最終章第32話 愛に飢えた子供たち
自分目掛けて黒い大槌が振り下ろされ、小夜は聖属の盾で自分を守る。攻撃を防がれた反動で弾かれた歩花の手の中の大槌は、そのまま地面にぶつかり、『こん』、と音がした。
何度も得物を振り回してくる歩花からの攻撃を防御しつつ、小夜はその度に、こん。こん。こん。こん。という大槌が地にぶつかる不規則なリズムのそれを聞いていた。
また、横から小夜の身体目掛けて大槌が迫ってきた。それを見て先程までと同じように盾を作り上げ、大槌が自分に届く前に食い止められる様を凝視する――はずだった小夜の目が驚きに見開かれる前に、小夜は大きく吹っ飛んでいた。
重々しい黒い見た目に反して聞こえてくるその音はとても軽く、それもそうか――歩花は退魔師として鍛えてはいるだろうが、少女らしい細腕をしている。当たったとしても、そこまで致命傷にはならないだろうと、内心、高を括り始めた矢先だった。
聖属の盾をあっさりぶち抜いた大槌に打ち抜かれ、ごろごろと華奢な身体が転がり横たわる。あばら二、三本どころではない骨が砕かれ小さな唇から血がごぼりと零れた。
「音で油断させるために、わざと何度も地面にぶつけていたのに……気づかなかったんだ?」
脳に突き刺さる身体の至る場所からの刺激から、冷たい汗が身体中から一気に噴き出す。今まで経験したことのない、熱いのか寒いのかよくわからない感覚の中聞こえる歩花の声は、遠い。
なんとか目を開けば、黒く、暗く、濃い湯気のようなものが歩花の大槌にまとわりついていた。
夢魔の意識の中の痛みは現実の痛みではないと予めハロウィーンから言われてはいたが、一体、こんな痛い思いをしてまで自分は何をしようとしているのかと自分の気持ちを見失いそうになるほどの苦痛に涙が滲んだ。
光の矢が飛来してきたのを、左一は先に受けた攻撃によって左肩から血が流れるのも構わず、走って距離を詰めながらかわす。少し前から左一と対峙しているのは、幼き頃から彼と鍛錬を共にしていた比企定紀の姿をした歩花の幻覚だった。
「ぐぅ――」
確かだった平らな足元が、不意に指先で突いたスポンジのようにぐにゃりとへこみ、右足を取られる。真っ白い空間の地から左一の身体を貫こうと真上目がけ出現した無数の聖属の針山に、無理矢理左足で横に飛ぶが、回避しきれず右脚にダメージを負う。
左一は夢魔の夢の中とはいえリアルな痛みを左肩と右脚から感じながら、どうしたものかと考えていた。
定紀の姿をした幻に意識を配りつつも、左一は敵の後ろで、椅子に座るような姿勢で宙に浮いている人物に目をやる。
そこにいるのは紛れもない歩花ではあるが、先程のような幼女の姿ではない。今の彼女は、成長したらそうなるであろう二十歳前後の大人の女の姿だ。紫がかった髪は腰まで長く、肉感的な身体は必要な場所を隠すだけの挑発的な衣装に包まれている。
話し合うことだけを優先した左一の手の中に退魔道具はない。たとえそれを持って夢の中に入ろうとしたところで、おそらく歩花の意識がそれを許さないだろう。夢魔の夢に持ち込み可能なのは万能の力を持つ聖書のみ。
左一の精神力ならば痛みをいくら感じたところで夢魔の夢に傷一つつけられることはないだろうが、懸念すべきは自分よりも、時間が経つほどに歩花の救済は難しくなることだ。
「……手間取る相手じゃねえんだがな――」
左一の知る比企定紀の実力はこんなものではない。現実よりもはるかに、今の幻は大きく劣る。それもそのはず、定紀は歩花が赤子のときに死んでいる。歩花は退魔師らしい実父の姿など知らない。だから歩花の夢の中にいる目の前の男は、定紀の後に聖書を継いだ笹永陽人の動きや技の模倣しかできない。
現実ならば退魔道具などなくても、容易に勝てる相手だ。
「夢魔の魔石も使えねえとはな」
<そりゃー、夢魔の夢の中だ。今のあんたは、娘の掌の上に自分から踊りに来たようなモンだ>
ちなみに今、左一と歩花の意識の繋ぎの役割をしているのは、ガートルード・ランフランクの父親、マルタである。本人曰く現在は人間界の日本で医者をやっていて、年末のインフルエンザシーズンであるために二階堂家に来るのが遅れたという。
夢魔の世界では歩花のように精神病にかかった患者も、長年多く看てきた。ハロウィーンが歩花の救済方法について詳しかったのも、歩花の状態を耳にいれてすぐにこの男のもとを訪れたためだった。
<それでも娘を助けたきゃ、娘の想像を越えてみな。ハッキリとした欲を持った上でな>
顔面向かって飛んできた聖属の矢を再び回避するため、頭に届くマルタの声に応える暇などない。左一が一息付く間もなく四方八方から彼を狙ってくるダーツとボウガン――これらも陽人が使用していたものだったか。
横に飛び、全力で駆けてすべての武器から難なく逃れる。とりあえずは歩花の攻撃手段を黙らせなければと、先程から何度も試みている定紀と同じ顔をしたものへの接近をまた図った左一。
だったが。
「……?」
どういうわけか、走っている途中まで視界の中にいる定紀との距離が途中から縮まっていないような気がする。それにカラカラと何やらうるさいことにふと気付く。
左一は、これも幻覚かと怪訝な面になり首を捻ったが、マルタに足元を見るように言われて目を落とした。
「……??」
自分が今走っているこれは――床や地面ではない。
エスカレーター。言い換えれば、巨大なランニングマシーン。目を見張っていると、マルタが頭のなかで大きな声で笑いだし突っ込んだ。
<ハムスターか!>
「……――」
走りながら次は上に目を配れば、自分の足元から梯子のようなものが頭上、背後にまで続き、また自分の足元にまで繋がっている。
マルタに突っ込まれて、初めて左一は察した。
これはアレだ――と。ハムスターの檻の中に設置する、そのまんま丸いアレだ。
左一は屈辱に額から青筋を浮かべ、強く踏み込み装置から即座に飛び降りた。
「テメ……ッ」
「殴りたいなら殴れば?」
声を荒げようとした左一に、女性らしく長く伸ばされた自分の爪を眺めながら退屈そうに、歩花は初めて口を開いた。
「昔みたいに。……ていうか、なんで来たの? このままほっといたら長年の願いも叶うのに」
「……あ?」
「私が消えたら、また義母さんと二人きり。邪魔者もなしでイチャつけるもんね。まー、来た意味はなんとなく理解できるけど」
科白の合間。投げやりで、呆れたような溜め息を挟む歩花。
「格好つけて父親ヅラして、嫌々来るしかなかったんでしょ。私を見殺しにして義母さんに嫌われたくないもんね? 離婚されたらあんたの人生終わるもんね~え??」
「……」
「私が死ぬまでここにいていいからさ、ずーっとなにもせずじっとしてるか、そこでカラカラ走ってなよ。どうせ死人にクチナシなんだから、助ける気なんてまったくありませんでした。ってのも義母さんにチクられることなく隠せるし。
娘を救えなかったカワイソーな父親ヅラで、お年寄りになっても死ぬまで義母さんにヨチヨチされて幸せに死んでいけばいい。実際、アンタは可哀想だしね」
しなを作った声と共に、彼女は程よい肉付きのグラマラスな脚を挑発的な仕草で組む。
「生まれついた特異体質のせいで親親戚中からたらい回しの厄介者扱い。そんな人生の中、やーっと体質云々なしで自分を愛してくれるオンナに出会えたのだもの。そりゃあ、サビシイ思いした分慰めてもらいたいよね? 浮かれて一生甘えたくなっちゃうよね??」
左一と茜を養父母として敬う姿勢を今まで崩さなかった普段の歩花からは想像できない、明らかに侮った態度で左一を煽る。
「ちゃーんと理解してあげるからさ。アンタも空気読んでよ?」
歩花は濡れ光った黒いハイヒールを鳴らして地に降り立ち、ふわりと羽を広げて、定紀の幻覚の首に背後から両腕を絡め、身を寄せた。
「私も、『お父さん』と残り少ない余生を水入らずで過ごしたいの。……わかるでしょ?」
「……そいつは、お前の本当の父親か?」
「私のお父さんを殺さないで」
静かな暗い目をした義理の娘の科白が、左一の胸を大きく抉る。
――定紀。
あの時……俺が、もしも――




