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最終章第30話 逃走少女

 光に包まれた小夜の腕が、ありえない方向に折れ曲がった状態からたちまち完全に癒えていく。



(陽人。やっぱりそうか)



 退魔道具である聖書は、持ち主の人格で使える術が異なる。陽人が、小夜が今使用しているような癒しの術を使えなかった理由をなんとなく察して、『辰弥』は眼鏡の奥でゆっくり瞬きをする。


 なのに、他人の為に陽人はよく生きた。

 彼を縛るものはなにもない――小夜への想いを忘れ、自分ももう逝くのだから。

 自分の意識の中に、陽人はいない。半端な同情で自分の最期を止めるような相棒でないことに、心から感謝した。









<おい。聞こえるか?>



 完全に治った腕を驚いて確認していると、不意に頭に響いたミリーの声。思わず顔を上げ、「いたの?」と小夜は尋ねる。



<ここはあの女のテリトリーだっつったろ。赤目青目の力の差関係なく、二階堂の意思で意識干渉も簡単に阻止されちまう。だから、繋がれる内にお前に伝えておく。

 お前、明確な『欲』を持ってここにいるんだろうな?>

「……?」

<いいか。相手は人間じゃねえってこと忘れんな。人間がロマンチックとか呼ぶようなゴテゴテに飾りつけたセリフを吐くなよ>



 ミリーの言うことを理解しきれず小夜が説明を求める前に、辺りの景色がいきなり変わったことに気づいて顔を上げる。


 突然のことなので頭の中で理解が遅れて、景色がどこにあるものなのか暫く思い出せなかったが、よくよく辺りを見渡し眺めてみれば、見覚えがある。



<学校か……?>

「そうみたい。だけど――ここは」



 陽はすっかり落ちていて夜の顔をしているので別次元にいるような気さえするが、小夜が今通学している高校とは雰囲気がまるっきり違う。

 人気がなく静まり返った校舎らしき場所の廊下に立たされ、その不気味さに小夜は聖書を抱きしめ警戒を強めた。


 間もなくガラスが割れる派手な音が遠くから聞こえ、生まれつきの臆病さで強張った彼女の身体が大きく跳ねる。



 女の悲鳴が、聞こえた。




「小夜!!」




 続いて耳に入ったのは、暗闇のその向こうから叫びの混ざった女の声は、はっきりと自分の名を呼んでいる。


 一体何事かと戸惑う小夜の耳に、なにかが近づいてくる音が聞こえる。人の足音だった。なにが来るのだろうか。

 廊下には明かり一つついていない。外には月も出ていないのに、何故かはっきりと見えたその人影。




 一番に凝らされた彼女の目に入ったのは、紺を基調としたブレザーの制服。




「――」




 前につんのめりながら、それは荒い息遣いが自分の横を通りすぎていった。

 目尻から涙を流し、恐慌の張り付いた形相のそれに、小夜は面食らって自分を通りすぎた背中を振り返った。




 暗闇で完全にかき消えるまで、制服姿の背中を呆然と見届けた。とても見覚えがあるそれは、確か小夜がかつて通学していた中学のものだった。

 そして、あの顔は……




「私……?」

「笹永君! 笹永君!!」




 また、悲鳴にも似た女の声が聞こえた。正気を半ば失ったような響きがあったが、小夜はその声の主を知っているような気がした。

 まさかと思い、数年前の自分が背を向け逃げた場所へ彼女は走って向かう。



 

「市辺さんだけでも安全な場所へ!」

「笹永君たちは!?」

「僕たちはいい! 覚悟があって僕たちはここにいる!

 女子が男子一人背負って逃げられないだろう!!」




 廊下の真ん中に天井にまで届く、黒い大きな影が佇む。その前には、大槌を片手に対峙する『辰弥』の歩花と、彼の後ろで血塗れで倒れている陽人、彼に寄り添っている小夜の親友の真優たちの姿。よくよく見れば辰弥の片腕は奇妙な方向に曲がり、なんとも痛々しい。


 げげげげ、という低い声が廊下の窓の外に首を回せば、金色の目玉がじっとその光景を静観していた。しかもよくよく見ると一匹だけではない。

 ずらりと小さく耳の尖った化け物たちが、瞬きをして窓に張り付き、辰弥たちを嘲笑うような鳴き声を耳まで裂けた口から漏らしている。




「覚悟って何よ!? ここで死んでも大丈夫って、そんなわけないじゃない!!」

「気持ちはわかるが、市辺さんまで巻き込むわけにはいかない!」

「笹永君!!」




 歩花の制止も聞かず、真優が陽人の片腕を自身の細い肩に回し、どうにか必死に持ち上げようとする。



「市辺さん!!」

「駄目よ! 笹永君だけでも……!!」



 得たいの知れない大きな化け物を前にしても、真っ赤に染まった陽人の身体を見ても、真優は逃げるどころかその場に留まり、陽人のことを気に懸けている。

 小夜と同じ、無力な人間にも関わらずだ。




「っ……」




 ぞくりと寒気が身体中を駆け抜け顔を上げれば、いつの間にか歩花の前に立っていた巨体が小夜の前に立っていた。


 顔さえ見えなければ十分すぎるほどの筋肉がついた大男だ。口からはみ出した鋭い牙、頭蓋から皮膚を突き抜け飛び出した大きな角と血走った両目は明らかに人間離れしていて、小夜の足がすくむ。




<逃げていいよ>




 彼女の頭の中で優しく囁くのは、ミリーではない。




<夢から早く出ないと、殺されるよ>




 化け物の大きな拳が、小夜に向かって振り上げられる。父親にさえ殴られたこともない、蝶よ花よと育てられた彼女の目には、丸太のような腕から振り抜かれるその拳の威力など想像もつかない。




(駄目……逃げたら駄目)

<逃げて――>




 理性と、楽な方に逃げようとする本能的な恐怖がせめぎ合う。逃げようと思えばすぐにでも覚醒し、現実に戻ることはいつだってできる。


 葛藤が、複雑に混ざり合った感情が小夜の頭の中でスパークし、スローモーションで振り下ろされる拳を見つめることしかできない彼女の目の裏でバラバラの光景が目まぐるしく早送りされた。




 嗚呼……冬だった。あの日は、確か。




 陽が沈むのが早かったあの日。数学の小テストの日に風邪をひいて休んだツケが、あの日の放課後に回ってきたので居残りをした。

 真優から借りたノートを借りっぱなしだということに帰り道気づいて、彼女が家に帰って宿題をやるとき困らないようにと、まだ真優が部活で学校にいる間にと学校に引き返した。


 すっかり陽が落ちてしまった学校の校舎で、自分は今目の前にいる化け物に襲われ、陽人と歩花に助けられ、皆を見捨てて一人逃げたのだ。




(なんで、忘れてたんだろう……)




 みんな、自分のために戦ってくれていたのに。しかしそれにたいしての答えは、もう小夜自身わかりきっていた。自分が、忘れたいと願ったからだ。

 心が凍りつくほど冷たいセノフォンテの視線も、何度も覚えがある。それも幼い頃から。自分に何度も幻覚をかけ、過去をすり替え、恐ろしい出来事を忘れさせる度に、彼の軽蔑の目の鋭さは増していった。





<逃げろ――>





 優しい辰弥の声。何度も頭の中で心地好く繰り返される。


 その合間に小さな少女の声が割り込んで、意識の中に流れ込んできた。





<逃げたい……逃げたい……>

<歩花を連れて逃げろ!>

定紀さだのり君!!>




 ガードレールを突き破り崖から落ちた車。運転していた男は、ぴくりとも動かない。聖書の光に包まれ守られ、なんとか車から這い出た女は、聖書のバリアで地面との衝撃を受けなかったためか、静かに眠ったままでいる腕の中の赤子をめ一杯誉めながら草木の中に隠した。




<逃げたい……逃げたい……>




 膝を抱えて、紫がかった黒髪の少女が部屋の隅で一人泣いていた。

 そして、呟いた科白は――






<にんげんに、なりたい>









 人外の大きな拳によって、小夜の華奢な身体は遠くふっ飛ばされた。ぽん、と軽々打ち上げられ、校舎の廊下に落ちて転がる。

 長いようで短い静寂が訪れ、微動した肢体。けほ、と細い喉から小さな咳がようやく洩れた。

 聖書を片腕で抱えた『無傷』の小夜の身体が、むくりと起き上がる。



 体勢を立て直し俯いた小夜は顔を上げ、前髪で隠されていた双眸をまっすぐ持ち上げた。その時の彼女の両目は、誰にも見せたことのない強い決意と光に満ちていた。


 ゆっくりとした足取りで、再び巨体を揺らし化け物が近づいてくる。小夜はそれでも臆する様子を微塵も見せずに、静かにその美しい声で、凛と唇を割る。





「……なにを怖がってるの?」





 巨体の足取りが止まる。小夜は化け物を見据え、構わず続けた。




「そんな幻覚に頼って、私をここから追い出そうとして、なにが怖いの――?

 本気で追い出したいなら、自分の手でやればいいじゃない……」




 『使い方は聖書が教えてくれる』――陽人からこの聖書を受け継ぐとき、そう彼が教えてくれた。その意味を、小夜はここで理解する。





「歩花……『お父さん』が、心配してる。

 ……左一さんも。『本当の』お父さんのほうも」

『……』

「聖書の中で、ずっと歩花を心配してたって」




 化け物は物言わず、制止したまま動かない。

 小夜は聖書を抱く腕に力を入れ、「ごめんね」と一言謝った。




幻覚これ、邪魔だから。退けるね」




 まばゆい光が聖書を中心に広がり、化け物たちや景色を飲み込む。





 再現された景色を打ち払ったその先には、真っ白な空間にぽつんと立っている細い影。

 先程と同様男子の制服を着ているが、チグハグさが否めない今度の服の中身は、本来の少女の歩花――彼女は大槌の長い柄を片手で握り、やや首を横に傾けつつ、暗い卑屈な瞳で小夜をじっと見つめていた。









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