第3話 北の塔
姉上の声は、怒りというより、疲労の色を帯びていた。
貴族院の議場。朝の光が高窓から斜めに落ちて、演壇を白く切り取っている。見覚えのある場所。だが空気がまるで違う。議員たちの視線が鋭い。傍聴席のざわめきが耳の奥でくぐもる。
私は来賓席に座っていた。呼び出されたのだ。朝食の途中でマリアが蒼い顔で飛び込んできて、「貴族院への出頭命令です」と告げた。
「セレナ」
姉上が私の名を呼んだ。演壇からこちらを見下ろす。逆光で表情が読めない。
「あなたが隣国ヴェスターと密通し、王位を狙っているという報告がありました」
議場が静まり返った。
密通。王位を狙っている。
一瞬、思考が止まる。すぐに記者の頭が動き出す。誰が。何の目的で。証拠は何だ。
ヴェルナー侯が姉上の隣に立っていた。穏やかな笑みのまま、一通の手紙を掲げる。
「こちらがその証拠です。セレナ殿下がヴェスター王国に宛てた密書。王位簒奪への協力を求める内容が記されております」
偽造だ。
一目でわかる。あの手紙の筆跡は私のものではない。右端の筆圧が違う。私は文字の末端を跳ねる癖があるが、あの手紙にはそれがない。だが――姉上にはその違いが見えないだろう。私の筆跡を注意深く見たことなど、たぶん一度もないのだから。
「姉として、信じたかった」
エレノアの声がかすかに揺れた。
「けれど証拠がある以上、放置はできません。セレナ、あなたを北の塔に幽閉します。正式な裁判までの間」
裁判。建国憲章第九条。嫌疑をかけられた王族は、三十日以内に裁判を開かねば釈放しなければならない。
三十日。
私は立ち上がった。議場の全員の視線が集まる。こめかみの奥で、脈が早くなるのがわかった。右手の指が、膝の脇で小さく震えた。
「姉上」
声は、思ったより平らだった。
「引き継ぎ書は執務室の机の上に置いてあります。外交文書の暗号鍵は口頭でお伝えする必要がありますので、お時間をいただければ」
ヴェルナー侯が口を挟んだ。
「反逆者の言葉を信じてはなりません、エレノア殿下。引き継ぎなど不要です」
不要。
あの暗号を解ける者は、この宮廷にいない。それを「不要」と言い切るこの人は、暗号の存在すら知らないのだ。
私は微笑んだ。最後まで黒子のまま。
「承知いたしました」
姉上と目が合った。ほんの一瞬だけ。
その目の奥に何が見えたのか、私にはわからなかった。怒りか、失望か、それとも――もっと別の、名前をつけられない何か。姉上自身にも、わかっていないのかもしれない。
十年間、この人のために書き続けた。その十年が、偽造された一通の手紙で終わる。
おかしいと思うべきなのに、どこかで「ああ、やっぱり」と思っている自分がいる。前世でも今世でも、私の書いたものは、いつも誰かの都合で消される。
◇◇◇
護衛に挟まれて廊下を歩く。
王宮の北翼。石壁が厚くなり、天井が低くなっていく。窓が減る。空気が冷たくなる。
前世で警察署の取材に行った時を思い出す。あの時も、長い廊下を歩いた。足音が反響する感覚が似ている。だが、あの時は帰れた。今回は帰れるかどうか、わからない。
曲がり角で、私は立ち止まった。
「……こちらで合っていますか」
護衛の一人が怪訝な顔をする。
「殿下、北の塔はあちらです」
ああ。方向を間違えた。
幽閉されるというのに、幽閉先に辿り着けないとは。我ながら笑えない冗談だ。前世でも方向音痴で、取材先に遅刻して怒鳴られたことを思い出す。
今そんなことを考えている場合ではない。
「失礼しました」
護衛に導かれて、石の螺旋階段を上る。靴底が石段を踏むたびに、乾いた音が反響する。段を一つ上るごとに、空気が冷えていく。
◇◇◇
北の塔。
石壁に囲まれた小部屋。簡素な木の机と椅子。寝台は硬そうだが、清潔ではあった。鉄格子の窓が一つだけあり、そこから秋の風が入り込む。
扉が閉まる音。鍵がかかる音。重い金属のこすれる響きが、石壁に吸い込まれて消えた。
一人になった。
最初に気づいたのは、静けさだった。王宮の執務室はいつも音があった。廊下の足音、隣室の書記官の咳払い、窓の外の鳥の声。ここには、風の音しかない。
それから匂い。石と、少しの湿気と、古い木の机の匂い。インクの匂いがしない。それが、なんだか一番堪えた。
窓辺に立つ。格子の隙間から、空が見えた。雲ひとつない秋晴れ。王都の屋根が遠くに並んでいる。
手のひらを鉄格子にあてると、冷たさが指先から腕へと伝わった。
三十日。
裁判が開かれるまで、三十日。だが、ヴェルナー侯は「証拠調査中」と言って裁判を引き延ばすだろう。その間にエレノアが廃嫡を仕掛けてくるかもしれない。
落ち着け。情報を整理しろ。
前世の記者が、頭の中で動き始める。
事実:幽閉された。証拠は偽造。裁判は三十日以内に開かれなければならない。
状況:外交文書の暗号は私だけが解ける。隣国との条約更新は来月に迫っている。
資源:マリアとの連絡手段がまだ生きていれば。貴族院の中に、味方になりうる者が何人か。
信任投票。建国憲章第十七条。
あの夜、書庫で書き写した条文が、頭の中で鮮やかに浮かぶ。
署名が必要だ。貴族院議員の過半数。議員総数は四十二名。過半数は二十二名。五年間の外交で恩を売った相手が何人いるか。マリアを通じて連絡が取れれば、少なくとも十五名は味方に引き込める見込みがある。残りの七名をどう集めるかが勝負だ。
窓の外、夕暮れの空が橙色に染まっていく。遠くに星が一つ見えた。
……あの星の並びは、ヴェスター暦では冬至祭の始まりを告げる配置だ。条約文書に暗号を仕込んでいたとき、ヴェスターの暦法を研究した。星と暦と外交文書。繋がっている。全部、繋がっている。
鉄格子に額を押しあて、冷たさを額に感じながら、私は目を閉じた。
三十日で、すべてを変える。
ペンはない。紙もない。だが、頭の中には地図がある。十年分の人脈と、暗号の鍵と、建国憲章の条文。
前世で記事を一本書くのに三日かかった。
三十日あれば、国を一つ、書き換えられるかもしれない。




