第九十一話 佐和山城攻略
春を告げる風が、京の都に、柔らかな日差しを運んできた。しかし、宗則の心には、まだ冬の寒さが残っていた。信長から命じられた、近江・佐和山城攻略。それは、宗則にとって、新たな試練の始まりであった。
佐和山城は、琵琶湖の南岸に位置する、堅固な城であった。城主・磯野員昌は、浅井家の譜代家臣として知られ、武勇だけでなく、外交手腕にも長けた人物であった。信長は、浅井家を攻略するためには、まず、佐和山城を落とす必要があると判断し、宗則に、員昌との交渉と、周辺に残る六角家の残党狩りを命じたのだ。
「磯野員昌か。」
宗則は、信長から渡された、員昌の情報を、改めて読み返していた。
(信長様は、なぜ、それがしに、このような役目を…?)
宗則は、自問自答していた。信長は、宗則の陰陽師としての能力を、高く評価していた。しかし、員昌のような人物を、言葉だけで、降伏させることができるのだろうか?
「宗則様、ご出発の準備が整いました。」
綾瀬が、部屋に入ってきた。彼女は、春蘭の命により、宗則の護衛として、常に、彼の傍らに控えていた。
「ありがとう、綾瀬。」
宗則は、立ち上がり、窓の外を見た。遠くに見える佐和山城は、まるで、巨大な獣のように、宗則を威圧していた。
「行くぞ、綾瀬。」
宗則は、決意を込めて言った。
「信長様の期待に応えねばならぬ。」
宗則は、綾瀬と共に、佐和山城へと向かった。道中、宗則は、六合に、佐和山城周辺の状況について尋ねた。
「六合、佐和山城周辺は、どのような様子じゃ?」
六合は、宗則の問いに、静かに答えた。
「佐和山城周辺には、六角家の怨念が渦巻いておる。磯野員昌は、長年、六角家と戦い、多くの将兵を討ち取ってきた。多くの恨みの念が、彼に集中しておる。気を付けるのじゃ。」
「怨念か…。わしには、まだ、よく分からぬものだな。」
宗則は、眉根を寄せた。白雲斎は、怨念について、多くを語らなかった。
「怨念とは、人の心の闇が生み出すものじゃ。憎しみ、恨み、後悔、悲しみ…そういった負の感情が、死後も残り、現世に影響を及ぼす力となる。磯野員昌は、多くの敵を討ち、多くの血を流してきた。その中には、無念を抱きながら死んでいった者たちもいるだろう。彼らの恨みが、員昌に、まとわりついておるのかもしれぬ。」
六合の言葉は、宗則の心に、重くのしかかった。宗則は、陰陽師として、人の苦しみを救いたいと願っていた。しかし、人の心の闇、ましてや、戦乱の世に生まれた怨念を、本当に、祓うことができるのだろうか?
佐和山城周辺には、六角家の残党が潜伏し、抵抗を続けていた。信長は、佐和山城を攻略すると同時に、これらの残党勢力を一掃し、南近江を完全に掌握するつもりであった。
宗則は、まず、佐和山城を包囲し、員昌に交渉を申し入れた。信長は、員昌の能力を高く評価しており、彼を生かして、織田家に取り込みたいと考えていたのだ。
数日後、宗則は、員昌と対面した。員昌は、思慮深く、知的な武将であった。彼は、信長の申し出を、冷静に受け止め、自らの立場と、浅井家の未来について、熟考していた。
「信長様は、わしを生かしておきたいと申されるのか。」
員昌は、静かに言った。
「それがしは、信長様の使者として、貴殿に、そのお考えを伝えに参りました。」
宗則は、員昌の目をじっと見つめながら、言った。
「信長様は、貴殿の武勇と知略を、高く評価しておられます。貴殿が織田家に加われば、必ずや、重用されるでしょう。」
「しかし、わしは、浅井家に仕える身。主君を裏切ることはできぬ。」
員昌は、苦悩していた。彼は、信長に降れば、裏切り者として、非難されるであろう。しかし、信長に逆らえば、滅亡は、避けられぬ。
「磯野殿、今は、戦乱の世でございます。生き残るためには、時に、苦渋の決断を下さねばならぬこともございます。」
宗則は、静かに言った。
「貴殿は、浅井家に忠義を尽くしておられます。しかし、浅井家は、すでに、滅亡の道を歩んでおります。信長様に降伏することで、貴殿は、浅井家の家臣たちの命を、救うことができるのです。」
宗則の言葉は、員昌の心に、深く突き刺さった。彼は、自らの命よりも、家臣たちの命を、大切に思っていた。
「…それがしは…どうすれば…良いのだ…?」
員昌は、苦悩していた。彼は、かつて、六角家との戦で、多くの家臣を失っていた。その時の悲しみと、後悔が、今も、彼の心に、深い傷跡を残していた。
(…わしは…また…家臣たちを…死なせてしまうのか…?)
員昌は、自問自答していた。
「信長様は、貴殿の決断を、待っておられます。」
宗則は、静かに言った。
員昌は、しばらくの間、沈黙していた。そして、ついに、重い口を開いた。
「…分かった…。わしは…信長様に…降る…。」
員昌は、決断した。彼は、信長に降伏することで、家臣たちの命を、救うことを選んだのだ。
こうして、佐和山城は、開城し、信長の手に落ちた。宗則は、知略を駆使して、信長に、勝利をもたらしたのだ。
宗則は、員昌に、浅井家の残党狩りの先鋒を命じた。員昌は、信長への忠誠を示すため、残党たちを、容赦なく討伐していった。しかし、その一方で、彼の様子は、次第におかしくなっていった。
彼は、時折、虚ろな目をし、意味不明な言葉を呟くようになった。夜には、悪夢にうなされ、叫び声を上げることもあった。
(六合の言う通り、磯野様は、六角家の怨念に蝕まれつつあるのか…?)
宗則は、不安を募らせた。彼は、員昌を救うために、何かできることはないかと、六合に相談した。
「六合、何か、方法はないのか? 磯野様を、救う方法は…。」
六合は、宗則の問いに、静かに答えた。
「怨念は、人の心の弱さに付け込む。磯野員昌は、信長様に降伏したことで、自らの誇りを傷つけられ、心が弱っている。その心の隙間に、怨念が入り込んでいるのじゃ。」
「では、どうすれば…?」
「怨念を祓うには、彼の心を、強くするしかない。彼に、信長様に仕えることに、誇りを持たせるのじゃ。」
宗則は、六合の言葉に、頷いた。しかし、それは、容易なことではなかった。員昌は、信長に対して、強い不信感を抱いていた。
宗則は、員昌を自室に招き、二人きりで向かい合った。宗則は、懐から小さな香炉を取り出し、火を灯した。甘い香りが、静かに部屋に広がっていく。
「磯野様、少しの間、目を閉じて、この香りを深く吸い込んでみてください。」
員昌は、言われるがままに目を閉じ、香炉から立ち上る煙をゆっくりと吸い込んだ。
「磯野様は、多くの戦を経験され、多くの苦しみを味わってこられた。その心の傷は、深く、容易に癒えるものではないでしょう。しかし、信長様は、貴殿の武勇と知略を高く評価しておられます。信長様の下でこそ、貴殿の力は真に活かされ、この乱世を終わらせるために役立てることができるのです。」
宗則は、静かに語りかけながら、陰陽術を込めた香の煙を、員昌の額にゆっくりと吹きかけた。煙は、員昌の額に吸い込まれるように消えていく。
しかし、員昌の表情は、依然として硬かった。
「信長は、化け物じゃ。あやつは、人の心を持たぬ鬼じゃ。」
員昌は、そう言って、顔を歪めた。
宗則は、員昌の言葉に、言葉を失った。彼は、員昌の心が、すでに、怨念に蝕まれ、深く傷ついていることを、悟った。
数日後、員昌は、残党狩りの最中、森の中で、かつて自分が手にかけた六角側の武将の面影を、討伐対象に見つけてしまった。それは、かつて、員昌が仕えていた浅井家の旧臣であり、六角家に寝返った男だった。
男は、員昌の姿を見るなり、憎しみに満ちた目で、彼を睨みつけた。
「磯野員昌! 貴様! 我が主君を裏切った裏切り者め! この恨み、晴らさでおくべきか!」
男の言葉は、員昌の心の傷を、えぐり出した。彼は、かつて、多くの家臣を失い、その中には、六角家に寝返った者もいた。員昌は、彼らを討つことで、自らの心を、守ろうとしていた。しかし、その行為が、彼自身の心を、さらに、傷つけていたのだ。
男の言葉は、員昌の心の奥底に眠っていた、六角家の怨念を、呼び覚ました。怨念は、員昌の心の弱さに付け込み、彼を、狂乱状態へと、突き落とした。
「裏切り者! 六角を裏切った者どもめ! 死ね! 死ね!」
員昌は、血走った目で、叫びながら、刀を振り回した。
「磯野殿! 落ち着かれませ!」
宗則は、員昌を止めようとしたが、すでに、彼の言葉は、届かなかった。員昌は、完全に、怨念に支配されていた。
宗則は、陰陽術で、員昌を鎮めようとした。彼は、懐から護符を取り出し、空中に掲げた。護符には、複雑な模様が描かれており、そこから、かすかに、光が放たれていた。宗則は、目を閉じ、精神を集中させ、呪文を唱えた。
「天地の精霊よ、我が願いを聞き届けたまえ。この者の心を、闇から解き放ちたまえ。急急如律令!」
護符から、強い光が放たれ、員昌を包み込んだ。それは、単なる癒しではなく、彼の深層心理に干渉し、怨念と戦う力を与えようとする、宗則の強い意志が込められた光だった。員昌の体が、光に包まれると、彼の苦しげな表情が、わずかに、和らいだように見えた。しかし、次の瞬間、光は消え、員昌は、再び、刀を振りかざした。
「無駄だ! わしは、もう、誰にも止められぬ!」
員昌は、叫びながら、宗則に襲いかかってきた。宗則は、咄嗟に、身をかがめて、員昌の攻撃をかわした。
(ダメだ…私の力では…磯野様を…救えぬ…)
宗則は、絶望感に襲われた。
混乱の中、一人の兵士が、恐怖に駆られて、員昌に矢を放った。矢は、員昌の胸に、深々と突き刺さった。
「ぐわっ!」
員昌は、大きく目を見開き、その場に崩れ落ちた。
「…長政…様…。」
員昌は、かすれた声で、かつての主君の名を呟くと、静かに、息を引き取った。
宗則は、員昌の亡骸を抱きしめながら、涙を流した。彼は、員昌を救うことができなかった。そして、自らの未熟さを、改めて、思い知らされた。
「これが、戦乱の世か。」
宗則は、呟いた。彼の心は、深い悲しみと、怒りで、満たされていた。
宗則は、員昌の亡骸を、丁重に葬った。
(私は、一体、何を、しているのだ?)
宗則は、自問自答した。彼は、信長様に仕えることで、戦乱の世を終わらせようとしていた。しかし、その過程で、彼は、多くの命を、奪ってきた。そして、多くの悲しみを、見てきた。
(本当に、これで、良いのだろうか?)
宗則の心は、揺れていた。彼は、自らの進むべき道に、迷い始めていた。
宗則は、自らの無力さを、改めて、痛感した。彼は、陰陽師として、もっと、力をつけなければ、人々を救うことなどできない。そして、戦乱の世を終わらせることなど、到底、不可能だ。
(私は、もっと、強くなければ…そして、六角家の怨念の根源を断たねば…)
宗則は、心に誓った。彼は、どんな困難にぶつかっても、決して、諦めない。彼は、自らの力を信じ、戦乱の世を終わらせるために、戦い続ける。
宗則は、拳を握りしめ、遠くの地平線を、見つめた。彼の瞳には、新たな決意が、宿っていた。
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