63.解ける運命
一方その頃、澪は宿屋で借りた馬車に揺られ、北の方角へと進んでいた。
星刻の棺を目指して――。
少しでも早く。膝の上でぎゅっと握りしめた手は、いつの間にか汗で湿っている。
馬車の中は静かだった。
車輪が地面を削る音と、馬の吐く白い息だけが、夜に溶けていく。
――リュシアと話したときのことが、ふと胸をよぎる。
「あなた一人で、星刻の棺へ行くですって?」
あのときの、感情を露わにした声。
澪は黙って頷き、ゆっくりと言葉を選んだ。
「アストラリオスさえなければ、帝国は星永の乙女を必要としない。もし私がいなくなっても……カイが、また流星になって空を彷徨う必要もなくなる」
息を吸い、続ける。
「だから、私がアストラリオスを壊す」
リュシアは、信じられないという顔で澪を見た。
「モルフェウスから腕輪を奪うと言い出したかと思えば、今度はアストラリオスを破壊する、ですって……なんて、めちゃくちゃな子なの」
「確かに、めちゃくちゃかもしれない。
でも、ちゃんと考えた。どうしたら、この世界でカイが幸せに生きられるのか。私に、何ができるのかを」
「……団長に、会いたくないの?」
その問いに、澪は一瞬だけ目を伏せた。
「……会いたいよ。ちゃんと元気に生きてるってこの目で確かめたい」
でも、と続ける。
「それは、今じゃなくていい。魂を取り戻したカイが、命令に従わなければ……モルフェウスは、きっと全力でカイを消そうとする」
顔を上げた澪の瞳は、まっすぐだった。
「そのとき、私が一緒にいたら……足手まといになる。だったら私は、私にしかできないことをする」
その目の光に、リュシアはそれ以上何も言えなかった。
――そして今。
星刻の棺までは、まだしばらくかかる。
カイの魂は、無事にひとつに戻っただろうか。
澪はそっと馬車の外を覗いた。その瞬間――
「ガタン!」
激しい衝撃とともに、馬車が大きく傾いた。
「いたた……」
肩を、さすりながら外へ出ると、御者が馬から降り、困ったように頭をかいていた。
「すみませんねぇ、お客さん。この岩にぶつかっちまって……ほら、車輪が」
確かに、馬車の車輪がひとつ、地面に転がっている。
「あの……直るまで、どれくらいかかりますか?」
「そうだなぁ……修理に半刻はかかる」
申し訳なさそうに続ける。
「急いでるみたいなのに、悪いね」
(半刻……一時間……――そんなに待てない)
「星刻の棺まで、歩いてどれくらいですか?」
「歩きで?それこそ一刻はかかるよ。しかも夜だ。こんな寒い日に……」
澪は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
そして、走り出す。
「待ってなんて、いられない」
時を戻す前、アゼルと並んで歩いた道。その記憶を頼りに、澪は星刻の棺へと向かった。
暗い夜道を、ただ夢中で駆ける。部活で鍛えた脚が、今は頼もしい。
――そのとき。
帝都の方角で、爆発音が響いた。
振り向くと、夜空を焦がすような爆炎が立ち上っている。
「……まさか」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「カイ……」
きっと、モルフェウスと戦っている。そう思った瞬間、心臓が早鐘を打った。
「急がなきゃ」
澪はまた星刻の棺への道を、走り始めた。
次の瞬間。
「あっっ」
足元の石に躓き、澪は派手に転んだ。
「……っ、いたた……」
白い衣装に、赤い染みが滲む。
構わず立ち上がろうとするが、脚に走る痛みで、思うように力が入らない。
それでも、痛みを振り払うように、脚をかばいながら走る。
じわり、と視界が滲む。
「……情けない」
澪は自分の頬を、ぱん、と叩いた。
「こんなことで、泣くな……!」
今この瞬間も、カイとリュシアは、命を賭けて戦っているかもしれない。
痛みと、寒さと、焦りが一気に押し寄せる。
そのとき――
空から、白いものが舞い落ちてきた。
「……雪」
澪はつい足を止め、帝国に舞う雪を見上げた。
そういえば、と澪は思う。カイが言っていた。
この世界では、積もるほど雪が降ることはない、と。
その記憶が胸をかすめた、その瞬間。
澪が手のひらで受け止めた雪が――溶けるより早く、眩い光を放った。
そこに現れたのは、氷でできたかのように透き通る、大きな白鳥の姿だった。
羽は雪片のように繊細で、月光を受けるたび淡くきらめく。
森の木々も、周囲の空気も、その存在を前に静まり返っていた。
澪は、息を呑む。
胸の奥で、ひとつの声が蘇った。
(――僕の生まれた世界の雪にはね、ごくたまに、氷の精霊が宿っていることがあるんだ)
それは、いつかカイが静かに教えてくれた、遠い世界の話だった。
「……氷の、精霊……?」
確かめるように呟いた声は、夜に吸い込まれていく。
白鳥は答えない。ただ、澪をまっすぐに見つめていた。
考えるより先に身体が動いた。
澪は一歩踏み出し、その氷の白鳥の足に、しがみついた。
「……お願い、星刻の棺へ……どうしても、行かなきゃいけないの」
白鳥の身体が、わずかに震えた。
次の瞬間、冷たいはずの氷の足が、澪の掌に優しく馴染む。
羽ばたきは静かだった。
風を裂く音すら立てず、白鳥はゆっくりと翼を広げる。雪が、光の粒となって舞い上がった。
澪の身体が、ふわりと浮く。
「……!」
驚きに息を詰める間もなく、視界が、地面から切り離された。
白鳥は静かに翼を広げ、夜空へと舞い上がる。
それは、さきほどリュシアと共に飛んだ空よりも、なお高く。
街の灯りが小さく滲み、世界が遠ざかっていく。
その高さを思うだけで、胸の奥がきゅっと縮む。
凍えるほど冷たい空気の中で、澪は目を瞑り、歯を食いしばって、その氷の足に必死にしがみついた。
恐怖が、冷たい空気と一緒に胸に流れ込んでくる。それでも、指に力を込めた。
「……助けてくれるの?」
白鳥は答えない。
代わりに、翼を一度だけ大きく打ち、進むべき方角を示すように高度を上げた。
星刻の棺を目指し、北の空へ。
それが返事だと、澪はなぜか、はっきりと分かった。
夜空に、白い軌跡が一本、引かれた。
***
澪は、もう一度そこに立っていた。
見覚えのあるはずの光景なのに、前よりも遠く感じる。
迷いはない。
氷の精霊は静かに澪を降ろした後、ただじっと澪の目を見つめていた。
まるで、何かを確かめるように。
澪もまた、その視線を受け止める。
やがて精霊は音もなく翼を広げ、白い軌跡を残して夜の奥へと消えていく。
澪はその後ろ姿を見送りながら、心の中でそっと礼を告げた。
外界から切り離されたような静寂の中へ足を踏み入れると、空気は澄みすぎていて、どこか現実味がない。
その中心に――アストラリオスはあった。
ゆっくりと手を伸ばし、触れる寸前で止める。指先がじんわりと熱を帯びた。
アストラリオスの巨体が、内側から光に満たされるように淡い白光を放ち始める。
「……これで、終わらせる」
小さく呟き、力を込めた。
空気が、わずかに歪む。
次の瞬間、アストラリオスの全身から溢れ出した光が、時間そのものを軋ませるような重苦しい圧力となって、その場を埋め尽くした。
(戻す――)
アストラリオスが造られる前へ。
このすべてが始まる前へ。
白光に包まれた巨体の表面を、淡い波紋のようなものが走る。
軋むような低い音が響き、黒い外殻がわずかに揺らいだ。
まるで存在そのものが、現在と過去の狭間で引き裂かれているようだった。
――だが。
澪はさらに力を込めたが、アストラリオスは沈黙したまま、微動だにしなかった。
時間だけが、じりじりと過ぎていく。
呼吸が浅くなり、指先の熱はやがて痛みに変わっていく。
(……私の力が足りないの?)
歯を食いしばり、全身の力を無理やり一点に押し込む。
視界がわずかに揺れても、手は下ろさない。
(戻れ――)
その瞬間、違和感が走った。
微動だにしなかったはずのそれが、ほんのわずかに動いた気がした。
澪は息を止める。
気のせいだと思おうとするが、違う。
ゆっくりと、確かに、それは動いていた。
アストラリオスがこちらへ向かって手を伸ばす。
巨大な影が、澪の視界へ覆い被さった。
「……っ!?」
澪は反射的に息を呑んだ。
心臓が大きく跳ね、全身が凍りついたように動かなかった。




