で、見事に逃げ延びている。
彼(彼女かもしれないけど)が盗むのは金目のものから食料まで多岐にわたり、ある程度すると別の町へ移っていく。その理由は、盗品を売りさばくためだとか、単に顔が割れるのを防ぐためだとか言われているけど、定かではない。
ざっと、以上を教えてくれたアンナは、細い指をこきりと鳴らし、不穏に笑った。
「天下の大泥棒だか何だか知らないけど、うちに手出したんだから、おもてなしが必要だよね。ミザルにいるうちに、釣りまできっちり清算させてやる」
ふふふ、と変な笑いを漏らしながら、再び指をこきりとやるアンナ。うん、今すっごく、悪い顔している。まさか、用心棒に裏稼業の方々を雇うとか言い出さないよね。
私が親友の今後を憂いていると、母さんがひょこりと扉から顔を出した。
「食堂の掃除は終わったかい? そろそろ、お客さんが到着する頃だよ」
「もうそんな時間? やだ、すぐ終わらせる! 」
「ごめんなさい、おばさん。ミアの邪魔しちゃったわ」
「いいんだよ。話してようが、油売ってようが、仕事はきっちり終わらせる。それでこそ、プロってもんさ」
豪快に言い放った母さんと猫かぶりのアンナが、揃って笑い声をあげる。それを恨みがましく横目で見ながら、私は慌てて残りの机を拭き、椅子を整えた。その全てが、どこからどう見ても完璧な状態に落ち着いたことを確認し、安堵する。
二人から身を背けて、私はそっとネックレスに指を這わせた。
お客さん。今日の、お客さんは。
「どうやら、到着したみたいだね」
窓の外を確認し、顔をほころばせた母さんの言葉に、私は慌てて入口へ向かった。




