第1章 (第26話)『夢 I I I』
俺は息を吸った。
「最初の質問だ。ログは具体的に何を伝えているんだ? つまり、あのメッセージは一体どういう意味なんだ? 未来の予言なのか? 警告なのか? それとも、これから起こる出来事を記録したものなのか?」
エヴァの笑みが少し和らいだ。
消えたわけではない。ただ、ほんの少し柔らかくなっただけだ。
「三つの質問を一つにまとめるとは。なかなか欲張りじゃのう」
「質問は二つまでって言っただろ。これで一つ分だ」
「なるほど。妾の間違いじゃったな」
彼女はティーカップを持ち上げ、一口飲んでからソーサーに戻した。
「ログとは、そなたの周囲で起こる出来事に関連した情報を記録するものじゃ。すでに起きた出来事を示すものもあれば、これから訪れる出来事を知らせるものもある」
「じゃあ……予言ってことか?」
「少し違うのう」
彼女は優雅に足を組み替えた。
「予言とは、これから何が起こるかを示すもの。警告とは、何に注意を払うべきかを知らせるものじゃ。この違いは、なかなか重要じゃと思わんか?」
俺は眉をひそめた。
「説明してくれ」
「もちろんじゃ。妾がわざわざ説明してやっておるのじゃ。感謝するがよい」
「まだ何も説明してねえだろ!」
「それなのに、もう一度説明しろとは。実に面白いのう」
俺は彼女を睨んだ。
エヴァはくすりと笑った。
「よかろう。では、『差し迫った死《インミネント・デス》』というメッセージを例にしてみよう。あれは、死が近づいていることを示しておる。じゃが、その死がすでに決定しているとは限らん」
俺は彼女を見つめた。
「じゃあ、止められるってことか?」
「場合によってはのう」
「場合によっては?」
「嘘をついてほしいのかえ?」
「そんなわけねえだろ!」
「ならば、時には気に入らぬ答えも受け入れることじゃな」
俺は歯を食いしばった。
まったく、この女は……。
それでも、俺は話を聞くことにした。
「ログは、この世界のすべてを記録しているわけではない。あらゆる危険を説明してくれるわけでも、敵の正体を教えてくれるわけでも、そなたが何をすべきかを正確に示してくれるわけでもない。原因が分からぬまま警告を受け取ることもあれば、その意味を理解していても、結果を防げぬこともある」
胃のあたりが締めつけられた。
「じゃが、理解するのが間に合えば、何かを変えられる可能性もある」
エヴァは一瞬、黙り込んだ。
「そなたが学ぶべきなのは、そこを見極めることじゃ」
俺はテーブルに視線を落とした。
警告。
死刑宣告ではない。
決定事項でもない。
警告だ。
俺は、携帯に表示されたあのメッセージを思い出した。意味の分からない言葉が並んでいたせいで、後回しにしてしまったこと。いつか理解できるだろうと、適当に考えていたこと。
俺はログを、いつでも無視できる面倒な通知か何かのように扱っていた。
そして今、ルイは死んだ。
アエラルも死んだ。
オルシクも死んだ。
喉が詰まった。
「じゃあ、もし俺がちゃんと注意を払っていれば……」
「ジュンヤ」
俺は口を閉じた。
「ログの意味を尋ねたのはそなたじゃ。妾はそれに答えた。じゃが、その答えを、自分が犯したと証明もできぬ罪の告白にすり替えるでない」
俺は彼女の目隠しを見つめた。
彼女はもう笑っていなかった。
「そのメッセージを理解しておれば、そなたの仲間たちを救えたのか。それは妾にも分からぬ。もちろん、そなたにも分からぬことじゃ。自分を罰したいがために、そうだったと決めつけることだけは許さぬぞ」
唇を開いたが、何も言葉が出てこなかった。
こんなときでさえ、皮肉の一つも思いつかなかった。
だって、心のどこかでは、彼女にそう言ってほしかったんだ。
俺が間違えたのだと。
救える機会を逃したのだと。
すべて俺のせいだったのだと。
そうすれば、少なくとも憎むべきものがはっきりする。
だが、彼女はそれを言ってくれなかった。
俺が自分を責めることを許してくれなかった。
そして、不思議なことに、自分を許すことも許してくれなかった。
その決断を、俺自身に委ねていた。
「……つまり、ログは誰かが必ず死ぬって言ってるわけじゃないんだな」
「その通りじゃ」
「誰かが死ぬかもしれない。けど、俺の行動次第では防げる可能性もある……そういうことか」
「ようやく分かってきたようじゃな」
俺は椅子の背もたれに寄りかかり、ゆっくりと息を吐いた。
解決策が見つかったわけじゃない。誰かが生き返るわけでもない。ログがなぜ俺を選んだのかも、あの野郎がなぜ俺たちを襲ったのかも分からないままだ。
それでも、初めてログのメッセージが完全に無意味なものではないように思えた。
あれは情報だ。
まだ俺には理解できていない情報。
そして、この世界で生き残りたいのなら、理解できるようにならなければならない。
俺は目をこすった。
「……分かった」
エヴァが首を傾げる。
「分かった?」
「ああ。分かったよ」
俺は再び彼女を見た。
「これで一つ目の質問は終わりだ」
「随分と几帳面じゃのう」
「せっかくの雰囲気を壊すなよ」
「これは失礼」
俺はもう一度息を吸った。
二つ目の質問は、さっきよりも難しかった。
何を聞きたいのか分からないわけじゃない。
答えを聞くのが怖かったんだ。
俺は自分の手を見下ろした。
震えていた。
それもまた、気に入らなかった。
ここ数日、ずっと過去に戻りたいと思っていた。あの夜に至るまでの出来事をやり直したかった。何かに気づいていれば、何か一つでも違う行動を取っていれば、結果を変えられたのではないかと考えていた。
だが、過去には戻れない。
起きてしまったことを取り消すこともできない。
たとえ戻れたとしても、結果が変わる保証なんてどこにもない。
今の俺に残されているのは、ただ一つ。
アオイ。
自分の命。
そして、俺を信じて隣に立ってくれた人たちとの記憶だけだった。
俺は唾を飲み込んだ。
「……二つ目の質問だ」
エヴァは黙って待っていた。
俺は意を決して彼女を見た。
「ログに表示される人間って、どういう奴らなんだ?」
エヴァは静かになった。
もしかすると、初めて彼女の用意していた皮肉を封じる質問ができたのかもしれない。
やがて、彼女は首を傾げた。
「どういう人間、とは?」
「だから、ログに表示される人たちだよ。あれは何を意味してるんだ?」
俺は身を乗り出し、考えを言葉にしようとした。
「なんで表示される奴と、されない奴がいるんだ? そいつらには何か特別な意味があるのか?」
ルイ、オルシク、アエラルはログに表示されていた。
そして、死んだ。
アオイは、あんなことがあったにもかかわらず、なぜか生き残った。
それなのに、俺自身はログに表示されたことが一度もない。
どうしてだ?
エヴァに尋ねるなら、これが一番重要な質問だと思った。
エヴァは頬に手を添えた。
「ほほう。そなたも色々と考えておったようじゃな」
「いいから答えろよ!」
「そのうちのう」
「もう頭がおかしくなりそうだ……」
「正気は保っておくのじゃぞ。なかなか役に立つものじゃからな」
俺は彼女を見つめた。
彼女は微笑んだ。
そして意外にも、ティーカップを脇に置き、真剣にこちらへ向き直った。
「そなたのログに表示される者たちは、そなたの人生を異なる道へと導く可能性を持った者たちじゃ」
俺は瞬きをした。
「……道?」
「進むべき道、あるいは可能性とでも呼べばよいかのう。好きに解釈するがよい」
彼女は細い指を一本立てた。
「ある者は、そなたの知識を変える。ある者は、そなたの信念を変える。そなたを助ける者もいれば、妨げる者もおる。中には、その両方を知らぬ間に成し遂げてしまう者もおるじゃろう」
俺は眉をひそめた。
「つまり、重要な人物ってことか?」
「誰にとって重要なのじゃ?」
「……俺にとって、かな」
「その通りじゃ。もっとも、出会ったときには、その者がどれほど重要な存在になるのか、気づかぬこともあるがのう」
俺は椅子にもたれ、説明を理解しようとした。
「じゃあ、ログは俺の未来に影響を与える人間を表示してるのか?」
「影響を与えるかもしれぬ者たち、じゃ」
「またその言葉かよ」
「確証のないことに、確実な答えを求めるつもりかえ?」
「いや、もっとはっきり答えてほしいんだよ」
「妾としては、もう一杯お茶が欲しいところじゃな。どうやら、お互い望み通りにはいかぬようじゃ」
俺は片手で顔を覆った。
「分かった。つまり、そいつらが善人か悪人かは関係ない。何らかの形で俺の人生を変える可能性がある人間ってことか?」
「よくできました」
「それで、道っていうのは……具体的には何なんだ? 違う未来ってことか?」
「異なる可能性じゃ」
彼女はテーブルを指で軽く叩いた。
「例えば、そなたが分かれ道に立っているとしよう。片方は東へ、もう片方は西へと続いておる。どちらを選ぶかはそなた次第じゃが、それぞれ違う場所へと辿り着くじゃろう。では、その分かれ道で、そなたの進む方向を変える人物と出会ったとしたら?」
彼女は首を傾げた。
「その者は、そなたの進む道の一部となったということじゃ」
俺は彼女を見つめた。
「じゃあ、ログはその分かれ道にいる人間を表示してるのか?」
「必ずしもそうとは限らぬ。分かれ道に辿り着く前に出会う者もおれば、すでに通り過ぎた後になって出会う者もおる。そして、出会ったときには大した存在に思えずとも、振り返って初めて、その者がどれほど自分の人生を変えていたのかに気づくこともあるじゃろう」
俺はその言葉を考えた。
俺の人生を変えるかもしれない人間。
俺が進むはずのなかった道へと導くかもしれない人間。
まるでゲームのシステムみたいだ。
キャラクターと出会い、新しいルートが解放され、違うエンディングへと辿り着く。
だが、これはゲームじゃない。
ルイは、ロードし直せば生き返るようなキャラクターじゃない。
アエラルも、仲間にできなかっただけの選択可能なキャラクターなんかじゃない。
彼らは本物の人間だった。
そして、もういない。
「……じゃあ、今まで出会った人たちはどうなんだ?」
エヴァはすぐには答えなかった。
俺はこれまでに見た名前を思い返した。意味を理解できないまま、何度もすれ違ってきた人たち。ログに表示されていた名前の数々。
「そいつらも、俺の人生を変えるはずだったのか?」
「さあのう」
「エヴァ」
「何と答えてほしいのじゃ? そなたが出会う人間には、すべて壮大な意味があるとでも? この世界のすべての出会いが、そなたを偉大なる運命へと導くために用意されておるとでも言うつもりかえ?」
彼女は小さく笑った。
「そんな世界、考えるだけでも疲れてしまうのう」
「じゃあ、なんでログに表示する必要があるんだよ?」
「そなたが見落としてしまうかもしれぬ可能性に、目を向けさせるためじゃ」
俺は彼女を見た。
「可能性……」
「ある者がそなたの人生を変えるかもしれぬと知ったところで、その者がどのような変化をもたらすのかまでは分からぬ。ましてや、それが喜ばしいものかどうかなど、知る由もない」
彼女の笑みが再び悪戯っぽいものへと変わった。
「今日、そなたの命を救ってくれた者が、明日にはそなたの人生を台無しにするかもしれぬ。嫌っておった者から、かけがえのない教訓を得ることもある。そして、何の価値もないと思っていた者が、いつかそなたにとって最も重要な存在になることもあるじゃろう」
「随分とクソみたいなシステムだな」
「人生とは、なかなかクソみたいなものじゃからのう」
「文句を言ってるときくらい、同意するのをやめてくれないか?」
「嫌じゃ。数少ない楽しみの一つなのでな」
俺はため息をついた。
それでも、少しずつ理解できてきた。
ログは、俺に味方の一覧を渡しているわけじゃない。
誰を信じるべきか、誰を避けるべきかを教えているわけでもない。
俺の人生の攻略法を用意してくれているわけでもない。
ただ、俺の進む道を変えるかもしれない人たちを示している。
だが、どの道を進むかは決まっていない。
結果だって同じだ。
俺は再びエヴァを見た。
そして、椅子に深くもたれかかった。
この女、いつか本当に俺の頭をおかしくするつもりじゃないだろうな。
だが、苛立ちの奥で、何かが少しずつ形になり始めていた。
もしエヴァの説明が本当なら、ログは単に過去に起きた出来事を記録しているだけではない。
これから起こり得る出来事にも繋がっている。
ログに表示される人たちは、答えではない。
可能性なんだ。
そして、それは俺が思っていたほど、自分の未来に縛られているわけではないということなのかもしれない。
俺はテーブルに視線を落とした。
「……じゃあ、ログに誰かが表示されたら、俺はどうすればいいんだ?」
エヴァは肩をすくめた。
「会いに行けばよかろう」
「それが答えかよ?」
「他に何を提案すればよい? 逃げるのかえ? ひれ伏すのかえ? それとも、果物の詰め合わせでも持っていくかのう?」
「具体的に何かするべきことがあるのかって聞いてるんだよ!」
「だから言っておるじゃろう。情報と指示を混同するでない」
彼女の声は穏やかだったが、その奥には確かな厳しさがあった。
「ログは、ある者が重要な存在になるかもしれぬと知らせてくれるだけじゃ。その者がそなたに何を求めるのか、どのような扱いを受けるべきなのかまでは教えてくれぬ。それは、そなた自身が見極めることじゃ」
俺は黙り込んだ。
彼女は続けた。
「名前が表示されたからといって、安易に信用してはならぬ。同じ理由で、恐れる必要もない。相手の行動を見て、言葉に耳を傾け、自分自身で判断するのじゃ」
俺は唾を飲み込んだ。
「もし、判断を間違えたら?」
「その結果を受け止め、そこから学べばよい」
「……本当に安心させるのが下手だな」
「それでも、そなたは妾に安心させてもらいたがっておる。実に不思議なことじゃ」
思わず笑いそうになった。
ほんの少しだけ。
そして、再び自分の手を見下ろした。
ここ数日、俺は自分が見落としたものばかりを考えていた。気づけなかったこと。見逃したこと。自分が間違えたこと。
ログを理解できれば、世界のすべてが予測できるようになるとでも思っていた。
だが、もしかすると、最初からそういうものではなかったのかもしれない。
ログは俺に生き方を教えてくれるものじゃない。
どう生きるかは、俺自身が決めることなのかもしれない。
いつかログのすべてを理解できるのかは分からない。これから何人の名前が表示されるのかも、その人たちが俺の未来にどんな影響を与えるのかも分からない。
そして、出会う人たちを守れるのかどうかも分からない。
それでも、注意を払うことはできる。
学ぶことはできる。
恐怖に選択を委ねるのではなく、自分の意思で決断することはできる。
大したことじゃない。
それでも、今の俺には十分だった。
「……分かった」
俺は呟いた。
エヴァが首を傾げる。
「また何か悟ったのかえ?」
「調子に乗るなよ」
「妾は夢にも思っておらぬよ」
俺はゆっくりと息を吐き、顔を上げた。
「つまり、ログは俺の人生を変えるかもしれない人間を教えてくれる。でも、そいつらにどう接するかまでは教えてくれない。そこは俺自身で考えろってことだろ?」
エヴァの唇が弧を描いた。
「おやおや。ようやく一人前になったようじゃな」
「俺は十八歳だぞ」
「それなのに、今になってようやく自分で決断することを覚えたとは。実に感動的じゃのう」
「今の礼は取り消しだ」
「まだ礼など言われておらぬが?」
「これからも絶対に言わないようにする」
「妾は悲しいぞ」
彼女は胸に手を当てた。
俺は首を振った。
そして、思わず笑ってしまった。
短く、少し掠れた笑いだった。ルイたちと一緒にいた頃の笑いとは、まるで違う。
それでも、俺自身の笑いだった。
そして、その瞬間だけは、笑ったことに罪悪感を覚えなかった。
もちろん、嬉しかったわけじゃない。
本当にそう思えたわけでもない。
今でも、彼らが恋しい。
きっと、これからもずっとそうだろう。
それでも、彼らを想いながら息をすることはできる。彼らを失った悲しみを抱えたまま、自分の人生まで終わったと決めつけずに生きることはできる。
前に進むことはできる。
今は、それだけで十分なのかもしれない。
エヴァは黙って俺を見ていた。
やがて俺が彼女を見返すと、彼女は再び微笑んだ。
「さて、ジュンヤ。一度の夢で授けるには、もう十分な知恵じゃと思うのじゃが」
「待て。まだ聞きたいことがある」
「もちろんじゃろうな」
「こんなに色々説明しておいて、ここで帰すつもりかよ!」
「帰せるとも?」
「帰すな!」
「ほほう。妾は好き勝手に振る舞えるものと思っておったのじゃが」
俺は立ち上がった。
「エヴァ!」
彼女も椅子から立ち上がり、ドレスの裾を整えた。
「目覚める前に、最後に一つ助言をしておこう」
俺は足を止めた。
「……何だよ?」
「そなたの次の目的地は、フェドロシアという町じゃ」
俺は眉をひそめた。
「フェドロシア?」
「今いる場所から北東へ進む道を辿れば、いずれ辿り着くじゃろう」
「いずれって……正確な道順は分からないのか?」
「妾は知っておるとも。ただ、そなたが分かっておるかどうかは別の話じゃ」
俺は彼女を見つめた。
「人をイラつかせずに説明することはできないのか?」
「それは妾の才能の一つじゃからのう」
彼女は微笑み、話を続けた。
「そこにあるギルドへ行くがよい。情報も仕事も、この世界について学ぶ機会も必要になるじゃろう。フェドロシアは、始めるには悪くない場所じゃ」
「ギルドって……冒険者ギルドみたいなものか?」
「まあ、そのようなものじゃ」
俺は少し考えた。
確かに、今の俺には行く当てもない。この世界の仕組みも分からなければ、どうやって生きていけばいいのかも分からない。
いつまでも、答えが転がり込んでくるのを待っているわけにはいかない。
ログを理解したいのなら、まずはログが示すこの世界そのものを理解する必要がある。
「……分かった。フェドロシアだな」
「よろしい」
エヴァが背を向けようとした。
「待て! もう一つ!」
彼女は肩越しに振り返った。
「まだあるのかえ?」
「そうだ! なんで俺を助けてくれるんだ?」
彼女はしばらく黙っていた。
そして、微笑んだ。
「そなたが、どの道を選ぶのか気になるからじゃよ」
「それは答えになってないだろ」
「そなたに教えられるのは、そこまでじゃ」
俺はうめいた。
「信じられない……」
「よく言われるのう」
足元の水面が波紋を描き始めた。
俺は下を見た。
「……ん? エヴァ?」
「時間じゃ」
「時間って、何の?」
「目覚める時間じゃよ、ジュンヤ」
白い空が徐々に薄れていく。ヤシの木が輪郭を失い、二つの長椅子も遠くへと溶けていった。
俺は彼女に向かって一歩踏み出した。
「待て! まだ、なんで俺の名前がログに表示されなかったのかも、あんたが一体――」
「妾の名を覚えておくのじゃ、ジュンヤ」
彼女の声が、消えゆく世界に響いた。
俺は足を止めた。
エヴァ・モーニングスター。
なぜか、その名前は重要なもののように感じられた。理由が分かるからではない。
分からないからこそ、そう感じた。
「エヴァ・モーニングスター……」
俺は名前を繰り返した。
彼女の笑みが深まる。
「よくできました」
「その名前が、そんなに大事なのか?」
そのとき、初めて彼女の表情が変わった。
ほんのわずかに。
だが、いつものふざけた笑みの奥に、俺には理解できない何かが垣間見えた。
古く、そしてどこか悲しげな何かが。
「それはのう……」
彼女は静かに答えた。
「いつの日か、前へ進み続けるよう、そなたに告げた者が誰だったのかを思い出す必要があるかもしれぬからじゃ」
世界が白く染まった。
そして、俺は目を覚ました。




