1.笑顔の奥にあるもの
手に残されたドーナツを口いっぱいに放り込んで、ユキは先を進むスバルの後を追った。スバルはチラリとユキの方を見やったが、そのまま何も言わずに歩いていった。
ユキは、さっきのように裾を掴もうと手を伸ばしかけたが、今度こそ本当に嫌がられそうでやめた。手持ち無沙汰な手は、今度はしっかりと腰にある剣の方へと持っていく。
今のこの手は、守るための手だ。
スバルに触れたいと思う衝動を抑え、ユキはそう自分に言い聞かせた。
しばらく歩くと路地裏に入った。右に、左に、真っ直ぐに。道を曲がるごとにすれ違う人は減り、王都での人々の喧噪も遠ざかっていく。周りが徐々に薄暗くなるにつれユキの気持ちもだんだん不安のようなものが広がった。
一体どこに向かっているのだろう。
スバルはユウトの居場所に心当たりがあると言っていたが、ユウトはいつもこの辺りに来るのだろうか。以前、女の子と話しに街に行きたいとぼやいていたが、まさかユキが知らないだけでこんな路地裏に女の子が大勢集まっている場所があるのだろうか。
いろいろな考えを思い浮かべながらとりあえずスバルについていくと、路地裏から出て拓けた道に出た。やっと狭い道から抜け出し少しほっと息をついたが、目の前に広がる光景にユキは目を見開いた。
最初に目に飛び込んできたのは、ボロボロの石造りの家だった。崩れかけの屋根に、穴だらけの汚れた壁、外装にまで伸びている蔦。割れたガラス窓。まるで人が住んでいるとは思えない壮絶な家がこの街には連なっていた。驚いているユキを他所にスバルはそのまま街の中を歩いていく。ユキはすぐにスバルの後を追いながら、あたりを見渡した。こんなに多くの家があるのに、あまり人の気配が感じられない。何やら物寂しく、まだ昼間だというのにあたりが薄暗く感じるせいで、少し肌寒い。
(本当にここに、ユウトが……?)
先ほどまでいた王都とは真逆と言っていいほどの閑静さ。そもそもここがどこなのかわからず、ユキは少しだけ不安気にスバルの背中を見つめる。
「スバル様、ここは……」
話しかけるとスバルは立ち止まり、ユキに振り返った。それにつられユキも立ち止まる。
「……王都の外れの貧民街だ。この奥はここよりもっとひどい」
「貧民街……」
「昔は住民街だったんだけどな。カグネ王国が攻めてきた時に住民のほとんどが避難して、ここはもぬけの殻になった。そこから王都に出稼ぎにきた奴らがここに住むようになって、この有様だ。たぶんここに住んでる労働者のほとんどがブドウ摘みだろうな」
スバルは説明をしながら、蔦が絡まった家の外壁に触れ、少し悲しそうに目を細めた。ユキもつられるようにスバルの視線の先を追い、あたりを見渡した。
コントラス王国は、ワインの名産国だ。
本来であれば、ワインは降水量が少なく、カラッとした晴天気候が望ましいとされている。しかしコントラス王国では沿岸の国ということもあり潮風に晒され葉が枯れやすく、ブドウを育てる環境には適していなかった。しかし暖かい気温と恵まれた日照のバランスさえ保てば、最高品質のブドウを栽培できることに気づいた。
また、海からくる潮風のおかげで、ほんのりと塩気を感じる上質な味わいを出すことがわかり、現王はその開発に注力する方針を立て、今ではそのワインが特産品として扱われ、海を楽しみ、恵まれた海鮮を食しながらワインを味わえる、そんな観光国として有名となっていったのだ。
しかしその裏では大量のブドウを栽培し、さらに品質を保たなければならない。人がいくらいても足りないくらいだ。だからこそブドウ積みは、どんな人材であろうと雇われる、貧困層にとってはありがたい仕事だ。しかしそのあまりに過酷な労働に比べ賃金は少ない。それでも賃金がないよりかはマシだと、ブドウ積みとして働いている貧困層は多い。ここはその労働者の集まりなのだ。
日々この観光国として落ちぶれないよう、国は品質を保つのに気苦労が絶えない。だからこそ、この労働環境を検知していながらも、解決する術を今のこの国では持っていないのだ。
そんなことを考えていると、スバルは家に向けていた視線をユキに移した。
「……そういえばお前はここにいたんだったな」
スバルが知っていることに驚き、ユキは目を開いた。しかし確か以前ユウトに捨て子だったことを話してしまっていたことを思い出し、納得する。おそらくユウトが報告したのだろう。スバルの側近であるユウトなら、ユキの素性を主に伝えるのは当然だ。そう思ってユキは少し眉尻を下げて微笑んだ。
「ええ。けど正直うろ覚えです。こんな景色だったような気もしてますが」
そう言いながらユキはまたあたりを見渡す。
元々ユキは貧民街にいたが、どうして貧民街にいたのかは覚えていない。その前に何をしていたのか。家族はいたのか。それさえも思い出せない。
ユキの一番古い記憶は貧民街を歩いていて、娘の代わりを探していたツクヨ男爵に拾われたことだけ。しかもだいぶ朧気だ。だから今この街を見渡しても、何の感慨もないし、本当にこんな場所だったのかさえわからない。そういえば以前スバルを襲った暗殺者も確かここで依頼を受けたと聞いた。治安があまり良くない場所でよく無事でいたものだ。
「……そうか。ならいい」
そう言ってスバルは目を伏せ、歩みを始めた。目を伏せられたせいで、スバルが何を思ったのかユキにはわからない。ユキはスバルの背を小走りで追い、先ほどとは違う不安に襲われた。
貴族でも、由緒ある血筋の子でもない、貧民街にいた子どもだと聞いたとき、スバルはどう思ったのだろうか。
今は騎士としてそばにいるが、元々は婚約者だったのだ。騙されたと、思ってはいないだろうか。本当なら出会えるはずなどなかったのに。身の程にも、ユキは国の王子に恋をしてしまった。身分知らずの汚い子だと、余計に嫌われてしまっただろうか。
そこまで考え頭を振る。たとえ嫌われたとしても、そんな風にスバルが思うはずがない。だってスバルは優しい人だとユキは知っている。もし嫌われたとしても、それはユキ自身に原因があるのだ。それに、もしそう思っていたのなら、スバルはこんな貧民街の場所に来るはずがないし、知っているはずがないのだ。
じっと見つめていると、スバルが歩きながら、少しだけ視線をユキに向けた。目が合い、ユキの心臓がドキリと鳴る。けれど、スバルはまた視線を前に戻した。ユキはそのスバルの行動に首を傾げるが、はっと気づいた。
(あ、ちゃんと着いてきてるか、気にしてくれているんだ……)
ほとんど初めてといっていいユキが、迷ってどこかに行ってしまわないように、スバルは後ろを歩くユキを都度確認しているのだ。
そのことに嬉しいと思う反面、胸がきゅっと切なくなった。
気にしてくれている。心配してくれている。
けれど、そのスバルの感情は、決してユキと同じ『好き』からではない。
スバルが優しいから、こんなユキにも心配してくれているのだ。
いつも、スバルのその不器用な優しさが好きだ。
けれど、時々虚しく感じてしまう自分は、なんて自分勝手なのだろうか。
悲観的になるのはやめたと決めたのに、見せつけられるとすぐに落ち込んでしまう。
いつか、優しさでも、心配からでもない、お互い純粋な気持ちで手を繋げれば。
少しだけ想像して、おかしくなって笑いがもれた。
あまりにも乙女な思考をしている自分が久しぶりで、むず痒い。
そんなことを思いながらスバルの後を小走りで追い、距離を縮めて歩いていく。時々何人かすれ違ったが、その表情には生気がなく、フードを被っているユキたちを観察するようにじっと見ていた。異物を見るような、警戒しているような、けれど興味があるような、なんとも言えない視線。まるで商品の品定めをされているかのようだ。今まで浴びたことのない視線にユキは思わず眉を顰めた。
橋を渡り、街の通りの道から少し逸れ、川沿いを歩いていく。川沿いの少し水っ気のある空気に少しだけ詰めていた息を吐きだす。あの通りはどうも息が詰まる。知らない場所で緊張していたこともあるが、そこに住む人々の妙な視線のせいで、ユキも警戒しながら歩いていた。疲れた身体を癒すように大きく息を吸い、瑞々しい空気を身体に送り込む。
しばらく歩くと、建物が見えてきた。石造りの小さな建物で、尖塔が空に刺すように高くそびえ立っている。
「教会……?」
目の前まで来て初めて教会だと気づいた。屋根は半分以上壊れ、薔薇窓は壊されている。かろうじて教会と気づけたのは、尖塔の十字架と教会特有の建物の形のおかげだ。
「久しぶりだな……」
ぼうっと教会を眺めていると、隣に立っていたスバルも同じように見上げ、ぼそりと呟いた。目を細め、その瞳には懐かしさが滲んでいる。しかしぎゅっと眉を寄せるその表情はどこか悲しげだった。そんなスバルをユキは盗み見る。
本当は、スバルはここに来たくなかったんじゃないだろうか。
そんなことを考えながらじっとスバルを横目で見ていると、唐突に教会の扉が開き、そこから頬に傷を負った大柄な男がでてきた。
「おい、ここになんの用だ? てめぇら」
男はスバルたちと目が合うなり、見下げるように睨みつけ喧嘩腰に顔を近づけてきた。
初対面でこの態度。敵意丸出しだ。
ユキは咄嗟にローブで隠してある剣に触れるが、スバルはユキの前に腕を出し、ユキの動きを止めた。
「リヒトに用がある。まだあいつはいるか?」
リヒト。初めて聞く名前に、ユキは首を傾げながらスバルを見るが、スバルは正面にいる大柄の男を見据えている。すると男はスバルの言葉にピクリと片眉を上げて反応した。
「ああん? アニキはお前らみたいな身なりのいい奴らなんて相手にしねぇよ。けぇれ、けぇれ!」
しっしっとまるで犬を追い払うようにあしらわれ、スバルもさすがに不快に思ったのか、顔を歪ませた。
「じゃあお前でいい。最近ユウトはきたか?」
「知るかッ! さっさと帰れ! お前らみたいな奴が来ると、金とタバコ臭くなって仕方がねぇ! くせぇくせぇ!」
男は煽るように鼻を摘まんで手をバタバタと大げさに振った。聞く耳を持たない上、この粗暴な態度。ユキは目を細め、腰にある剣にもう一度触れた。
「……スバル様、こいつ黙らせても?」
「やめろ」
スバルも不愉快そうに顔を歪ませながらもユキを制止するが、ユキは不満げに目を細め、スバルを見た。ユキだってわかっている。この場で剣を向けて争っても、余計に相手を逆なでして、情報が得られないと。けれど、スバルを馬鹿にするような態度がどうしても許せない。ちょっとぐらい痛い目を合わせても悪くないのではないだろうか。どちらにしろ、この大柄の男相手でも負ける気はしない。
「なーに騒いでんの?」
突然後ろから声が聞こえてきてスバルもユキも振り返った。
そこには少女がいた。
華やかな薔薇のような赤い髪。肩まで大きく開いた深緑のワンピースドレスが、風に乗って髪と共にふわりと広がる。目が合うと、髪と同じ赤い瞳は驚いたように大きく見開かれた。快活そうな猫目が可愛らしく、けれど大胆ともとれる大人っぽい服装が相まって女性らしさを出している。とても魅力的な少女だ。
ここの関係者だろうか。そう思ってユキは口を開こうとした。
「……もしかして、スイ?」
先に口を開いたのは少女の方だった。しかしユキは少女の言葉に首を傾げた。
(スイ?)
一体誰のことだ。
そこで少女の目がユキに向けていないことに気づき、その視線の先を追ってユキの隣を見た。スバルも少女と同じように目を開いて、じっと少女の方を見ていた。
「……アンナか?」
そう言いながらスバルはローブのフードを取る。フードを取り、スバルの顔があらわになった途端、少女はぱっと顔を明るくした。
「スイ⁉ 久しぶりー!」
少女は嬉しそうに声を上げながらスバルに駆け寄り、その首に腕を回して思いっきり抱き着いた。
「ッ⁉」
突然現れた見ず知らずの少女がスバルに馴れ馴れしく抱き着いたことに、今度はユキが驚く。しかしそんなユキのことなど知らず、スバルは驚き慌てたように少女を引きはがそうとした。
「お、おい! 抱き着くなッ! 離れろ!」
「えー、もうッ! 久しぶりなんだからいいじゃない」
「ベタベタされるのは嫌いなんだよ」
「そういえば、そんなこと言ってたかしら。でもハグしちゃお!」
「やめろって!」
スバルが怒鳴りながら少女を引きはがそうとするが、少女は遠慮なしにスバルの頬に自分の頬をスリスリとあてた。スバルは嫌そうに顔を逸らす。
「…………」
信じられない光景に、ユキは呆然とすることしかできなかった。
(え、なに。これ……)
今目の前で何が起こってる。
スバルが女の人に抱き着かれてる。しかも仲良さそうに。
人と馴れ合うのが嫌いで、口が悪くて、無愛想な、あのスバルが。しかも女性とこんなに触れ合ってるのを許容している。
パーティーではいつも女性が近づくだけで一瞬嫌な顔していたのに。いや、今も嫌そうな顔をしているが。そもそもこんなに密着させたり顔を近づけることをスバルは許さないし、いつものスバルならすぐにでも引き剥がすのに。嫌そうにしていても、なんというか、心を許している感じだ。
婚約者だったユキですら、こんな大胆なことやったことなかったのに。
せいぜい、手に触れる程度で。さっきだって手を繋がれたけど、すぐ放されて。
ちょっと待て、なんだこの扱いの差は。
こっちは元婚約者で、今では護衛騎士なのに。
まさか彼女は、それ以上の関係――……?
夢かと思うほどの光景と浮かんでくる様々な不満と疑問で頭がくらくらしてきた。思わず顔が引きつる。
「たく、変わってねぇな」
スバルは呆れたように抱き着いてきたアンナという少女の腰をつかんで離し、今度こそアンナは回していた腕を外した。それでも恋人同士ともとれる距離だ。彼女の豊満な胸がスバルの胸にあたっていてユキは気が気でなかった。近い近い。
そんなユキをよそに、アンナはスバルの言葉に首を傾げる。
「そうかしら? 結構いい女になったと思わない?」
「ガキが何言ってんだ」
「何よ! もうあたし十五よ⁉ 立派な女性なんだから! 胸だってほらッ!」
「そうやって無邪気に見せつけてくるのがガキだって言ってんだ」
アンナはスバルの言動に目を吊り上げた。肩まで開いたワンピースのため、寄せた際の胸の谷間がよく見える。そんなアンナにスバルはさらに呆れたように笑い、アンナはむうっと唇を尖らせる。
微笑ましい光景だがユキはアンナの言動に目をむいた。
(十五⁉ ヒュイスと同じくらい⁉ それに……)
ユキは見せつけているアンナの胸を見つめた。十五とは思えない豊満な胸。思わず服の上から自分の胸に触れた。
十五のそれに比べてユキの胸は、なんというか普通だ。大きくもなくそれほど小さくもなく。騎士になるためそれなりに筋肉もつけ訓練してきたから、胸なんかそれ程育たなかったし、そもそも戦う時に胸が大きくては邪魔だからユキ自身気にしていなかった。
けれど、どうだ。
やはりアンナを見ていると胸が大きい方が女性として魅力的に見え、気になってしまう。女性のユキからみてもそう思うのだから、男性から見てもきっとそうなのだろう。
(もしかして、これが原因でスバル殿下に意識されてないのか……?)
小さくもない、大きくもないこの胸のせいなのか。
もやもやと考えていると二人で話していたアンナがやっと近くにいたユキに目を向けた。
「あら? そっちは? 護衛?」
アンナの言葉に、ユキは混乱していた頭がすっと冷め、目を細めた。
護衛、と言っているということはスバルの正体を知っているということ。いつ知り合ったのかは知らないが、スバルがそれだけ信頼を寄せているということだろう。
というかそんなことより、まだ近い。どうして挨拶の抱擁も終えたのに、まだ触れ合える距離にいるんだ。いくら信頼している相手と言っても限度がある。
ユキが諫めようと口を開こうとしたその時、スバルの方が先に口を開いた。
「それよりアンナ。リヒトはいるか?」
諫めるようとしたユキを止めるようにスバルはアンナに尋ねる。アンナはきょとんとした顔をした後、残念そうに眉尻を下げた。
「あら、あたしに会いに来たんじゃないんだ。いいわ。こっちよ」
髪と胸を揺らしながら踵を返すアンナに、扉の前でユキと同じように二人のやり取りを呆然と見ていた男が慌てたようにアンナを止めた。
「ね、姉さん! いいんすか⁉」
「いいのいいの。昔馴染みだから」
「は、はあ……」
アンナは振り返らずに男に応え、そのまま教会の裏手へ進んでいった。スバルがそれについていくと同時にユキも歩みを進めた。
とりあえずスバルが追うから同じようにユキもついていっているが、ユキにはスバルが今から何をしようとしているのか全くわからない。
「……スバル様、あの子は」
スバルの背後から声を抑え尋ねると、スバルから少し躊躇するような気配を感じた。
「……昔の知り合いだ。会うのは八年ぶりだけどな。ここは、ユウトが元々いた場所なんだ」
「ユウトが?」
ユキは目を丸くし、改めて周りの景色を見渡した。
ここからは荒廃した街並みが見える。
崩れかけた屋根。煤のように黒ずんだ家。ところどころ草の生えた石橋。川沿いは街に比べ瑞々しい空気はあると言っても、川の周りにはごみがチラホラ見える。観光客から見えない入り組んだところにあるからこそ、無理に整備する必要がなく、放置され続けている。だからこの街は荒廃していっているのだ。
ここに来るまでに小さな子どもも見かけた。子どもにしては痩せており、子どもらしからぬ、獲物を狙う目でユキたちを見ていた。警戒が伝わり、仕掛けてはこなかったが、目を見ればここの治安の悪さは見て取れる。そんな場所にあの明るく人懐っこいユウトがいたとは、ユキには想像できなかった。
(じゃあ、スバル殿下はユウトとはここで……)
考え込んでいると子どもの楽しそうな声が聞こえてきて顔を上げた。教会の裏手に近づいてきている。子どもの興奮した声が大きくなり、ユキたちは裏手へ足を踏み入れた。
そこには広い庭があった。大きな木にかけられた簡易なブランコで遊ぶ男の子や、白いベンチで絵本を読み合っている女の子たち。そしてその周りには一人の青年がボールを投げ、数人の子どもたちとじゃれ合うように遊んでいた。
「リヒトー? お客さーん!」
「ほーい」
アンナはその青年に向かって声をかけた。青年はその呼びかけに反応し、振り向く。後ろに一つに束ねた青みがかった髪が扇子のように優雅にばらついて揺れ、新緑の木漏れ日を思わせる明るい緑色の瞳がスバルたちを捉えた。少し垂れ目で穏やかそうな風貌なのに、魅惑的に細める目が物凄い色気を放っていた。
青年は離れるのを嫌がる子どもたちを宥めて、スバルたちに近づいた。
「えーっと、どなた……」
改めてスバルたちを見た青年の視線はスバルのところで止まった。スバルも何も言わぬままじっと見返す。
「覚えてる? スイよ」
アンナは声をかけるが、二人は黙ったまま見つめる。その二人の間に流れる重苦しい空気が伝わり、ユキもアンナも少し目を見張ってスバルとリヒトを交互に見つめた。
先に口を開いたのは青年の方だった。
「……スイ」
「……久しぶりだな、リヒト」
「そうだな……。あーここじゃあれだ。こっちこい」
お互い呼び合うが、リヒトは気まずそうな笑みを浮かべ目をそらした。そのままスバルの横を通り過ぎて教会内に入る。ギィと扉を開く音と同時にスバルはフードをぐっと下げた。まるで表情を見られたくないというように下げたフードのせいで、ユキはスバルの表情を読み取ることができなかった。
教会内に入り、中央の聖堂ではなく典礼の準備をする小部屋に案内された。最後にアンナが入り扉を閉めると同時にリヒトはくるっと向けていた背を戻し、スバルと向き合った。
「んじゃ改めて……。よッ、スイ! 久しぶりだな。元気してたか?」
先ほどの気まずさから一転、リヒトは手を上げ気軽にスバルに話しかけた。スバルもそれに応えるようにふっと頬を緩めた。
「まあな。お前らは変わらないな」
「何言ってんだよ。背だってこんなに伸びたって―の! それに男前にもなった」
「そうよそうよ! どっからどう見ても立派な婦人よ!」
アンナはパタパタと音を立ててリヒトのそばにいき、腕を絡ませた。スラリと背の高いリヒトと女性らしい身体つきのアンナと並ぶとまさにお似合いの男女だ。
スバルはその二人の姿に懐かしむように目を細めた。
「確かに、あの頃はまだ可愛げがあったな」
「それはそっくりそのまま返すぜ。そっちは目つきが悪さに拍車がかかってんな。王子ってやっぱ大変なのな」
「ほんとよねー。そのせいで、スイって全然王子って感じしないわ」
「うるせぇな。目つきは生まれつきだ」
ユキは三人の様子を後ろからじっと見つめた。
仲が良い、気兼ねない会話。少しだけ、スバルとユウトとの会話の雰囲気を思い出す。ユウトと話すときのスバルも、自然な笑みを浮かべて、楽しそうに話していた。いつもユキが疎外感を感じるのは男同士だからかと思っていたが、どうやら違ったらしい。
(ユウトだけじゃない。きっとスバル殿下にとって、ここにいる人たちは、特別なんだ)
思い出す。
決して本心を明かしてくれない、スバルの口元。
苦しそうに歪める目元。弱々しい声。
拒否するように渡された冷めたドーナツ。
遠くにいる、届かないスバルの背中。
けれど、目の前にいる二人は違う。
気を許した会話。壁のない関係性。
それが、少しだけ羨ましくて、それで――……
ユキは思わずスバルの裾に手を伸ばしそうになって、やめた。
(寂しいなんて思うのは、わがままだ)
近づけない距離に、関係に、少しだけ挫けそうになる。
諦めないと、そう誓ったのに。
あまりに情けない自分に、ユキは少しだけため息をついた。
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「んで、どうしたんだ? 急に」
しばらく軽く三人で話した後、リヒトが本題を切り出した。スバルは笑みをすっと消し、真剣な表情に戻した。
「……ユウトがいなくなった。お前らのところに来てないか?」
リヒトはきょとんとした表情で首を傾げた。
「さあな。俺はユウトがあんたのところ行ったきり会ってないね。薄情な奴だぜ、全く」
スバルはリヒトの言葉に眉を顰めた。
「……あいつ、一度も来てなかったのか?」
「ああ。ちょっとは顔出せよな、あいつ」
「……そうか」
スバルは考え込むように顎に手を置いた。きっと考えてることはユキと一緒だ。
昔、ユウトがいたのなら顔を出しているかもしれない、スバルはそう考えたのだろう。けれど、ここにも来ていないとなると本当にもうユウトの手掛かりはなくなってしまった。
スバルの険しい顔つきに、心情を察したのかリヒトは安心させるように笑った。
「ま、いなくなったって言ってもユウトなら大丈夫っしょ。あいつチャラけて見えるけど、しっかりしてるしね」
「……そうだな」
リヒトの言うことはわかる。スバルも口では何度も言っているのだ。それでも拭いきれない不安があるからこそ、ここに来たのに。
ここにユウトが来ていないとなれば、せめてユウトが行きそうなところを彼らに聞いて、捜索範囲を広げて探すしかない。けれど、たった一人の補佐官の行方に、これ以上の人材を動かせるか、難しいところかもしれない。このままもし見つからなければ、と不安が広がる。
ユキもスバルと同じように顎に手を置いて考えていると、リヒトがふとユキに目を向けた。
「おっと。そっちは護衛かな? 随分弱っちそうだけど。噂の護衛騎士はつけてないの?」
やっと気づいたというような口振りと弱いという言葉にユキはむっと眉を顰めた。確かにローブを羽織っていても大柄ではないとわかってしまったのか、それでも弱そうとはなんだ。
「あ、そうだ、それそれ! スイ、あれって本当なの?」
アンナが思い出したように声を上げ、スバルに詰め寄った。スバルは訳も分からず眉を顰める。
「何の話だよ」
「ほら! スイについたっていう護衛騎士よ! 確か、珍しい白銀の髪で……」
ユキはドキリとした。街に出かけると声をかけられることはあったが、一体自分はどんな風に噂されているのかは知らないから、少しだけ興味があった。
(腕が立つ素晴らしい騎士だとか? かっこいい騎士、とかは言い過ぎか。じゃあ、スバル殿下にお似合いの騎士、だとか……)
考えただけでドキドキしてきた。国民にユキはなんと認識されているのだろう。
ユキは胸を鳴らしながら、アンナの言葉をじっと待った。
しかし――……
「超体のでっかい屈強な体で、腕と足がまるで丸太三本ぐらいの太さを持つ女のことよ! それに王国騎士団全員を剣じゃなくて素手で倒したって言う強者で、その強大な腕力で地下の牢獄をぶっ壊したって! だけどその身体には見合わない素早さを持っていて、全員をまるで馬車のようにその身体でひき殺すっていう噂の女騎士よ!」
「…………」
誰のことだ、それは。その闘牛のような騎士は。
呆気にとられたようにスバルもユキも口を開いていた。
スバルたちに気づかず、アンナは興奮したように話を続けた。
「そんな怖い護衛騎士、よくそばにおいてられるわよね! あ、だから今日は置いてきたってことかしら?」
リヒトもケラケラと面白そうに笑う。
「いやー、俺も噂で聞いたときは驚いたぜ。そんな女、世の中にいるんだなって。まあそれぐらいじゃないと、王子の護衛なんか務まらねぇよなー。惚れられないように気をつけろよー、そんな大女相手にするのなんか大変だからなー!」
リヒトはそう言って同情するようにスバルの肩を叩いた。スバルの肩が妙に小刻みに動く。リヒトに叩かれたせいではないとわかっているユキは渾身の恨みを込めてスバルを後ろから睨みつけた。
「……あー、俺の護衛騎士のことはいい。本当にユウトは来てねぇんだな?」
声をわずかに震えわせたままスバルはリヒトに問いかけた。
「ああ、会ってないね」
はっきりとした口調で言うリヒトの答えに、スバルは少しだけ顔を俯かせた。
「……そうか。悪い、邪魔したな」
少し気落ちした様子のスバルを、リヒトは慰めるように優しい眼差しをスバルに向けた。
「いいってことよ。あんたもまた顔出せよ。あんたを知ってるやつは、もう俺とアンナだけだけど」
リヒトはアンナに少し目配らせをし、アンナも応えるように愛嬌のある笑みを浮かべる。その二人の姿を見てスバルはふと辺りを見渡した。
「そういえば、シーマはどうしてるんだ? お前の弟の」
その瞬間、二人の表情が暗くなった。アンナは悲しそうに俯き、リヒトはそんなアンナの様子を見て苦笑いを浮かべながら頭を撫でた。
二人の様子をスバルとユキは少し驚き、何も発することはできなかった。
その反応で、よくないことを聞いてしまったことを察してしまったからだ。
「……死んだよ」
わずかに笑みを浮かべながらも、悲しそうに眉尻を下げるリヒトに、スバルは言葉を詰まらせた。
「……悪かった。無神経なことを聞いた」
「いや、いいさ。もう過ぎた事だ」
「次は墓参りに来る」
「……ああ。きっとあいつも喜ぶよ。あいつ、あんたに懐いてたから」
リヒトは軽快に笑いながら、スバルの肩を叩いた。重苦しい空気にならないようにと、気を使ってくれているのがわかる。その気持ちを察してか、スバルもわずかに笑みを浮かべた。
「悪かったな。急にきて。助かった」
「いいよ。いつでもこい。……あ、そういや噂で聞いたんだがな」
帰ろうと背を向けたところでリヒトに話しかけられ、スバルは足を止め、つられてユキも立ち止まった。
「ティウディナで起こってる女性連続行方不明事件、知ってるか?」
思ってもみなかった話でスバルもユキも目を開いて驚いた。
「いや。……ティウディナ、確かケネット郷が治めているところか」
ティウディナ。
王都ランタルの近隣に位置する街で、そこは主に学校や図書など多く、多分野の知識が集まることから学問街とも呼ばれている。その領地を治めているケネット伯爵についても、少し挨拶をした覚えはあるが、詳しくは知らなかった。
しかしだからと言って、連続の行方不明事件などが起こっているとなると、噂ぐらいはスバルの耳に入ってもおかしくないはずなのに。そのスバルが知らないというのはいささか違和感だ。
ユキが考え込んでいると、スバルも同じように顎に手を添え考えていた。その様子にリヒトは慌てたように手を振った。
「おっと、悪い悪い! 別にあんたの仕事増やすために言ったんじゃないんだぜ。最近噂でよく聞くから知ってるかなって思っただけさ」
「……いや、報告には上がってないな。どこで仕入れた?」
目を向けるとリヒトは得意げに微笑んだ。
「ここでの処世術は情報収集だぜ? この王都だけじゃなく、他の町での噂も俺らは敏感なのさ。ま、でも最近じゃランタン祭りで、こういう噂は王都じゃ入ってれこねぇのかもしれねぇな」
確かにランタン祭りの準備で最近は人の出入りが多い。その慌ただしさもあってか、物騒な噂は有耶無耶になっているのかもしれない。それでもやはり、ケネット伯爵から何も議題に上がらないのはやはり変だ。連続行方不明事件となると、王都からの応援を声に上げてもおかしくはないのに。
スバルもしばらく考えこんだが、ここでは結論がでないと思ったのか、フードを被って踵を返した。
「わかった。助かった、リヒト。調べておく」
「あいよ。またいつでも来いよ」
スバルが部屋から出るのに続いてユキも部屋から足を踏み出した。
扉が閉まる寸前、爽やかに笑って手を振るリヒトが、ユキの目にやけに印象的に残った。
@@@@@@@@@
「ねぇ、いいの?」
扉が閉まり、しばらくしてアンナが躊躇するように口を開いた。
「何がだ?」
リヒトはそんなアンナの様子に気づきながらも平然とした表情で聞き返した。その反応にアンナは一瞬口を噤む。
「嘘、ついてたじゃない。黙っててあげたけど」
嘘。そう、リヒトはスバルたちに嘘をついていた。
ユウトが来ていないという嘘を。
アンナもその時ユウトには会ったし、リヒトも会っていたはずだ。それなのに、なぜスバルにいないなどと嘘をついたのか、アンナにはわからなかった。
けれどこの教会で、いや、今までこの貧民街の子どもたちの世話をし、ここのリーダーのような存在であるリヒトには何か考えがあるのだろうと、スバルには悪いと思ったが、アンナはリヒトの嘘に合わせのだ。
じっと探るように見ていると、リヒトはその視線から逃れるように顔を逸らし、肩をすくませた。
「嘘はついてねぇよ。最近じゃ会ってないからな」
いつものように振舞うリヒトの真意が読み取れず、アンナはため息をついて、スバルたちが出ていった扉の方を見つめた。
「……スイ、心配してたじゃない」
アンナは先ほどのスバルの表情を思い出した。
知らない、と言った時のスバルの落胆した表情。本気でユウトを心配している様子だった。久し振りに会って嬉しかったのに、彼に嫌な思いをさせてしまった。
八年前ユウトが突然連れてきた男の子。それがスバルだった。
身分を隠していたこともあっただろうが、最初はスバルも無口で無愛想だった。いや、それは今も変わらないが、今思えばあれはどうすればいいのかわからなくて、戸惑っていただけだったのかもしれない。そんなスバルをリヒトもアンナも歓迎して、歳が近いこともあってユウトを含めてよく四人で遊んでいたりしていた。スバルもだんだんと慣れていって、最初は堅苦しい言葉遣いも、次第にリヒト達の言葉遣いの方に染まっていったのだ。
あのスバルの話し方は、唯一アンナ達との繋がりを感じられるもの。だから、久し振りに会っても変わらないスバルの言葉遣いを聞けて、アンナは嬉しかったのだ。
変わらない。スバルもユウトも。だから昔みたいに、また一緒に四人で仲良くできるんじゃないかと、アンナは期待したのだ。
けれど、リヒトはスバルに嘘をついた。
それが、どうしてだか嫌な予感をさせた。
しかしアンナの不安をよそに、リヒトは部屋にあった椅子に座り、机に置いていた一枚の紙を手に取った。
「王子ってのは、情報通の一人や二人、いるもんさ」
「どういうことよ?」
言っている意味がわからず、アンナは眉を顰める。しかしリヒトは相変わらず笑うだけだった。
「周りで動いていることに敏感ってことさ」
「……よくわからないわ。あたしに手伝えることはある?」
アンナも、リヒトに助けてもらった一人。リヒトに恩義は感じている。
けれど、それだけじゃない。
アンナは、リヒトに淡い恋心を抱いている。それは憧れに近いものだけど、確かな恋。
だからこそアンナはリヒトに付き従う。この人のためならなんだってする覚悟なのだ。
アンナの申し出にリヒトはうーんと少し考える素振りを見せた。
「じゃ、ちょっと頼んじゃおっかな」
そう言ってリヒトは持っていた紙をアンナに渡した。
しかし受け取った紙を見て、アンナは首を傾げた。
そこには、まだ幼さのある大人しそうな顔をした少女が描かれていた。どうやらこの少女の行方の情報を求める紙らしい。
「この子、捜してよ」
頬杖をつき緑色の瞳を細めて、魅惑的に微笑むリヒトに、綺麗だと心臓が跳ねると同時にぞっと背筋が凍った。
四人の関係性が崩れそうな、そんな予感がした。




