最終章第25話 親孝行
「何の夢を見ているんだろうね」
「きっと楽しい夢なのでしょうね。ずっと、起きたくなくなるくらいに」
長い睫毛を穏やかに伏せている娘の友人を見下ろす小夜の両親。
「……歩花ちゃん。頑張ったわよね?」
「ああ……本当に。感謝してもしきれない」
特異体質の小夜を、陽人よりも長く命を懸けて守ってきた歩花を身近に見てきた彼らは、両目に涙を湛えている。
小夜の母親は、抑えきれない涙声で眠る少女に賛辞を漏らした。
「この子は立派だった。本当に、“いい子”だったわ……」
「……“いい子”って、そんなにいいことなの?」
しかし、ぽつりと耐えきれず呟いたのは真優だった。
「自分のために生きるって、そんなに悪いことなの?
いいじゃない。『結局サキュバスの血が入っている』って誰かに指さされて生きたって……自分勝手な連中なんて、人間の中でもたくさんいるでしょうに――」
ぶつぶつと口の中で文句を吐くも、その合間に真優の頬が目尻から溢れ落ちていく雫で濡れていく。
「仕方ないよ。そーやって死にたいって歩花ちゃんが言ったんだもん」
「本人が希望してんなら、止められもしねーよ」
シュガーとミリーの二人が、場違いなほど退屈そうで呑気な声を上げたのを真優が涙目で強く睨んだ。
「しょーがないじゃん」とシュガーは先程よりボリュームを落とした声で、『お手上げ』といった様子で繰り返した。
「なんとかしよーとはしたよ? それは真優ちゃんにだって話したじゃん。
僕がフレンチしてやってベッドに組み敷いてやっても『お父さんとお母さんの“いい子”のままで死にたい』って笑って言うんだから」
棺に眠る歩花に半ば呆然としつつその場を静観していたリーフェルトの頭にハンマーで殴られたような衝撃が走る。
「『ずーっと欲しかったキスももらえたし、私なんかをベッドに誘ってくれて嬉しかった』って満足して眠って、それっきりだよ」
「『退魔師として誰かのために死ねるほど名誉なことはないから、悔いはない』ってよ」
元相棒でありながら、陽人も嘘のように淡々とシュガーに次いで発言している。どうやら陽人は女子たちとは反対に、歩花の死をまっすぐ受け入れるつもりでいるようだ。
「大した親孝行ってやつだな。ったく」
呆れて肩を竦めたミリーの片足を思いきり踏みつける真優。
短い悲鳴を上げとうとう真優を睨み返すミリーだったが、真優は咄嗟に棺に眠る娘に覆い被さる茜と、壁に背を預けたまま腕を組み押し黙っている左一を交互に気遣わしげに見やる。
皆が空気を察し、和室が静まり返る。
「……祖父母から――」
長い静寂を乗り越え――ようやく絞り出されたかのような茜の声は泣き疲れたようにか細い。
嗄れきっていて、痛々しかった。
「私の祖父母から伝えられてきた教育を、我が子にしてあげることが娘のためだと……。
だけど……こうなるくらいなら、そんなもの……。
容易に異性と肉体関係を結ばないようにと縛るなら……それ以外でこの子の本能を満たす方法をもっと一緒に探してあげていたら……」
茜は狐の姿のまま、自分の顔を歩花の白いドレスに何度も押し付け、首を横に振り始める。
「……それ以前に……っどれだけ汚れてもいいから……生きていてほしかった。
こんなくだらない、お、親孝行で失うために……育ててきたわけじゃ……」
そこで言葉を止めて、再びしゃくり上げる。
歩花の死が話に出た数日前から今まで、茜はきっとこうやって泣き続けていたのだろう。
あんなに艶がかっていた茜の毛並みは傷んでいて、うっすらと骨格が浮いてあまりに小さくリーフェルトの目に映った。
ハロウィーンはそっと畳に膝をついて、茜の背中に手を置き労った。
彼もそんな彼女にかける言葉もなく、皆を見上げる。
「……とりあえず、子供たちは部屋を出て。一度外の空気でも吸ってきなさい。その方がいいわ」
ハロウィーンが言葉にした気遣いは理解できる。だが、部屋から一度出ていったところでこの状況が変わるわけでもない。それがわからないほど、自分たちは子供ではない。
部屋から出たところで、一体何の前進があるのだろう。
歩花の死を受け入れやすくなるという点での、『前進』以外に……
「リーフェルト王子」
一人だけハロウィーンに呼び止められ、立ち止まり振り返るリーフェルト。
「貴方は少し、この場に留まっていただきたい」
左一と茜とハロウィーン、眠っている歩花だけが残った和室の一室。彼は返しかけた踵を止めた。
一方。部屋から出た少年たちのうち、真優と小夜が一度二階堂家から出る。
緊迫した空気に押し込められた二酸化炭素を吐いて、新鮮な酸素を肺に取り入れる小夜。それでも、沈んだ気持ちはまったくといっていいほど浮き上がらない。
玄関の外、幼馴染の家の前を歩く人たちや通りすぎる自転車をぼんやりと眺め、無言になる。
何を話せばいいのか。話す気にさえなれない。いつも幼い頃から普通に隣にいた人間が突然いなくなる。
その事実に向き合わなければならないのに、何故か小夜の中で現実味が湧かなかった。
「もっと親身になって、話を聞いてあげていたらよかったのかな」
「……」
「中学から一緒だったのに」
真優の科白に、なにも言えない。小夜は言えるはずもなかった。
小夜は中学からどころではない。ずっと幼い頃から歩花と一緒だったのに、真優以上に彼女を知らない。
人間だと思っていた。しかし人間ではなかった。男だと思っていた。しかし男ではなかった。そして真優は、それを知っていたのに。自分は一体なんだったのだろう。
(一緒……だったんだよね……?)
自問自答してしまう。小夜が自身に対してそれを行うのは、記憶がぽっかりと失くなってしまっていたからだった。
歩花は小学生中学年の始まりまでは女子として普通に過ごしていたというが、女子だった頃の歩花をまったく思い出せない。
(なんでだろう……)
部屋にあるアルバムを何度も見返した。しかし女と過ごしていた頃の歩花の写真はどこにも見当たらない。自分の母親に確認したが、やはり無いようだった。
(……そういえば。『家にはない』って、お母さん……)
思えば、歩花はどちらかといえば小夜に自分が女だとあまり明かしたくない様子だった。まさかと思い立って、小夜は一言真優に「ちょっと、ごめん」と断り、歩花の部屋に向かう。
もしかしたら、幼い頃の自分たちの写真が歩花の部屋にはあるかもしれない。
今更、特に急いて見つけるものではない。そう考える自分もいるのに足を止められないのは、異常なほどに自分が歩花のことを忘れているからだ。
いつから自分の傍にいるのかわからないのが幼馴染と言われればそうかもしれないが、そんなものとは違う。言い様のない奇妙さが、小夜を動かしていた。




