第三十一話
第三十一話
董卓軍の陣を離れてから、何日かが過ぎた。
朱儁軍の陣が見えた頃には、日がかなり傾いていた。
朱儁軍へ近づくにつれ、官軍の伝令とすれ違うことが増えた。
行き交う兵の数も多い。
道の脇には壊れた荷車が寄せられ、その向こうでは負傷兵を乗せた馬車が反対方向へ進んでいた。
黄色い布を腕に巻いた捕虜の列も見えた。
以前より、戦場が動いている。
そう感じながら進んでいると、前方から馬が駆けてきた。
「止まれ!」
先頭の兵が手を上げる。
劉備たちは足を止めた。
「援軍か!? 何処の所属だ!」
鄒靖の兵が一歩前へ出る。
「鄒靖殿所属の兵と、義勇兵です!」
「義勇兵?」
騎馬の男が劉備たちを見る。
背後の関羽と張飛にも視線を移し、最後に劉備へ戻した。
「貴様が義勇兵を束ねる者か」
「ああ」
「名は?」
「劉備玄徳」
「分かった」
男は隣の兵へ顔を向けた。
「先に知らせろ。朱儁将軍へだ」
「はっ!」
兵が馬を返し、陣へ駆けていく。
しばらく待たされた後、陣内へ通された。
董卓軍の陣とは雰囲気が違う。
兵が絶えず行き交っていた。
矢が運び込まれ、盾が積み上げられている。
怪我をした兵が治療を受け、そのすぐ横では次の出陣へ向けて武具が点検されていた。
陣の奥へ進むほど、慌ただしさが増していった。
やがて大きな陣幕の前で止められる。
「入れ」
中へ入る。
数人の武将が地図を囲んでいた。
その中心にいた男が顔を上げる。
「劉備玄徳はどれだ」
「ワシじゃ」
劉備が前へ出た。
朱儁はしばらく顔を見た。
「劉備玄徳……」
その名を口の中で繰り返し、側近へ顔を向ける。
「洛陽から回ってきた手配書があったな。持ってこい」
側近が書付の束を持ってきた。
朱儁は何枚かめくる。
やがて一枚で手が止まった。
劉備を見る。
書付を見る。
もう一度、劉備を見る。
「貴様が洛陽で宦官を殴り、捕縛命令を受けている劉備玄徳か!」
陣幕の中にいた者たちの視線が、一斉に劉備へ集まった。
張飛が横を見る。
関羽は何も言わない。
劉備は頭を掻いた。
「まあ、そうなるのう」
朱儁は手配書を見たまま黙った。
やがて顔を上げる。
「この書付が回ってきた時は痛快だったぞ!」
「あいつらはいつも威張っているからな!」
朱儁は手配書を机へ置いた。
「だが、それはそれとして捕らえろ」
「待て!」
周囲の兵が動きかける。
劉備は懐へ手を入れた。
「鄒靖殿から書状を預かっとる!」
朱儁が手を上げた。
兵たちが止まる。
「鄒靖から?」
「ああ」
劉備は折り畳まれた書状を取り出した。
兵が受け取り、朱儁へ渡す。
封を確かめてから開く。
朱儁は黙って読み始めた。
しばらくして、眉がわずかに寄る。
「……劉備」
「何じゃ」
朱儁が書状から顔を上げる。
「よく勝手な行動を起こすと書いてあるが?」
劉備は黙った。
「否定せんのか」
「……できん」
朱儁はもう一度書状へ目を落とした。
「だが」
紙を持つ手が止まる。
「これまでの戦いで、目を見張る働きをしたともある」
劉備は黙って朱儁を見た。
朱儁は書状を畳んだ。
「勝手はするが、戦では使えるらしいな」
そのまま机へ置く。
「今は捕らえん」
陣幕の中にいた兵がわずかにざわめく。
「一人でも多く兵が欲しい」
朱儁は劉備の後ろに立つ関羽と張飛へ目を向けた。
「ただし」
朱儁の声が低くなる。
「勝手に動くな」
「分かった」
朱儁はしばらく劉備を見た。
その時だった。
陣幕の外から、慌ただしい足音が近づいてくる。
「報告!」
一人の兵が飛び込んできた。
「前線より急報です!」
朱儁の顔つきが変わった。
「言え」
「黄巾軍が、また前へ出ました!」
「数は」
「前より少数です!」
兵は息を整える。
「ですが――」
言葉を切った。
「退きません」
朱儁が地図へ目を落とす。
劉備もそちらを見る。
「少ないのに?」
「はい」
兵が頷いた。
「負傷しても前へ出ています」
陣幕の中から、先ほどまでの空気が消えた。
朱儁が地図上の一点を指す。
「ここか」
「はっ」
「分かった。戻れ」
兵が走り去る。
朱儁はしばらく地図を見ていた。
やがて劉備たちへ顔を向ける。
「ちょうどいい。働きで示せ」
劉備は地図へ目を落とした。
朱儁軍へ着いたばかりだった。
休む暇はなさそうだった。
陣を出る頃には、空の赤みがさらに濃くなっていた。
朱儁軍の兵に案内され、劉備たちは前線へ向かう。
義勇兵も後ろから続いていた。
道の両脇には、折れた槍や割れた盾が残っている。
土には新しい血の跡もあった。
「近いな」
張飛が丈八蛇矛を担ぎ直す。
「ああ」
前方から怒号が聞こえていた。
太鼓の音も混じっている。
丘を越えると、戦場が見えた。
官軍の列が横へ広がり、その向こうに黄色い布が揺れている。
数だけなら、多くない。
これまで見てきた黄巾軍と比べても、明らかに少なかった。
「本当に、あれだけか?」
張飛が目を細める。
案内役の兵が頷いた。
「昼から数は減っています」
「なら押せるじゃろ」
「それが――」
兵が言い終える前に、前方で槍がぶつかった。
官軍の列が一歩進む。
黄巾兵が押される。
そのまま崩れるかと思った。
だが、退かない。
一人が倒れる。
後ろの男がその槍を拾う。
別の場所では、肩を斬られた兵がそのまま前へ出ていた。
「……何じゃ、あれ」
劉備が足を止める。
黄巾兵が一人、盾へ体当たりする。
官軍の兵が押し返す。
男は倒れた。
それでも立ち上がろうとする。
その横を別の黄巾兵が駆け抜けた。
「退く気がねぇぞ」
張飛の声から、いつもの軽さが消える。
関羽も青龍偃月刀へ手を掛けた。
「逃げ道がないのかもしれん」
「逃げ道?」
「後ろを見ろ」
劉備が目を凝らす。
黄巾軍の背後には、低い丘と林がある。
林の脇、その向こう側には官軍の旗が見えた。
「回られとるのか」
「完全ではない」
関羽が答える。
「だが、退けば追われる」
前方で悲鳴が上がった。
官軍の列が乱れる。
一人の黄巾兵が盾の間へ飛び込み、槍を振り回していた。
数人が倒れる。
すぐに囲まれ、地面へ叩き伏せられた。
それでも腕を伸ばし、落ちた剣を掴もうとしている。
「……前より厄介じゃな」
劉備が呟く。
「少ねぇのにな」
張飛が答える。
前方から兵が走ってきた。
「増援か!」
「ああ!」
「右へ回ってくれ! 押されている!」
劉備はその先を見る。
官軍の右翼が少しずつ下がっている。
黄巾軍の方が少ない。
それでも、押していた。
「行くぞ!」
張飛が先に走り出す。
「待て、翼徳!」
劉備も追う。
関羽が続いた。
義勇兵たちも動く。
右へ回ると、すぐに槍が飛んできた。
「伏せろ!」
劉備が身を沈める。
頭上を穂先が抜ける。
張飛が丈八蛇矛を振るった。
槍を持っていた黄巾兵が吹き飛ぶ。
「次!」
横から二人。
関羽が前へ出る。
青龍偃月刀が横へ走った。
一本目の槍が弾かれ、もう一本が地面へ落ちる。
「押せ!」
官軍の兵が声を上げた。
列が前へ出る。
黄巾兵が下がった。
一歩。
二歩。
そこで止まった。
「まだ来るぞ!」
張飛が叫ぶ。
倒れた兵を踏み越え、黄巾兵がまた前へ出る。
血で片腕を赤く染めた男もいた。
足を引きずる者もいる。
それでも向かってくる。
「何で退かん!」
劉備が剣を受け止める。
刃を押し返し、肩で突き飛ばす。
男が倒れる。
その後ろから別の男が飛び込んできた。
「兄者!」
関羽の刃が間へ入る。
黄巾兵の武器が弾かれた。
劉備は息を吐く。
「助かった!」
「前を見ろ!」
関羽の声が飛ぶ。
また来る。
終わらない。
数は少ないはずだった。
なのに、一人倒すたびに次が出てくるように感じた。
張飛が槍を振り抜く。
「しつけぇ!」
黄巾兵が倒れる。
その向こうで、黄色い旗が揺れた。
誰かが叫んでいる。
「退くな!」
「ここを抜かれれば終わりだ!」
声が重なる。
劉備の動きが一瞬止まった。
終わり。
その言葉だけが耳に残る。
「アニキ!」
張飛の声で我に返る。
横から槍が来た。
劉備は剣で受け流す。
「ぼさっとすんな!」
「分かっとる!」
押し返す。
黄巾兵がよろめいた。
そこへ官軍の槍が伸びる。
男が倒れた。
前方の黄色い列が、ようやく揺らいだ。
「下がったぞ!」
誰かが叫ぶ。
官軍が一斉に前へ出る。
「追うぞ!」
兵たちが走り出す。
「待て!」
劉備が声を上げた。
「林の向こうが見えん!」
張飛が劉備を見る。
「伏兵か?」
「分からん!」
近くにいた官軍の兵が林を見る。
「止まれ! 先へ出るな!」
前へ出かけた兵たちが足を緩める。
その直後だった。
林の奥から矢が飛んだ。
「盾!」
関羽が叫ぶ。
官軍の兵が盾を上げる。
矢が次々と当たった。
何本かは隙間を抜ける。
悲鳴が上がる。
「やっぱりおったか!」
劉備が身を低くする。
「アニキ、どうする!」
張飛が横へ並ぶ。
劉備は林を見る。
追えば危ない。
だが、ここで止まれば黄巾兵は逃げる。
一瞬だけ迷った。
「ワシらは追わん!」
「いいのか!」
「今のまま入ったら食われる!」
関羽が頷く。
「義勇兵はここで止まれ!」
後ろから続いていた者たちが足を止める。
盾が前へ並ぶ。
矢が数本、地面へ突き刺さった。
それ以上は飛んでこなかった。
林の向こうで、黄色い旗が遠ざかっていく。
張飛が舌打ちする。
「逃げられたな」
「ああ」
劉備は息を整えた。
足元には倒れた兵がいる。
官軍も。
黄巾も。
数では勝っていた。
押してもいた。
それでも、簡単には終わらなかった。
「……勝っとる側が、何でこんな削られとる」
劉備が呟く。
関羽が戦場を見る。
「追い詰められているからだろう」
「追い詰められた方が、強くなるってのか」
「強いとは違う」
関羽は倒れた黄巾兵へ目を向けた。
「退けなくなっている」
劉備も見る。
少し前まで槍を握っていた男だった。
手は、まだ柄から離れていない。
遠くで太鼓が鳴った。
官軍のものだった。
戦が終わった合図ではない。
次の動きに備える音だった。
劉備は林の向こうへ目を向けた。
黄巾の数は減っている。
それでも。
終わりが近い戦場ほど、静かには終わらないらしい。
朱儁の陣へ戻った頃には、すでに日は落ちていた。
篝火の間を抜け、劉備たちは先ほど入った陣幕へ向かう。
中では、まだ地図が広げられていた。
朱儁は戻ってきた三人を見る。
「どうだった」
「数は減っとる。じゃが、退く気がない」
劉備は答えた。
「そうだろうな」
朱儁は地図へ目を戻した。
「ここ数日、どこも同じだ」
「どこも?」
「ああ」
朱儁が地図の北へ指を置く。
「広宗では、張角の軍が押し込まれている」
指が少し動く。
「張梁も兵を率いて前へ出ている。官軍と何度もぶつかっているそうだ」
朱儁の指が別の場所へ移る。
「張宝も下曲陽に兵を集めている。こちらも官軍との戦が続いている」
張飛が地図を覗き込む。
「黄巾の主力が、どこも押され始めてんのか」
「そうだ」
朱儁が答える。
「初めの頃とは違う。各地に広がっていた黄巾は、もう好きには動けん」
劉備は地図を見る。
北から南まで、各地に官軍の印が置かれている。
以前は、黄巾軍がどこから現れるのか分からなかった。
町を落とし、道を塞ぎ、別の土地へ移る。
官軍が追えば、その先でも兵が増えた。
今は違う。
黄巾軍のいる場所が、少しずつ限られてきている。
「終わりが近いんか」
劉備が聞く。
「近い」
朱儁は迷わず答えた。
だが、その顔は緩まなかった。
「だからこそ、厄介になっている」
夕方の戦場を思い出す。
肩を斬られても前へ出た男。
倒れても武器へ手を伸ばした男。
林へ退きながら、伏兵を残した黄巾兵。
「逃げる場所が減ったからか」
「それもある」
朱儁が地図の南へ手を置く。
「それだけではない」
そこには、劉備たちが今いる戦場があった。
「この辺りの黄巾も、以前ほど好きには動けん。退けば官軍が追う。村へ逃げれば、補給も難しくなる」
「なら降ればええ」
「全員がそう考えるならな」
朱儁の声が低くなる。
「ここまで戦ってきた者の中には、今さら降れんと思っている者もいる」
劉備は黙る。
「家族を失った者もいる。官軍を殺した者もいる。黄巾に加わったことで、戻る場所そのものを失った者もいるだろう」
朱儁が地図から手を離した。
「追い詰めれば、全員が武器を捨てるわけではない」
陣幕の外から馬の蹄が聞こえた。
続いて、声が上がる。
「伝令!」
すぐに兵が入ってきた。
「申し上げます!」
朱儁が振り向く。
「北方より報せです!」
「言え」
「官軍が広宗周辺へ兵を集めています。張角軍との戦は、さらに激しくなる見込みとのこと!」
「張宝の方は」
「下曲陽でも動きがあります。詳しい報せはまだ届いておりません!」
「分かった」
朱儁が頷く。
「続報が来たらすぐに持ってこい」
「はっ!」
伝令が出ていく。
張飛が腕を組んだ。
「本当に終わりそうじゃねぇか」
誰もすぐには答えなかった。
朱儁が地図へ向き直る。
「終わらせるんだ」
朱儁の指が南陽へ戻った。
「北が動いている間に、こちらも詰める」
劉備もその場所を見る。
「こっちも残っとるか」
「ああ」
「どれくらいじゃ」
「まだ多い」
朱儁は地図の一点を叩いた。
「ここには、まとまった黄巾が残っている。北が終わろうが、こいつらまで消えるわけではない」
先ほどの戦場にいた黄巾兵は、その一部にすぎない。
各地で退路を失った兵が集まれば、今日のような戦いはさらに激しくなる。
劉備は地図に並ぶ印を見た。
「明日も出てもらう」
朱儁が言った。
「今日ので分かっただろう。数だけ見て油断するな」
「ああ」
劉備は頷いた。
「もう分かった」
張飛が丈八蛇矛を肩へ担ぎ直した。
「明日も、あんな連中が出てくるってことか」
「そう思っておけ」
朱儁が答えた。
「今日は休め」
「ええのか」
「明日動けなくなったら困る」
劉備は陣幕の外へ目を向けた。
篝火の向こうでは、矢を運ぶ兵と負傷者を治療する者が行き交い、夜番へ向かう兵も列を作っていた。
ここ南陽でも、遠く離れた北でも、戦はまだ続いている。
黄巾の旗は少しずつ追い詰められている。
それでも、まだ倒れてはいなかった。
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