第5話 崩れる盤面
計画は、紙の上では完璧だった。
署名十九。あと三名で貴族院の過半数。残る候補はラインハルト子爵、ドレスデン男爵、フェルシュタイン伯爵夫人。三名とも中立寄りで、ヴェルナー侯の直接的な影響下にはない。時間さえあれば、説得できる見込みがあった。
時間さえあれば。
その朝、マリアが差し入れの籠を持ってきたとき、パンの下に紙片はなかった。代わりに、マリアの目が赤かった。
「殿下」
声が震えている。
「ドレスデン男爵家に、ヴェルナー侯から使者が行きました。昨夜のことです」
舌の奥が急に乾いた。
「男爵家の長男が、三年前の社交界で起こした不祥事の証拠を侯が握っていて……『信任投票に署名すれば、この証拠を公にする』と」
脅迫。
「ドレスデン男爵は、署名を撤回しました。それから――ラインハルト子爵も。フェルシュタイン伯爵夫人も」
三名。三名全員が、一夜で離反した。
マリアの手が、膝の上で握り締められている。爪が手のひらに食い込んでいるのが見えた。この人はいつも、悪い知らせを伝えるとき、自分の手を傷つける。
「それだけではありません、殿下」
マリアの声が、さらに低くなった。
「今朝、姉君が貴族院で宣言なさいました。『セレナの廃嫡を申請する』と。十日以内に貴族院の追認が得られれば――」
廃嫡。
王族の身分を剥奪される。そうなれば、信任投票の候補者資格を失う。投票以前の問題だ。署名を集めても無意味になる。
十日。
あと十日で、すべてが終わる。
◇◇◇
マリアが去った後、私は窓辺に座って動けなかった。
完璧だったはずの計画が、二十四時間で崩壊した。
なぜ気づかなかった。ヴェルナー侯が動かないはずがなかった。あの人は宮廷の派閥力学を完璧に掌握している。私の連絡網を嗅ぎつけ、弱点を突く。それは予測できたはずだ。
予測できた。でも、しなかった。なぜなら――ヴェルナー侯を「老いた策士」と見くびっていたからだ。外交能力がないことと、政治的な嗅覚がないことは、同義ではない。あの人は外交はできないが、人の弱みを握る天才だった。
大丈夫。まだ間に合う。間に合う。間に合うはずだ。
嘘だ。間に合わない。いや違う。間に合わないと決めたのは誰だ。私か。ヴェルナーか。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。署名リスト。十九名。三名。廃嫡。十日。数字だけが回る。文章にならない。前世の記憶が割り込んでくる。締め切り三十分前に、取材先のデータが全部消えた夜。画面の前で、指だけが動き続けている。原稿は白紙。デスクの電話が鳴っている。鳴っている。鳴っている。
膝の裏が冷たい。座っているのに、立っていられない気がする。
深呼吸する。石壁の冷えた空気が、肺の奥まで沁み込む。窓の外から吹き込む風に、かすかに枯れ葉の匂いが混じっている。秋が終わろうとしている。
落ち着け。情報を整理しろ。
署名の路線は、潰された。ヴェルナー侯は脅迫という手段を使った。これは二つの意味がある。一つは、侯自身が焦っている証拠。もう一つは、正攻法ではもう間に合わないということ。
廃嫡の追認には、貴族院の投票が必要だ。だが、ヴェルナー侯が脅迫で貴族を抑えている以上、追認は通るだろう。
詰んでいる。
本当に?
頭の中で、前世の記者がしつこく問いかける。本当に手がないのか。別のルートはないのか。
建国憲章。第十七条ではなく。
……第十二条。
『国家の危機に際し、王族は貴族院の臨時召集を要求することができる』
臨時召集。署名は不要。国家の危機を宣言すれば、貴族院は強制的に招集される。そして召集された場で、動議を出すことは妨げられない。
だが「国家の危機」とは何だ。内乱、外敵の侵攻、大規模な天災――。
あるいは、外国からの公式な抗議。
条約不履行に対する、隣国からの公式な抗議があれば、それは「外交上の危機」に該当する。
レオンハルト殿下。
あの人なら。外交特使として、公式に動く資格がある。
だがそれは――外国の力を借りることだ。
自分の国のことを、自分の力で変えられなかったということだ。十年間、黒子として「自力で」積み上げてきたものが、他国の手を借りなければ意味を持たない。その事実が、胃の底に石を落とされたように重い。
前世で政治記者をしていた頃、取材先の議員が言っていた。「自力で勝てないなら、勝てる味方を見つけろ。それは負けではなく、別の勝ち方だ」。正論だとわかっている。わかっているのに、喉の奥で何かが引っかかる。
◇◇◇
夕方、鉄格子の窓から風が入り込んだ。秋の終わりの、冬の予感を含んだ風。
机に向かう。紙もペンもない塔の中で、私は頭の中だけで計算を続けている。
レオンハルト殿下に連絡を取る手段。マリアを経由して、ヴェスター大使館へ。到達まで半日。殿下が動いてくれるとして、公式な抗議文の作成に二日。外交便でエストレア宮廷に届くまでさらに三日。
合計五日半。廃嫡の追認まで十日。間に合う、はずだ。
「はず」という言葉に、前世の自分が苦笑する。記事に「はず」と書いたら、デスクに赤を入れられる。「確認しろ」と。
でも確認する手段がない。この塔からは。
鉄格子に手をかけた。冷たい金属の感触。指が白くなるほど握りしめて、それから力を抜く。
マリアに頼もう。明日の差し入れの時に。
窓辺に灯りを置く約束をした、あの人の言葉を思い出す。「方法がある。聞く気があるなら」。
聞く。聞かなければ。
一人ではもう、この盤面をひっくり返せない。
それを認めることが、こんなにも苦しいとは思わなかった。肋骨の内側が痛い。物理的に。何かが胸郭を内側から押している。涙ではない。涙よりもっと深いところで、何かが軋んでいる。
前世でも結局、一人で全部やろうとして潰れた。あの夜、デスクの上で突っ伏して、そのまま――。
同じ失敗を、二度繰り返すわけにはいかない。
石壁に背をつけた。冷たさが背中から肩甲骨を通って首筋に伝わる。その冷たさが、不思議と思考をクリアにする。
前世で行き詰まった時、屋上に出て冷たい夜風に当たった。東京の夜景を見下ろしながら、原稿の構成を頭の中で組み直す。あの時の感覚に似ている。冷たさは、思考の余白を作ってくれる。
マリアに伝えよう。明日の朝、レオンハルト殿下の部下に接触してほしいと。具体的な提案は殿下からの返答を待ってから考える。今の私にできるのは、ドアを開けておくことだ。
灯りを。窓辺に灯りを置く。
蝋燭は一本しかない。マリアが差し入れに忍ばせてくれた、細い一本。火をつけると、小さな炎が鉄格子の影を壁に映した。
それが、私にできる唯一のことだった。でも唯一のことを、やる。




