最終章第23話 誘惑と後進
王の書斎――リーフェルトの両肩に両手を置いて、父ダリアが語りかける。静かな声で話す父をまっすぐ見上げ、彼は一語一句聞き逃さない。やがて話を終え、ダリアから踵を返し書斎を後にしたリーフェルトは、大きな扉を後ろ手で閉める。
その姿勢のまま少し俯き、思考しているようなリーフェルトの鼻腔を、不意に清楚な甘い匂いが微かにくすぐった。
「……」
顔を上げると、闇の色のごとき黒いドレスを着こなし、長いブロンドの女性をきちりと纏め上げた女性が、じっとリーフェルトと同じ灰色の瞳で自分を見つめている。
リーフェルトの母親であり、王妃のトリーシャだった。
「……母上。僕は、本当に――」
「捨てられないなら、無理に捨てなくても良いのよ」
トリーシャの言葉に、悲しい顔になるリーフェルト。そんな息子に、赤いルージュの乗った滑らかな唇を母は再び開いた。
「王子の役目は、この世界でなくても果たせます。
人間たちと肩を並べ、命をかけてあのサミュエルを止めた貴方ならわかるはず」
「……」
「欲深き者は身を滅ぼしますが、すべての欲を失えば、死者と同じ。
戦争で愛する人を失い、転移したこの世界で明日も見えなかった頃の私のように――」
それまで重く結ばれていたリーフェルトの口が、無意識に綻ぶように小さく開かれる。
数日後――ヴァンパイアの名家、メイトランド家長女フィア・メイトランド誕生パーティー当日。名の通った貴族たちに一通り挨拶を済ませることで表面だけでも王子としての役目を果たしたリーフェルトは、城兵に守られながら正装姿のまま人間界に向かう。
ヒールを鳴らし、長い深紅のドレスを人目も気にせず翻しカーヤ・メイトランドがリーフェルトを追って屋敷の外まで駆けつけたときには、既に彼の姿は消えていた。
「僕のスマホ――確かにここに……」
年末の十五時に日本に降りたリーフェルトは自分の勉学用の机を漁る。実家に帰省しているときは人間界でしか使えない道具は決まってこの机の中に入れておくのに、何故か見つからない。ひょっとしたら彼女からなにかLINEや着信でも届いているのではないかと思っていたのだが。
ないと不便ではあるが、リーフェルトは早々にスマホを見つけだすのを諦めると、正装から普段着に着替え慌てて外出し、歩花が住んでいるアパートに向かった。
暫し電車に乗り、辿り着いた彼女の部屋の前でボタンを押し来客を知らせても彼女が中から出てくる気配はない。また眠っているのだろうかと仕方なく塵化し、頼れるセキュリティが鍵と古いチェーンしかない、薄っぺらな隔たりの隙間から部屋の中へ侵入する。
「……?」
彼女の部屋のベッドを確認するが、もぬけの殻だった。一人暮らしといってもあまりに静かすぎて不気味なほどに、人が生活していた痕跡などまったく見えないように思えて、不安が胸に居座る。
今、手元にスマホはない。彼女の様子を知る人たちにもすぐに連絡できず、踵を返した。早く戻って、陽人か小夜に会って話を聞かなければ――。すぐそう思いたち、塵化して部屋の外に出て数歩歩いた後。抗いようのない睡魔に襲われ、リーフェルトはアパートの階段からバランスを崩し転がり落ちた。
次に黒い意識が再び彩りを取り戻した時、陽はすっかり落ち、外は闇に包まれていた。リーフェルトが開いた灰色の瞳には赤い光が一瞬だけぼんやりと宿り、そのまま消え失せる。
頭の中がハッキリしないが、どうやら辺りを見渡す限り、自分は自宅のマンションにいるようだ。寝慣れたベッドから身体を起こし、モヤがかかったような頭を振った。
「リーフェルト王子?」
不意に名前を呼ばれ頭を上げる。心配そうながら凛とした調子を残したその声は聞き覚えがあるものだったが、この場で絶対聞くなどありえなかった。故に、声の主を見て自身の目を疑う。
「カーヤ……メイトランド嬢?」
緩やかに波立つ紺碧のショートヘアと、その波間からきらりと覗く金色のピアスを揺らし、ドアの傍からリーフェルトが上体を起こしているベッドの傍へ近付いてくる。
「太陽に対して耐性のない貴方が、何故……?」
「パーティーを抜け出した貴方が心配で……。陽が落ちる頃を狙って、追いかけました」
「追いかける? 僕を?」
「はい。姉にも背中を押されたので。だから、家に帰っても怒られません。大丈夫です」
安心させるように小首を傾け微笑みかけたカーヤ。
服装はパーティーの時の正装のまま、化粧が少し落ちているのを見ると、本当に大急ぎで追いかけてきたらしい。
そんな彼女の笑顔は、今までリーフェルトが見てきた彼女の笑顔の中で一番愛らしく、ドキリと胸が高鳴る。パーティーでは早く人間界に帰らなければと焦るあまりに彼女の顔を直視できていなかったか。今よくよく見れてみれば、暫く見ないうちに随分と彼女は大人びて美しくなったように思う。
「……リーフェルト王子?」
「……!」
「大丈夫ですか? 随分とお疲れのようですが」
違和感の残るぼやけた意識越しで見とれていると、いきなり顔を覗きこまれ、慌てて身を引くリーフェルト。まるで微熱に浮かされたような気分だが、決して不快ではない。寧ろ心がふわふわと宙を漂っているように心地良い。なんとも言えない多幸感に、思考そのものを放棄したくなるほどに。
「一体、なにを慌てていらしたのですか?」
「……え……?」
「パーティーを途中で放棄しなければならないほど、大切なことなのでしょう?」
「……あ……。……えーと……」
キラキラと揺れる長いピアス、少し垂れ目気味の大きな瞳、天へ持ち上げられた長い睫毛の先、真っ赤な唇――カーヤのすべてに気をとられて、考えが上手くまとまらない。彼女が、こんなに魅力的な女性だったとは思わなかった。
「ゆっくり横になってお休みになってください。私の側近に頼んで、王子の部屋のキッチンでなにか温かいものを作ってもらえるように頼んでみます」
リーフェルトをベッドに再び横たわらせてから、軽やかな足取りで部屋から出ていく幼馴染。そういえば彼女は、姉だけではなく妹が二人もいたんだったかと思い出す。とても面倒見が良い。ヴァンパイアの世界の流行り病にかかったときも、母や姉が仕事に追われていると彼女が様子を見に来てくれたものだった。
(様子を見に……)
寝たまま天井を見上げ、頭の中に思い浮かぶのは不思議とカーヤとの思い出ばかりだ。今まで今日のように彼女との思い出に浸ったことなんてなかった。こんなにカーヤのことばかりを考えてドキドキするなんて、自分はどうしてしまったのだろう。
そんな調子で他のことが考えられず時間が過ぎていく。やがてパン粥を両手に部屋に入ってきたカーヤに、頬を染めて喜色を浮かべ、リーフェルトは起きた。
「ありがとう」
「食べられますか?」
「うん。君の手料理なんて、初めてだなあ! 嬉しいよ!」
オートミールの入れられた器を受け取り、興奮したように笑う目の前の少年に「えっ?」とカーヤは戸惑う。
「い、いいえ……? 王子。それは、私の側近が……」
「……? 側近の人?」
「喜んでいただけたのに、非常に申し上げにくいのですが」
「……あっ……うん。そうだったね。ごめん」
リーフェルトは謝ってから、自分の発言に首を捻った。
上流貴族のカーヤが料理をするなど、そんなことはありえない。それはリーフェルトも十分理解しているはずなのに、自分はなにを言っているのか――と。
一方でパン粥を口にしているリーフェルトの横顔を少しの間訝しげに見ていたカーヤだったが、彼女はすぐになにかを察したような顔になる。
しかし彼と目が合って、ふわりと何もわからないふりで笑うと、
「王子。すみません、お部屋のシャワーをお借りしてもよろしいでしょうか」
「えっ……?」
「私もパーティーを抜け出して王子を追いかけてきたものですから。その……」
「あ……うん。えっと、今夜泊まる場所は? 早く手配しないと」
カーヤはリーフェルトのベッドの傍で両脚を屈し、跪く。不思議そうな顔をしてレンゲを一度下ろしたリーフェルトの右手の上に滑らかで華奢な白い手を重ねると、あどけなく染まるリーフェルトの頬。手応えを感じるままに、ゆっくり、艶っぽく濡れたカーヤの唇が動く。
「お目障りでなければ」
甘えた子猫のようなアイスブルーの双眸をやや上目遣いに構え、彼を熱を込めてじっと見つめ
「この部屋で一晩、休ませて頂けるのでしたら――」
かち合い、互いを映し合う灰色と青の瞳。吸い込まれるように、自然に、次第に二人は唇をどちらからともなく近付ける。
あと数ミリ、触れ合う直前。
突然咄嗟に後ろに引いた一方が、自身の唇を遠ざけた。
「ううぅうううう」
唇を引いたのは、リーフェルトだった。
「うぅぅうぅうううう゛……」
彼は両手で頭を抱え、何度も声を上げて唸りだす。
「お、王子……?」
「ちがう……」
「え――?」
「ちがう……違う」
「違う……? なにが――」
「違う……」
「……?」
同じ言葉を独り言のようにぶつぶつと繰り返し、要領を得ない。
明らかに様子が普通ではない彼に対する困惑に圧し負けそうになってもカーヤはなんとか言葉を選び、
「なにか、悩んでらっしゃるのですか?」
「違う……」
「大丈夫です。私がおります。私が王子をお守りします。だから――」
「思い出せない……どうして……? ずっと頭がモヤがかってるみたいだ」
「……??」
「守る……そうだ。守らなきゃ。守られるのは、駄目だ……早く、行かないと」
食べかけの粥をベッドの上に置き去りに、シーツから抜け出すリーフェルトを制止するカーヤ。
「どちらへ……? もう少し休んでから行かれたほうが」
「ごめん。ここじゃ、駄目みたいだ。……どこへ行かなきゃいけないとか、誰を守らなきゃいけないとか、ここにいると思い出せない」
「思い出せない……なにを?」
「……生まれて初めて、守りたいと思った人のことを」
彼の口からその科白が出た瞬間に、カーヤの心が音をたてて凍りつく。
次に目を見開いたまま自分を見上げている彼女を振り返ったリーフェルトの瞳には、先程までのような熱意は完全に消え失せていた。
「ごめん、カーヤ。家族や君に大切にされてきたから、今の僕がある。君には本当に感謝してる。
僕の手を引いて、ここまで導いてくれてありがとう」
だけど。とリーフェルトは続けた。
「前に進むだけじゃ、駄目なんだ。幸せになってほしいと背中を押してくれた彼女を今、振り返らないと後悔する。
僕の後ろで微笑みかけてくれていても、きっと彼女の足は止まったままだから」
「連れ出してあげなきゃ」――リーフェルトは、カーヤが今まで見たことのない、強い少年の顔で笑った。




