プロローグ
1
午後の日差しが先程までの雨を乾かそうと降り注ぐ丘の上で、梵天は眠りこけていた。雨宿りついでに横になったところ、ついつい寝入ってしまったのだ。そんな彼を揺り起こすかのように吹く風が彼の頭上に茂る蓮の葉を揺らし、眉間に雫を落とした。
浅いまどろみから目覚めた梵天は、雨が止んだことを恨めしそうに両目をこすった。日の高さから察するに、午後の会議まではまだ時間があるようだ。
梵天はひとつ大きな伸びをして立ち上がり、ゆっくりと蓮の下から外に出た。
丘を下る足取りは、決して軽いものではなかった。なにせ今日の会議は、気まぐれさに定評のある釈尊が議長を務める。彼の参加する会議は大抵、彼の独断で物事が決まってしまう。今回の会議もご多分に漏れずいつものパターンで進行するのだろう――と、議事録を務める梵天は気が気でなかった。
ここ極楽浄土では、一切の苦厄が存在しない。衣服や食料も思いのまま手に入り、たまに雨は降るものの気候も穏やかである。ただひとつ梵天にとって例外があるとすれば、彼の頭を悩ます存在、釈尊こと釈迦如来の破天荒ぶりであった。時には目に余るイタズラをされることもあった。それは、梵天自慢の黒髪ロングにストレートパーマをかけた翌朝、起きて鏡を見ると綺麗なアフロになっており、もじゃもじゃの髪の中から「テッテレー」と書かれた紙が見つかる――といった子どもじみたものが多く、梵天にとっての日常は、一切気が抜けないスリリングなものなのであった。
陰鬱な面持ちで丘を下りきった梵天を待ち受けていたのは、頭痛の種の張本人であった。
「よっ! 梵ちゃん。ご機嫌麗しゅう」
何がご機嫌麗しゅうだよこの野郎――喉まで出かかった言葉を嚥下することに成功した梵天は、後光の差す神々しい肉髻をその目で捉えた。正面に立たれると逆光で誰だか判りづらいと言ってみたことがあったため、涅槃のポーズで現れたのは釈尊なりの気遣いだろうと梵天は受け取った。
「ご……ご機嫌麗しゅうございます、釈尊」
いつもならスルーして素通りすることも出来たが、このあとの会議でへそを曲げられては困るため、梵天は社交辞令よろしく挨拶を交わした。
「うむ。今日の議題は把握しておるかね? 梵天君」
釈尊は左手の小指で鼻をほじくりながら尋ねてくる。
「御意。イヌ派とネコ派に分かれてのディスカッションと伺っておりますが……」
「ふむ。して梵天よ、そなたはどちら派か?」
「私ですか? 私は最近アメショを飼い始めたばかりでして――もちろんネコ派です」
「そうかネコ派か。いや、訊いてみただけで特に他意はないんだけどね。ところで私は何派だと思う?」
釈尊は意地悪そうな含み笑いを浮かべながら梵天に尋ねた。ちなみに釈尊は動物を飼っていない。
「うーん、そうですねぇ……ズバリ、イヌ派じゃないですか? 従順な部下が好きそうですし」
「――ファイナルアンサー?」
「えっ、え? ……ファ、ファイナルアンサー」
釈尊はたっぷりと時間をかけて口を開いた。
「……残念! 正解は『生きとし生けるすべての生命は優劣なく尊い』でしたー! ま、それでも強いて挙げるならシカ派かなー。融通が利かない梵天君には少し難しかったかもしれないね」
釈尊は得意気に正解を発表し、丸めた鼻クソを指で弾き飛ばした。
くっ、日常茶飯事だろう、いい加減慣れろ――と、梵天は深呼吸をしながら笑顔を作った。
「さ、さすがお釈迦様! 冗談がキツイ……じゃなかった、雄弁なお答え! 私など足元にも及びません」
「こらこら、お釈迦様と呼ぶのはよしなさい。オシャカといったらまるで壊れて用済みの機械のようではないか。それにゴマをするのはお料理の時だけにしなさい。オッホッホ」
釈尊はひとり上機嫌になっている。梵天としては、釈尊の気分が変わらないうちに会議を始めたかった。日の傾き加減を見るに、まもなく会議の時間が訪れようとしていた。
「おや、もうこんな時間ですね。本日の会議、よろしくお願いしますよ。さぁ参りましょうか」
釈尊は議事堂の方向へ歩き出した。それに従うように、梵天も重い足取りであとを追いかけた。
2
浄土府自慢の議事堂は府の中心に位置しており、すべて植物で出来ている。先程まで降っていた雨の粒を纏って外壁はキラキラと美しく輝いていた。釈尊と梵天は定刻の五分前に議事堂入りした。
会議室には既にメンバーが出揃い、議長の到着を今か今かと待ち望んでいた。
梵天と共に釈尊の脇侍を務める帝釈天、文殊菩薩、普賢菩薩、説法家の阿弥陀如来とその脇侍である観音菩薩と勢至菩薩、それに天女頭の合計七柱に釈尊と梵天を加えた九柱が今回の面々である。
釈尊たちが会議室の扉である巨大な葉を押し上げて室内に入ると、七柱全員が立ち上がり、それぞれ身を引き締めた。
「まぁ、私が議長の時は堅苦しいのは抜きだから。座っていいよ」
釈尊の言葉で全員が腰を下ろした。
「コホン……さて本日の議題についてですが、前回のキノコ対タケノコに続いて今回もディスカッションを行います。梵天君、例のものを配って」
虚を突かれた梵天は面食らってしまった。
「へっ? ……え!? 例のもの……?」
議事録を準備する手を止めて釈尊の方を向く梵天だったが、釈尊は明らかに笑いを堪えているようだ。どうやら、してやられたらしい。
「落ち着きたまえ、梵天君。冗談だよ、冗談。最近とある国のテレビ番組にハマっていてね。ちょっと真似をしてみたけれど、知っているのは私だけのようだったね」
こういうのはマジで一番やめて欲しい――梵天は引き攣った笑いを貼り付けながら、釈尊の言葉の先を促した。
「も、もう、冗談キツいんですから。それで、今回の議題についてでしたよね?」
「そう! よくぞ訊いてくれました。今回のテーマは『イヌ派とネコ派どちらが勝つかの最終決戦』である! いやね、ぶっちゃけると優劣は付けたくないんだよ? 付けたくないんだけどね、ネコ派の梵天君がどうしてもと言って聞かないからさ」
もちろん梵天はそんなことなど一言も言っていない。もはや細かいことをすべて拾っていると話が進まないので、梵天はスルースキルを解禁した。
「なるほど、イヌ派対ネコ派のディスカッションという訳ですね。面白そうではありますが――して議長、今回の面々には事前にイヌ派ネコ派どちらなのか下調べはお済みでしょうか?」
「いや、してないよ。この場で訊けば大丈夫でしょ」
「な、なるほど……ではシンキングタイムは不要でしょうか?」
「そうだね。じゃあ早速だけど、まずイヌ派のひと挙手!」
これを受けて、阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩・天女頭が各々右手を小さく上げた。
「オーケー。じゃあ一応訊くけど、あとのひとたちは全員ネコ派でいいのかな?」
残りのメンバーは一斉にコクコクと頷いた。
「よし、決まり! ディスカッションのサブテーマは『イヌとネコの心技体』だよ。それぞれアピールポイントを考えてね。それではスタート!」
3
――二時間後。
ディスカッションは煮詰まり、ほぼすべての意見が出切った頃、議長である釈尊はひとり思い悩んでいた。なぜならディスカッションである以上は勝敗を着けなければならないからである。会議前の梵天とのやり取りからも分かるように、釈尊は中立の立場であった。シカ派の勝利とでも言えればオチも着くかもしれないが、正式な会議でそれはさすがにマズいということは釈尊にも分かっていた。
「さて皆さん、ここまでなんやかんややってきましたが、そろそろ決着をつけなければなりません。しかし、どちらも決定打に欠けており、野球で言えば延長15回裏同点といったところでしょうか」
釈尊はコホンとひとつ咳払いをした。
「そこで皆さん、いっそのことバトルフィールドを変えようじゃありませんか! ――静粛に、静粛に。どういう事か只今説明いたします。皆さん、バトルロイヤルというものをご存知でしょうか? バトルロワイヤルとも言います。これをイヌ対ネコで行おうじゃありませんか。それもただ行うのでは面白くありません。敗者は全頭まるごと淘汰され、今後、我々の目に触れることはなくなるでしょう。ただ力だけが物を言う、そんな戦いを開催しようじゃありませんか!」
それを聞いて、いの一番に青ざめたのは誰あろう梵天であった。彼の動物愛護精神が釈尊の暴走を許さなかった。
「ま、待って下さい! バトルロイヤルって……そんな殺し合いのようなことをイヌネコたちにさせる訳には断じていきません。それに敗者側は全頭まるごと淘汰って……もしネコ側が負けたらウチのオスカーは……オスカーは……」
最後の方は言葉にならない。
「何を甘っちょろいことをぬかしておるのだ。命ある者いつかは滅びる――諸行無常の理、そなたが説いたものであろうが」
極楽浄土においては、生老病死は存在しない。そのことが釈尊を尚のこと冷淡にさせているのかもしれない。
「お、お願いでございます。どうかそのような残酷なことはお止め下さい。何卒、何卒……」
梵天は額を地面に擦り付けて嘆願している。それを見ていた帝釈天も、おずおずと土下座に加わった。釈尊はしばらく仏頂面のまま表情ひとつ変えずに二つの後頭部を見つめていたが、やがてひとつ大きな溜め息をつくと、「オモテを上げよ」と短く言った。
「分かった、分かった。そなたらの考え、しかと受け止めた。殺し合いは止めにする。しかし、ノーキルなら文句なかろう。戦いの規模は、そうだな……現し世すべてで一斉に行うのではなく、まずは手始めに極東の島国・日本で行うこととする。敗者はすべて島流しとする案を考えておったが、そのミニモデルとして日本が最適であろう。どうだ、これなら文句はあるまい?」
ハッ、と頭を上げた梵天と帝釈天は顔を見合わせた。
「あ、ありがとうございます! このご恩は一生忘れません!」
梵天は涙を浮かべながら感謝の意を述べた。釈尊はアルカイックな笑みを浮かべ、最後にこう締め括った。
「よし、方向性も決まったところでそろそろお開きにしますか! ――あ、そうそう。最後に大事なことをひとつ。今回のワンニャンバトル、世話役は梵天君にやってもらおうかな。もちろん私の独断だがね。異存あるまい?」
梵天は二つ返事で快諾した。




