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姉上、その玉座はわたくしが磨いたものです  作者: 秋月 もみじ


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第4話 沈黙の外交


石壁は、朝と夜で温度が違う。


幽閉されて十日が経った。朝の壁は指先を刺すほど冷たく、午後になると陽が当たる面だけが少しだけ温くなる。その微かな差を手のひらで確かめるのが、いつの間にか日課になっていた。


前世でも、狭い空間に閉じ込められたことがある。入社一年目、取材先で誤ってビルの資料室に閉じ込められた夜。あの時は三時間で済んだ。今回は、あと二十日。


マリアは毎朝、差し入れの籠を持ってくる。パンとチーズ、温かいスープ。それに、籠の底に隠された、小さく折り畳まれた紙片。


今朝の紙片は三通あった。


◇◇◇


一通目。ガルシア伯爵からの返書。


『五年前のご恩を忘れてはおりません。署名に同意します。ただし、名は伏せてください』


五年前、ガルシア伯の領地が隣国との国境紛争に巻き込まれた。姉上は軍を送ることを渋り、ヴェルナー侯は「小さな伯爵家ひとつ、見捨てても大勢に影響はない」と切り捨てた。私が外交ルートで動き、ヴェスター側と非公式の停戦合意を取りまとめた。


その合意書も、姉上の名前で提出されたのだが。


二通目。ホフマン男爵。こちらも署名に同意。理由は「娘の縁談でセレナ殿下に仲介していただいた恩」。


三通目。差出人の名前がない。代わりに、ヴェスター語で一行。


「窓辺に本は届きましたか」


……レオンハルト殿下。


あの外交慣例の手引き、第七章を読み返していたところだった。外交上の信任に関する条項。この人は、私が何を必要としているか、正確に把握している。


「マリア」


「はい、殿下」


「返事を三通。それぞれ暗号で」


マリアは頷いた。この十日間で、彼女は暗号の基本を覚えた。私が口頭で伝え、マリアが書き取り、差し入れの籠の底に隠して持ち帰る。原始的だが、確実な方法。


◇◇◇


午後、マリアが戻ってきた。顔色が普段と違う。唇の端がわずかに引き攣っている。


「どうしたの」


「あの……姉君が、外交の場で」


マリアの報告を聞きながら、私は窓辺に腰かけた。


隣国ヴェスターからの外交使節団が到着したらしい。条約更新の事前協議。本来なら私が対応する案件だ。


エレノアが自ら対応しようとしたのだが――。


「使節団の団長が、エストレア語を話さなかったそうです」


当然だ。ヴェスターの外交官は、相手国の言語で交渉することを礼儀だと考えない。対等な交渉相手として、自国語で話す。これまで私がヴェスター語で応じていたから問題にならなかったが、私がいなければ――。


「姉君が通訳を呼ぶよう命じたのですが、翻訳班の者たちが『セレナ殿下の指示がなければ対応できない』と……」


思わず、口元が動いた。


「それは――」


笑いそうになって、止めた。笑っている場合ではない。いや、正確に言えば、笑ってもいい場面なのかもしれない。でも、笑いたいのか、泣きたいのか、自分でもよくわからなかった。


私がいないだけで、外交が止まる。


十年間、黒子として積み上げたものが、不在という形で証明されている。皮肉だ。存在を無視され続けたのに、不在だけは無視できない。


「それで、使節団は」


「……お怒りでした。『セレナ殿下に取り次いでいただかないと話にならない』と、公式の場でおっしゃったそうです。姉君のお顔が――その、真っ赤に」


マリアは言いにくそうに視線をそらした。


想像できる。姉上は演説の場では堂々としているが、予想外の事態に弱い。台本のない場面で、しかも外国語が飛び交う状況では、あのカリスマは通用しない。


外交部の翻訳班八名は、私が十年かけて育てた。ヴェスター語の微妙なニュアンス、敬語の段階、皮肉と敬意の紙一重の違い。それを理解している人材が、私の指揮系統の外では動けないのは当然だった。


ヴェルナー侯が「外交は女の仕事」と軽んじて、自分の管轄から切り離したからこそ起きた事態だ。


喉の奥で、何かがほどける。


ざまぁ、とは思わなかった。思いたくなかった。ただ、十年分の仕事が「あった」と認められた気がして、指先が少しだけ温かくなった。


◇◇◇


夕方。予告なしの来訪者があった。


北の塔の扉が開き、護衛に付き添われた初老の男が入ってきた。ガルシア伯爵。密書ではなく、直接来た。


「殿下」


伯爵は跪こうとして、私が止めた。


「おやめください、伯爵。ここは議場ではありません」


「だからこそです。議場では言えないことを申し上げに参りました」


伯爵の目が真っ直ぐに私を見た。


「署名は、私を含めて十九名が集まりました」


十九。あと三名。


「残りの三名も、近日中に決断するでしょう。殿下が十年間、陰で支えてこられたことを、我々は知っております」


知っていた。


知っていて、今まで声を上げなかった。それを責める気にはなれなかった。私だって、十年間声を上げずに黒子を続けてきたのだから。


いや、声を上げなかったのは怠惰ではなく計算だったのかもしれない。私が黒子であり続けた方が、彼らにとっても安全だった。姉上の目に留まらない場所で、静かに恩を売り続けること。それが最も合理的な生存戦略だと、前世の記者の頭が弾いていた。


なのに今、その計算が崩れかけている。


「ガルシア伯」


「はい」


「ありがとうございます」


伯爵が去った後、窓辺に戻った。


鉄格子の向こう、夕焼け空にレオンハルト殿下からの本が置いてある。栞代わりの乾燥花。薄紫の花弁が、夕日に透けている。


あと三名。


だがこの三名が問題だ。残っているのは、ヴェルナー侯の影響下にある貴族たちだ。説得は容易ではない。


パンの籠を引き寄せた。マリアが焼いてくれたのか、今日のパンはいつもより柔らかい。中にくるみが入っている。こんな些細なことで、胸の奥が熱くなる。


前世では、締め切り前にコンビニのおにぎりを食べて泣きそうになったことがある。誰かが覚えていてくれる食事は、空腹を満たす以上のものだ。


不思議なもので、幽閉されてからの方がよく食べている。王宮の執務室にいた頃は、書類に追われて昼食を抜くことも珍しくなかった。前世の新聞社では缶コーヒーだけで一日過ごしたこともある。食事を忘れるのは、二つの人生に共通する悪癖だ。


マリアに、明日の返書を暗号で口述した。三通分。伯爵への礼状、男爵への確認、そしてレオンハルト殿下への――これは返書というより、報告だ。「署名はあと三名。状況は動いている」。


窓の向こう、最初の星が見え始めた。ヴェスター暦の星の配置を確かめる癖がついた。冬至まで、あと少し。

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