62.魂
ふたりは、帝都の外縁に近い屋根の上へと降り立った。
石畳の街路を包む夜は、まだ人の気配に溢れていた。
澪は膝をつき、短く息を整えたが、すぐに立ち上がり、リュシアを見た。
「……リュシアさん。これを」
差し出された手のひらには、蒼石の腕輪。夜明け前の薄闇を吸い込んだようなその青が、ひどく重く見える。
リュシアは一瞬だけ、それを見つめた。そして、澪の目を見てから、腕輪を受け取る。
「……本当に、行くのね」
確かめるように問う。
「うん」
澪は頷いた。
リュシアは懐に手を入れ、一枚の銀貨を取り出す。月光を受けて、縁が淡く光った。
「街道沿いに、古い宿屋があるわ」
澪の掌に、それを押し込む。
「この銀貨を渡しなさい。行先を告げれば……馬車を出してくれるはずよ」
「……ありがとう」
澪は、銀貨を握り締めた。リュシアの温もりがほんのりと残っていた。
一瞬、澪は口を開きかける。
「リュシアさん、カイを……」
だが、その先の言葉は飲み込んだ。
澪は一歩下がり、踵を返す。
「行ってくるね」
そう言って、走り出した。
石畳を叩く足音が、夜の街に吸い込まれていく。
リュシアはその背中を、ほんの一瞬だけ見送った。
彼女はすぐに身を翻し、反対方向へ駆け出した。第二宮廷魔導士団本部へ。
胸の奥で、思考が鋭く回転する。
(……もう気づいているわ)
時が動き出せば、蒼石の腕輪が奪われたことを、モルフェウスが見逃すはずがない。
(なら、真っ先に向かうのは――)
決まっている。カイの元だ。
(急がなくては)
夜の帝都を切り裂くように、リュシアは走った。
一方で、澪は街路を抜け、闇の向こうへと消えていく。
帝都の夜が、静かなのは――ここまでだった。
***
――静寂のなか、かすかに柔らかく、誰かの声が聞こえた気がした。
しかし次の瞬間。
乱暴なノック音が、団長室の扉を叩いた。
「団長! 団長、いるんでしょ! 開けてください!」
カイは眉をひそめ、枕に顔を埋めた。
浅い眠りの縁に沈みかけていた意識が、無遠慮に引き戻される。
(……うるさいな)
今は誰にも会いたくなかった。
放っておけば、そのうち諦めるだろう――そう思い、返事もしない。
だが。
扉の向こうから聞こえる部下の声が、ただ事ではない焦燥と切迫に満ちているのに気が付いた。
カイは、ゆっくりと身を起こした。
「……はぁ」
深く息を吐き、渋々ベッドを降りる。
扉へ近づくにつれ、魔力を含んだ空気が、ひどく乱れはじめているのに気が付く。
――何があった?
扉を開けた瞬間、風のようにリュシアが部屋へなだれ込んできた。
「団長!」
リュシアは、息を切らしながら、まずカイの顔を見た。
その視線に、カイが眉をひそめる。
――澪の言葉が、リュシアの脳裏をよぎる。
カイは時間を巻き戻す前、モルフェウスに胸を貫かれたと……。
(……今は感傷に浸っている場合じゃない!)
懐に手を突っ込み、彼女はそれを取り出す。
蒼い輝き。蒼石の腕輪。
カイの呼吸が、止まった。
「……どうして、それを」
声が、わずかに震える。
「モルフェウスから奪ってきました。詳しい説明は後です!」
リュシアは一歩詰め寄る。
「時間がありません。モルフェウスが来る前に――早く、魂を一つに!」
「君……何を――」
戸惑うカイの言葉を、彼女は切り捨てた。
「考えてる暇はないの! 早く!」
叫びにも似た声だった。
カイは、しばし腕輪を見つめ――
やがて、震える手で蒼石に触れた。
その瞬間。胸の奥が、爆ぜた。
「――っ!」
衝撃が、内側から身体を貫く。
悲鳴すら上げられず、カイは膝をついた。
視界が白く弾け、次いで――雪崩のような“何か”が、流れ込んでくる。
(……ああ、知っている。これは――)
まだこどもだったあの日。モルフェウスに奪われた、僕の魂の片割れ。
冷たい石の中に閉じ込められ、僕を縛り、抑え、管理するための“鎖”となった存在。
(……戻ってきた)
胸の奥で、何かが確かに嵌まる。欠けていた歯車が、正しい位置に戻る感覚。
魔力が、溢れる。体中を駆け巡る力は、歓喜している。
長い旅を終え、ようやく帰る場所を見つけた子どものように。
(……喜んでいるんだ)
僕の中に、戻れたことを。
カイは、荒い呼吸のまま、ゆっくりと顔を上げた。
視界が澄み、世界の輪郭がはっきりと立ち上がる。
両の掌を見つめる。体中、髪の毛の一本一本にも魔力がみなぎっているのが分かる。
長い間、半分のまま生きてきたのだと、今さら思い知る。
「……そうか」
掠れた声で、呟いた。
「……おかえり」
リュシアが、息を詰めたままこちらを見ている。
カイは、ゆっくりと立ち上がった。
「……還ったのですね。あなたの中に」
カイは荒い呼吸のまま、顔を上げた。
「……ああ。だが、分からないことが多すぎる」
低く、まだ完全には落ち着かない声。
「どうやって、あの腕輪をモルフェウスから? 君……いったい、何をしようとしてるの?」
リュシアは一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せた。そして、はっきりと告げる。
「――あの腕輪を奪ったのは、あの娘……澪です」
カイの瞳が、大きく見開かれた。
「……澪?」
あり得ない、というように息を呑む。
「どういうこと? まさか……彼女が、帝国にいるのか?」
問う声は、わずかに震えていた。
リュシアは、ゆっくりと頷く。
「……彼女は、あなたを救うために時を戻しました」
カイの思考が、一瞬止まる。
「時を……戻した?」
「そうです、星永の乙女の力を使って」
その言葉に、カイの表情が凍りついた。
「……星永の、乙女……?」
喉が、かすかに鳴る。
リュシアは、まっすぐに彼を見つめる。
「そうです。白川澪――彼女こそ、私たちが長年探し続けていた星永の乙女でした」
カイは言葉を失った。
リュシアは、静かに語り始める。
カイがあの世界から帰った後、澪がリュシアを待っていたこと。
澪から聞いた、時を戻す前にあった出来事のこと。
そして――澪がそれでもあなたを救う道を選んだこと。
話を聞くほどに、カイの胸が締めつけられていく。
「……そんな……」
信じられない、というように首を振る。
「じゃあ……じゃあ、澪は今、どこに?」
声が、わずかに震えた。
「彼女はいま――」
その瞬間。遠くで、地を叩き割るような轟音が響いた。
団長室の床が、わずかに揺れる。
窓の外で、魔力の衝突が弾ける気配。
リュシアは、即座に顔を上げた。
「……来たわね」
カイも立ち上がり、歯を食いしばる。
「……モルフェウス」
名を呼んだ瞬間、室内の空気が、重く軋んだ。
そしてカイの胸の奥で、澪の存在が、確かに脈打っていた。




