永遠の恋人たち
夢だったのかな…。
力の護りの発動から7日目。午前0時を回ったリシールの館の一室で、ラシャの力から解かれた希由香の時は、再び動き始めた。
私の目の前に彼がいて…私を見つめてた。私の知らない、彼の瞳…。でも、彼が見てたのは、本当に私…? だって、傷ついてた…救いを求めてた…そんな無防備な瞳を、彼は私に向けたことなんかない…。
希由香の意識は、まだ完全に戻ってはいない。けれども、その心は、すでに彼女自身を認識している。
彼女が彼女であるための、最も不可欠な思いとともに。
でも、夢でなら、彼の心が私に見えるのかもしれない…ううん、それこそありえないよ。どんなに願って目を閉じても、私の夢に彼が現れたことはないんだから…。だけど、それでいい。醒めて見る夢が眠りの中で叶ったら…きっと現実に帰れなくなっちゃう…。
眠りに落ちる瞬間、あるいは、眠りから醒めるその瞬間に、意識はどこを通過するものなのだろうか。夢でも現実でもないその場所を、先に目醒めた希由香の心が彷徨う。
でも、夢じゃないなら…あれは何だったの? ううん、その前に…私、いつの間に眠ったの? 確か…知らない人が訪ねて来て、無視するにはあまりにも必死な様子で…不思議な話を聞かされたっけ。それから、彼女は私から何かを聞きたがった。だけど、私には全然わけがわからなくて、気がついたら…気がついたら? 私…まだ、気がついてない。だから、やっぱり…彼を見たのは夢の中で、今もまだそこにいて、あの女の人が帰ってからシャワーを浴びてベッドに入ったのを、思い出せないでいるだけ…?
希由香は頬を撫でる風を感じた。裸足の爪先をくすぐる草の葉を感じた。
急速に感覚を取り戻した身体が、一定のリズムで揺れているのを感じていた。そして、徐々に霧の晴れて行く頭が、何か温かいものにもたれているのを感じる。
じゃない…これが夢のはずないよ。夢なら…どうして記憶よりもリアルなの?この…ひどく安心出来るぬくもりは、彼がいなきゃ感じない…でも、これが現実のはずもない。だって…。
「気がついたか?」
微かに身じろいだ希由香の耳が、彼の声を聞いた。一瞬、混乱する心が硬直する。
これは、私のつくる幻想かもしれない。だけど、もし、そうだとしても、彼に…会いたい…。
多大な期待に裏切られることを覚悟すると同時に、確かな彼の存在を感じ騒ぎ出す心に無自覚な自信を持ちながら、希由香はゆっくりと瞼を開く。
その目にまず始めに映ったのは、黒に近い濃紺の空だった。漂うように流れる雲の筋が数本、点在する星のいくつかに灰蒼色のヴェールを掛けている。
希由香は視線をずらし、声の主を探す。その目が、彼を見る。
幻じゃ…ない。
彼が足を止めた。
「浩司…」
希由香の声は静かだった。震えてもいなかった。驚きも衝撃もなく、かつてと同じ響きで、愛しい男がそこにいることを確認するように優しく呼びかける。そんな自分を、何故か不思議とは思わなかった。
希由香の頭の中では、数々の疑問が湧き起こっている。自らの叡智では解けない謎が、膨張し始めている。けれども、常にそこに在り続ける浩司への思いと、彼に会えたことへの純粋な喜びと感動のみが、今その心を占めている。
「浩司…」
「その声で呼ばれるのは、久しぶりだな」
浩司が希由香を見つめる。
「泣いてるおまえを見るのも…」
知らずにこぼしていた涙が耳を濡らし、希由香は自分が浩司に抱きかかえられていることに気づく。
「私…?」
「いつも、静かに泣いて…最後には笑った」
浩司の言葉に希由香が笑う。
「浩司…降ろしていいよ。私、大丈夫だから」
「…おまえのミュールは、車に置いてきちまった」
浩司がそっと希由香を立たせる。
「そんなのは平気…」
軽い目眩にふらつく身体を浩司に支えられながら、希由香は素足で草を踏み辺りを見まわした。
左手に見える黒い森の入口に停められた、白い車。手を伸ばせば届くところにある、朽ちかけた古い木の柵。その向こうに広がる、空と地の境界線を失った光と闇を描くカンバス。
そして、浩司がいる。4年前の夜と同じように。
「ここ…」
希由香は浩司を振り返る。
「どうして…」
「希由…おまえに話さなけりゃならないことが、山ほどある」
希由香が尋ねる前に、浩司が口を開く。
「おまえが今どうしてここにいるのか、何がどうなってるのかは…後で話す。おまえが知りたけりゃ、全てをな。だが、今は、大事なことだけ言わせてくれ」
希由香は、逸らされない浩司の瞳を見つめる。
目の前にいる男は夢でも幻でもない。それがわかっているのなら、そのほかのわからないことは後回しで構わない。今の希由香にとって優先するべきは、この現実がどこから来たものかではなく、浩司が今ここにいることそのものなのだから。
「ひとつだけ…聞かせて」
浩司は黙ってうなずいた。
「どうして、ここに私を連れて来たの? 今じゃなくて…最初の夜に」
希由香は、何故自分が今それを聞きたいのかわからずに聞いていた。ただ、聞かずにはいられなかった。浩司の言う大事なことより、この現実のその意味よりも、彼が自分と別れた理由よりも先に。
直感にそう命じられた。それが、一番近しい感覚だった。
「おまえは? あの時、どうして俺について来た?」
4年前を再現するかのように、浩司が問い返す。けれども、真直ぐに見つめ合う瞳はその距離を縮めず、希由香が答える。
「あなたを愛する気がしたから…それがどうしてかは、すぐにわかったよ。あなたを愛する私が、私を幸せにするんだって…出来るなら、あなたも幸せにしたいと思ったけど…」
「…過去形なのか?」
「だって…」
希由香の瞳はとまどいに揺れ、声が震える。
「浩司は困るでしょう? 私が、愛してるって言ったら…会いたかったなんて言って泣いたら…誰かがあなたを救ったんだってことくらい、会ってすぐにわかっ…」
浩司の腕が希由香を包み、抱き竦める。
「4年前おまえを連れて来たのは、ここで見る光はいつも、俺には遠過ぎて…いつか近くで見てみたいと思ってたからだ。おまえを誘ったのは、ただ…おまえの身体を抱きたかったからだがな」
希由香の首筋に、浩司の溜息がかかる。
「今おまえとここにいるのも、おまえを抱きたいからだ。おまえの…心をな」
希由香の耳元で、浩司の声が掠れる。
「俺を救ったのが、自分だとは思わないのか?」
「夢か…幻でなら…」
聞き取れないほどのつぶやきに答えるように、浩司は腕の力を強める。震えているのはその胸なのか自分なのか、希由香にはわからなかった。わかる必要もない。
「でも、幻でも何でもいい…会いたかったの。ずっと、いつも…こうして、抱き締めて欲しかった…」
「幻じゃない。俺はここにいる。もう…夢に俺を探さなくていい」
「浩…」
希由香が顔を上げる。
「そばにいて…消えない夢を見せてくれ。俺には、おまえの幸せが必要なんだ」
滲む視界から涙を閉め出すように、希由香は目を固く閉じて開ける。浩司の指がそのしずくを拭う。
「浩司が飽きるまで…いくらでも…」
途切れがちにそう言って微笑む希由香の瞳を見つめ、ほんの一瞬浮かんだ不安の陰りをまばたきで払拭し、浩司は彼女と同質の微笑みを返す。
「希由香…」
心に届く強い眼差し。心をさらける深い瞳。浩司のその瞳には、かつてと変わらぬ遠い星と街の灯が映っている。けれども、そこに、かつてその心を支配していた闇はない。
「おまえを、愛してる」




