[46]太宰の『饗応夫人』を読んだ [47]『饗応夫人』の示唆すること
[45]太宰の『饗応夫人』を読んだ
考える村の考堂で新緑の時期に催されたボサノバコンサート。
この日は小雨のぱらつく生憎の天気だったが、僕が『考える村』の山荘に越して来て以来、村が最も賑わいをみせた日であった。
そしてそれに呼応するかのように、ボサノバコンサートの一週間程前から僕の親類や妻の陶芸仲間を中心に沢山のお客たちが狸狐庵山荘を訪れて、僕たち夫婦は毎日のように接待に明け暮れる日々を送っていた。
元来接待することの好きな妻は、以前から友達や知り合いを家に招いては手作りの料理を振る舞ったり、酒盛りをすることが頻繁にあった。
「ほんとう、君は偉いねえ。よく、こんなめんどくさい、ご奉仕みたいなことをやるねえ」
「そんなこともないけど、わたしねえ、自分がやってあげて、その人が悦ぶ顔を見るのが好きなのよねー」
「あっ、そー。そりゃあ大したもんだ」
僕にはそんな返事しか出来ないのだった。
妻のこんな姿を見る度に僕は、学生の頃読んだ太宰治の短編小説『饗応夫人』を思い出した。
自虐的な香りのするこの小説は、太宰らしいと言えば、らしいが、僕たち凡人にとっては読む度にストレスの溜まる話である。
だから僕としては余り好きな作品とは云えないが、いつまでも脳裏に焼き付いている一節があるからここに紹介しておく。
『・・・・廊下に出て小走りに走って、玄関に行き、たちまち、泣くような笑うような笛の音に似た不思議な声を挙げて、お客を迎え、それからはもう錯乱したひとみたいに眼つきをかえて、客間とお勝手のあいだを走り狂い、お鍋をひっくりかえしたりお皿をわったり、すみませんねえ、すみませんねえ、と女中の私におわびを言い、そうしてお客のお帰りになった後は、呆然として客間にひとりでぐったり横座りに座ったまま、後片づけも何もなさらず、たまには、涙ぐんでいる事さえありました。』
これは、物語の冒頭の部分であり、話は更にエスカレートしていくのだが、この段階でも僕にとってはもう十分に刺激的である。
何故なら、妻に限らず僕の性格であっても、いや、その大小は別にすれば誰であっても、このような性向は必ずや何処かにあるものと思う。
ただ妻の場合は、そうすることを自分自身への刺激にしながら、尚且つそれら全てを楽しむ術を心得ているようだから、太宰の『饗応夫人』とはまた別物なのかも知れない。
初夏を思わせるような青空が広がり、狸狐庵山荘の周りの山では『椎の木の花』が満開で、独特の噎せ返るような匂いが満ちてくる。
この椎の木の花のにおいについては、漢字で書くときに『臭い』にするのか、或いは『匂い』とするのか、意見の分かれるところで、つまりそれを悪臭だと感じる人は前者の『臭い』と書き、芳香と感ずれば後者の『匂い』である。
ある人は、青臭いと言ったり、或いは単に強烈なにおいとか、季節感のするにおいだとか、表現の仕方はまちまちだが、概していい匂いとする人は少数派のようだ。
僕は、先に『噎せ返るようなにおい』と言ったが、これは単に文学的表現を気取ってみたまでで、『椎の木の花のにおい』を思ったまま素直に表現すれば『精液のにおい』となる。
これは椎の木に限らず、同じブナ科の『栗の木の花』なんかもこれと同じようなにおいのすることで有名だ。
そして精液は、新しい命を創る立役者であり、未知の可能性に満ち溢れた『神の水』なのである。
僕としてはこの匂いを好感を持って迎えたい。
ブナ科の木の花の香りと『神の水』の香りが、期せずして酷似するというのは、神秘的なものを感じずにはいられない。
『饗応夫人』とは関係なしに、ふと思ったことである。
[46]『饗応夫人』の示唆すること
― 前回より続く ―
『考える村』には何かある。ここはパワースポットに違いない、これは妻の口癖であった。
事実、彼女の周りには、奇跡的な出来事が次々と起こる。そのことについてはまた後日話すとして、そんな未知の可能性に満ち溢れた狸狐庵山荘にあって、そのメインツリーとでも云っていいような大きな赤松の木が突如として枯れだしたのである。
今年の二月頃からその大きな赤松の木の葉っぱが少しずつ色褪せていて、それが素人なりにもずっと気になっていた。
「あれ?あの松、枯れてるんじゃない?」
ある日の朝、コーヒーを飲みながら外の景色を眺めていた妻が心配そうに言う。
「そうながよ。最初は葉っぱが代わるために、葉をふるうのかなあって思うちょったけど、どうやらそうじゃないみたいやねえ。松くい虫でも入ったのかも知れんねえ」
それから2週間くらいの間に、その松の葉っぱは急速に変色し、あっという間に真っ茶色になってしまった。
病気の恐ろしさをまざまざと見せつけられた気がした。
「木村くん、あの松を切って貰いたいんやけど、どうすればえいかねえ」
木村くんとは、『木村時間』という特殊な時間のなかに生きる、『森の妖精』のような神秘的な男である。(彼のことは、又の機会に話します。)
「チェーンソーが要りますねえ」
「チェーンソーかあ。木村くん、持っちゅう?」
「いや、持ってないですけど、レンタルで借りれますよ」
「いくらくらいかかる?」
「一日借りても、1500円くらいですねえ」
「じゃあ、早速今度の日曜日にチェーンソー借りてきてやって貰えれん?」
「いいですよ」
こんなときの木村くんは、誠に重宝で頼もしく感じる。
『森の仕事は木村に任せろ』であるが、やたらと『木』という字がいっぱい出てくるのに気付く。
「ねえ、木村くんに晩ごはん食べてって貰う?」
夕方山荘に帰る僕の携帯に妻から電話が入った。
その日僕は、仕事の都合で山荘には居なかったのである。
そこで松の木の伐採関係の段取りかれこれは全て妻に一任していた。
妻の話によると、木村くんはその日、朝の10時過ぎから山荘に来てくれて、昼過ぎには作業は全て終えたという。それから考える村にランチを食べに連れていって、そのあと山荘でコーヒーを淹れてデッキで飲んでもらい、作業で汗びっしょりになってたからと、オーシャンビュ-の風呂に入れて、今デッキで夕陽を見ながら涼んでるらしい。
人に大変な作業を頼んでおいてそんなことを云ってはいけないが、人疲れなのか春独特の陽気の所為なのか、或いは妻の性への同情なのか、妻のそんな話を聞いた途端、僕の全身を異様な倦怠感が襲った。
「そう来ると思ってたけど、そこまでしなくても、えいやろ。僕かあちょっと疲れちゅうき、何て言うか、人疲れなんやろうかねえ」
「そうそう、私も人疲れみたい。しんどいけど、木村くんに晩ごはん食べさせた方がいいのかなあとも思って、取り合えずあなたに相談してみようかと。そこまでしなくてもいいなら、止めとこうか」
「晩ごはんくらいゆっくりと食べたいねえ、今日は。それに彼に晩ごはん食べさせたら、今度は帰らなくなるよ、きっと。終いには、夜遅くに山道帰るの危ないから、もう泊まってく?なんて言いそうだねえ。君やったら」
「さすがにそこまでは、いくら私でも」
と言いながらも、妻がどことなく不安そうな顔を覗かせているのが電話の向こうから見えてきた。
太宰の『饗応夫人』では、夫人の夫は大学の文学部の先生なのだが、戦争に行ったまま未だ帰って来ない。
そして彼の元同僚の医学部の先生が医学生たちを連れて大勢で押し掛け、夫人の家を二次会の場にしたり或いは宿屋代りに使ったりと、夫人の断れない性格をいいことに遣りたい放題である。
饗応夫人は、疲労のため喀血しながらも懸命なおもてなしをやり徹す。
夫人の、見返りのない奉仕や接待癖に反対し、最初は乗る気でなかったお手伝いさんで語り手の『私』は、あることをきっかけに夫人についていこうと決意する。
そして『私』つまり太宰はその理由を、夫人の『底知れぬ優しさ』や『人間の貴さ』という言葉で表現する。
僕の妻も確かに接待癖やボランティアを愛好する傾向があるが、ある日面白い会話を耳にしたことがあった。
「りこさんは、自分の幸せや利益を周りの人々に分け与える人なのよねえ」
「いや、そんなことはないよ。自分勝手な人間よ」
「いやいや、絶対にそう思う、私」
話の相手は、従弟の奥さんで遙々と秋田から嫁いで来ている、妻とは同年代の女性である。
ひょっとして彼女は、妻をおだてといて自分がまた利益に預かりたいと思っているのかも知れないなどと、どこまでもひねくれた僕は考えるのだった。
「実はねえ、自分が幸せや利益を独り占めすると、罰があたりそうで怖いのね。反動みたいな感じで。だから、それもこれも、結局は全部自分のためにやっていること。私はただ臆病なだけなのよ」
従弟の奥さんは、返す言葉もなく、黙ってしまった。
側でその会話を聞いていた僕は、自分の頭の中を整理するのに少々の時間を要した。
云われてみれば、見返りのない奉仕であろうがどんなに一方的なボランティアであろうが、見方によれば自分のためであることに違いはない。
だからと言って、それが太宰のいう『底知れぬ優しさ』や『人間の貴さ』と無縁ではない筈である。
つまり『結局は自分のため』というのは、決してそれが『エゴイズム』を意味するものではなく、それは単に人間、ひいては生き物であることの前提なのであって、ここで議論しても余り意味がないのかも知れない。
太宰がいう『底知れぬ優しさ』とか『人間の貴さ』というものが、それが誰のためであれ、人のなかに歴然として存在するものであれば、人は皆、これのみを念頭におき、目標として生きていくことが、人として踏み行うべき道なのかも知れない。
しかし、何れにしても、難しいことである。




