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最終章第24話 冷たい禊

 カーヤを部屋に置いて、マンションの窓から黒い羽を広げ飛ぶ。


 やはり思った通りだった。部屋を出ると頭の中がクリアに澄み渡り、自分の目的も大切なものもはっきりと思い出せる。マンションの屋上まで上昇すれば、屋上の隅――地上と空中の境界に座っている見知った顔と目が合う。

 その傍らに降り立ち、「やはり、貴方でしたか」と低い声で言ったリーフェルトに、セノフォンテは氷のような眼差しで彼を見つめ返した。

 リーフェルトの先程へのカーヤへの想いは、夢魔の誘惑によるものだ。もしあのまま理性を捨てて口付けやその先になどいってしまっていたら、歩花や自分だけではなく、カーヤの心にまで深い傷跡を残すところだった。



 怒りを抑えているリーフェルトに対し怯むどころか、形のよい唇をニヤリと吊り上げ、セノはなにかを彼に投げつける。

 懐に飛び込んできたそれを受け取り確認すると、見紛うことなきリーフェルトのスマートフォンだ。



「不在の間、LINEの既読は着けておいた」



 意味のわからないことを言われ眉をひそめてLINEのアプリを立ち上げるリーフェルト。トーク履歴に目を通すなり、言葉を失い顔色を一変させたリーフェルトを見てセノは噴き出した。

 画面に灰色の瞳を釘付けにしたまま、スマホを持っている手が震える。何も持っていない空いた手が、耐え難い衝動に駆られて拳へと変わる。



 凍てついた夜空に、すぐに耐えきれないと言わんばかりの悪魔の哄笑が響き渡った。



「さあ、どうするのだ!? どんなツラをして友人に会う!?」

「……」

「ざまぁみろ!! これからの長い人生、少しは後悔して生きるんだな!!」



 リーフェルトはスマホを握っていた右手ごと下ろし唇を噛んだ。












 二階堂家に訪れたリーフェルトを迎えたのは、左一だった。


 今まで何をしていたのかと殴られることを覚悟していたが、彼は重い口を一切開かぬままリーフェルトを中へ迎え入れる。

 おそらく陽人ら友人たちのものであろう靴の群れに自分の靴を加えたリーフェルトが通されたのは、一階の奥にある畳の和室だった。


 襖を静かに開けば、一斉に自分に集まる友人たちの視線――陽人、小夜、小夜の両親、真優、ガートルード、ハロウィーン、そしてシュガーやミリーたちまでもがそこにいた。



「……今まで何してたの?」

「……言い訳はしないよ」



 冷たい真優の非難を受け入れ、リーフェルトは部屋の中へとゆっくり足を踏み込んでいく。

 じっと覆い被さる狐姿の茜の下で、美しい月夜から柔らかく吹き込む風が、白いドレスの裾を優しく揺らしていた。


 リーフェルトが身を寄せ見下ろす先には、白いドレスを着せられ、化粧を施された歩花が棺の中で目を閉じていた。












「……まだ手間取っているか」



 リーフェルトが入室してから少し遅れて登場するなり、セノが呆れたように言う。

 「だって退かないんだもん」とセノの友人のケヴィンが、珍しく男のスーツ姿で肩を竦めた。



「もう起きないって何度も言ってるんですけどネェ」



 ケヴィンの片手には、透明な液体の入った注射器が握られている。棺の中で眠る娘の腕を全身で隠しうつ伏せになっている茜は、その科白が自分に向けられたものだと理解していてもなにも言葉を返さない。



「良い加減諦めろ。こうなってしまってはどうにもならんのだ」

「……」

「……狐の母親。痩せ細って醜く死ぬ前に、まだ肉がある美しいうちに安楽死させたほうがいい」

「そうですよぉ。僕だったらミイラになんてなるくらいだったら死んだほうが百倍マシですね」

「貴方も同じ女なら、わかってやってくれ」



 セノとケヴィンが二人で説得しても、茜は反応しなかった。一歩ケヴィンが近付こうものなら、更に自身の体重をかけて鋭く叫ぶ。



「来ないで!! この子に近付かないで!! 歩花、歩花……――」



 驚くほどに青ざめ、痩せてしまった娘にすがってさめざめと泣きだした。


 その場にいるほとんどの人物がそんな茜に悲痛な目を向けているのに、相反して非情な目になるケヴィン。



「……うちひしがれてるところ申し訳ありませんが?

 アナタ、歩花それを夢魔の血が流れているとわかった上で育ててきたんですよねぇ?」

「……」

「それなのに、古き良き日本女性? ヤマトナデシコかナニか知りませんが、夢魔の本能を否定する教育をなさってきたのはアナタでしょう?

 本来『それ』は、昨年に冬を迎えられず死んでいたはずだったのに」



 傍で聞いていたリーフェルトは、信じがたい気持ちでその言葉を聞く。


 歩花が死んでいたとは、どういうことだろう。今まで生きていたこと自体が奇跡だと言うような口振りだ。



「徴候は、去年高校入学当時から表れていた。

 女の悦びも知らぬまま、夢魔の自分の血も誇れぬままでも時折瞳が赤く変わっていた」

「……瞳が、赤く……?」

「自らの人生に限界を悟り、終着を見いだし得た、諦めの先にある充実感と達成感だ。だから本能が満たされた状態と同じになる」



 あの夜、悪霊と対峙したときに見た歩花の赤い瞳を思い出す。そして、セノの説明に得心するリーフェルト。

 やはり、彼女はあの時本気で死ぬつもりだったのか――と。



「でも歩花はまだ、生きているんですよね……?」

「呼吸をしているだけで『生きている』と呼べるならな。

 夢魔特有の種族病だ。無意識に自分に夢魔の術をかけ、少しずつその夢に溺れ、現実と夢の区別が付かなくなり衰弱し死んでいく。現実のほうを幸せと思っているなら、決して自分の魔力が見せる夢に引っ張られたりなどせん」



 そこで「あのさ」と今まで黙っていた真優が口を割る。割りきれないような彼女の目は、リーフェルトに向いていた。



「今夜歩花を安楽死させるかもってみんなでLINE送ってたのに、なんでもっと早く来なかったの?」

「……それは」

「既読ついてたのに。どうして」

「ヴァンパイアの婚約者候補が『泊まりに』来ていたからな。その女の手料理に受かれすぎて来られなかったらしいぞ」



 リーフェルトが返答に迷っている隙に、セノの発言がその合間に巧みに滑り込んだ。



「……は……?」



 呆然とする真優。すかさず否定したかったが、セノの術にはめられ、作られたパン粥を喜色満面で頬張っていた自分を思えば、探ろうとした言葉さえ見失う。



「えっ……心配してるフリして元カノにトドメ刺しに来たの?」


 

 小首を傾げ、シュガーも会話に乗ってくる。部屋の襖に近付き、横にスライドさせて廊下を覗き込む素振りをした。



「今カノも連れてきてたりして――」

「異世界からだと長旅だからな。ヴァンパイアは体力があるとはいえ、流石に今頃は『王子のベッドで』お休み中だろう」

「それって生まれた姿で?」



 インキュバス二人が軽口を叩くほどに真優が軽蔑の眼差しを、小夜が悲しそうな目をリーフェルトに注ぐ。ガートルードは呆れたように溜め息を吐き、陽人は関心などなさそうに棺に横たわっている元相棒から目を離さない。


 リーフェルトは自分の顔が屈辱に赤くなるのを感じていた。腸が煮え繰り返る思いだ。自分の間抜けさに拳を握り締め、叫びだしそうになるのを堪えた。



「狐の母親。聞いていただろう。王子ではもう無理だ。

 どうせお前たちは歩花よりも早く死ぬ。このまま誰からも正しく愛されず、その場かぎりの同情で生かされ続けるよりは、歩花の望み通りここで死なせてやったほうがいい」

「……」

「これ以上は無理だと、歩花自身が悟ったのだ」



 また、嗚咽を漏らして泣き始める茜。

 彼女の身体を退けようと手を伸ばしたセノを、静観していたハロウィーンが咎めた。



「娘の安楽死なんざすぐに決められるわけねえだろが」

「ならどうする。干からびて死ぬのを眺めて待つか?」

「せめて気持ちの整理がつくまで待ってやれよ。別れの言葉もなしで見送らせるつもりか? ガキは親の気持ちがわからねえからいけねえ」

「他人のガキの相手しかしてこなかった男に言われたくはない」

「そーかい」

「仕方ない。多少の時間はくれてやる。……だが、あまり悠長には待ってられんぞ」



 半ば投げやりのような態度で言い残し、セノは早足でその場を去っていく。


 ケヴィンもそれに続いて退室したのを見届けてから、ハロウィーンが部屋の壁に背を預けていた状態からまっすぐ立ち、茜と歩花の傍に寄った。



 部屋に残された者たちが次々溜め息を漏らし、緊張が張り巡らされた空間が少しだけ和らいだが、陰鬱な皆の気持ちだけは拭いきれなかった。








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