最終章第27話 二人の覚悟
再び二階堂家に戻ってきたセノフォンテたち。その気配に気づいた陽人、茜たち退魔師の心得のある者たちに付いて一階の和室に皆が揃う。
「覚悟はできたか? 今度こそ――」
「待ってください」
「歩花の安楽死を」と続けようとしたセノの科白を遮ったのは、他でもないリーフェルトだ。
鬱陶しげな視線をやったセノに臆さず、リーフェルトは挑むように決意の篭った目を備えている。
「そんなに歩花を醜い干物にしたいようだな」
「貴方もインキュバスなら、歩花を目覚めさせる方法を知っているはずでしょう。僕は、今からそれをやります」
事情を知らない人間たちが皆、驚いてリーフェルトに視線を集めた。セノは更に顔を嫌悪に歪め、ハッキリと言いきった。
「誰からの入れ知恵かは知らんが、お前では無理だ」
「絶対に、起こしてみせます」
「無理だ。今更、時間の無駄だ。今まで歩花の血を拒絶してきたお前のことを、歩花がまだ信じられると思っているのか?」
「まあ、目覚めさせる方法があるってのは、俺も医者の親父から聞いたことはある。『繋ぎ』になるインキュバスも、この場に幸い何人かいるけどな……」
難しい顔をして発言したガートルードと同じインキュバスでありながら、夢魔の病に知識のないミリーとシュガー二人が『繋ぎ』の意味を理解できず顔を見合わせる。
「目覚めさせた後がどうなるか。ってハナシだろ?」
「その通り。目覚めさせたらハッピーエンド、めでたしめでたし。という話ではない。患者に長年我慢させてきた不満分をできるだけ満たすことができるように、周囲が十分に理解してやらねばならん。そうでなければ同じことをまた繰り返すだけだ。
歩花が患っている病の場合、覚醒した患者の大体は、欲が失われ無気力状態になるか、今までの不満のタガが外れたように欲に奔放になるかのどちらかになる。前者はとにかくとして、後者のほうに歩花が転がった場合お前らはどうする? サキュバスらしくなった歩花を汚物を見るような目で見るのか? そっちのほうがよっぽど残酷だと思うがな。――リーフェルト。
歩花が性に奔放になった時。お前はどの程度まで恋人の浮気を許容できる?」
するとリーフェルトは動じたように目を一度泳がせて、暫し考えた後に口から出た答えは、
「……許容は、できません」
「話にならんな」
「そうですね。他の男に触れさせるくらいなら、僕が干からびて死にます」
以前のリーフェルトからは考えられないその回答に、感心したようにガートルードが口笛を吹く。
皆が見ている中、リーフェルトはそっと歩花が眠る棺に寄り添い、彼女を見下ろした。
「『王子』を捨てる覚悟は」
「……僕がこれから行く道には、歩花に傍にいて欲しいんです。
人間の世界でも、王子としてやるべきことは多くあるはずですから」
リーフェルトは歩花の頬を撫でて、静かに詫びた。
自分は、我が儘ばかりだ。王子の自分も、男の自分も、どちらも捨てられない。
人間の世界で、共に生きよう。
人間のふりをしながら。どこまでも化け物らしく――どこまでも欲深く――。
その結果、命の残り滓まで精気を搾取されたとしても。溺れるほどの愛の中で死ねるのなら、それもいい。
「私も、行きます」
リーフェルトが決意を示した流れの中で小夜がそう発言したときだった。
皆が意外な人物が口を開いたことを驚いたが、「は……?」と言ったセノフォンテの氷のような低い声に、和室の空気までもが一気に凍り付く。
「……はあ……?」
セノの双眸とまともにかち合い、か弱い女の小夜は圧倒的な彼の敵意に足が竦み、身体が震え上がった。恵まれた外見と愛らしい性格で当然異性に好かれ、大抵の同性にも人気があった小夜にとって、これほどまでの嫌悪の感情を向けられたのは、生まれて初めてだったが故に。
「……なんだ? その怯えた目は。
俺のような弱く低俗なインキュバスに対しても震える甘ったれが……」
ゆっくり小夜に大股で近付き、小夜の頭を無造作に掴むセノ。指の間から、彼は鋭い眼光で小夜を見下ろしてくる。
「さて……今からどんな悪夢が見たいのだ?」
「……っ」
「八つ裂きにされて血反吐を吐き激痛に悶える夢か? あばらと腕をへし折られて脂汗をかきながら地を無様に這う夢か?」
赤く灯る瞳。その更に奥から隠しきれぬほどの強烈な軽蔑を読み取り、小夜は自分の両目を閉じる。
しかしそれは、恐怖からの逃避ではない。身体中から汗が吹き出るのを感じつつ大きく深呼吸したのは、自分の心を落ち着かせるためだ。
「……やっぱり。昔、なにかあったんですね。私と歩花の間で」
「小夜……!」
「いい。お母さん。なにも言わないで」
自分を庇おうとした母を言葉で制して、自らセノと再び目をかち合わせる。
「……今なら、わかります」
「わかる? 何がわかる?」
「真優が危ない目に遭ったときの私と、同じように……」
それは、ヴァンパイア騒動の時に自分よりも年下のみやびに、頬を打たれたあの時のことだ。
「きっと、貴方もそうだったんでしょう? 大切な友達や身内が傷つけられたら、いても立ってもいられなくて、落ち着かなくて、誰かに八つ当たってしまうくらいに。……私を守るためにどれだけ傷ついても、歩花を見ようとしなかった私だから。貴方に恨まれても仕方ないって」
本能的な恐れから舌を何度縺れさせても、最後まで小夜は乾いた喉から言葉を振り絞る。
「……なにがあったか。歩花から直接聞きたいの」
「聞いてどうする。今更な話だ」
「……」
身体の震えは止められなくとも、一切揺らがない眼差しで小夜はセノを見据える。
『知らなかった』ということがどれほど罪深いことかということ。今の小夜にはそれが痛いほどにわかっている。
自分がなにを失っても、その失ったことにさえ気付かない。それがどれほど怖いことかも思い知らされた。
陽人からの想いの深さにも気付けず、楽観的に生かされ、生きてきた自分を変えるために。
セノから解放された彼女は受け継いだ聖書を抱き締め、目を閉ざしている歩花を見た。




