13.想いはすべて優しさに変わる
スバルは、アティシアがいた孤児院から馬車に乗って王城に帰った。あとからアティシアが連行されるだろう。そしてスバルは速足でユキがいる宮殿に向かう。
早くユキの顔が見たい。昨夜のような傷ついて泣いた顔じゃなくて、笑った顔が。
見合いの日、見せてくれた花が綻んだような、可憐な笑顔を。
宮殿を歩いていると、ユウトがなぜか忍び足で同じように廊下を歩き、こちらに向かって歩いてきた。
「わッ! あ、その……おかえりなさい。スバル殿下」
スバルを見るとなぜかユウトは焦ったように、たじたじに挨拶をした。スバルは、その様子に疑問に思ったものの、無視して口を開いた。
「……あいつは?」
ユウトに問いかけると、ユウトはちらりと横目で後ろを見た。その先には、ユキの部屋がある。
「あんたの言う通り、休ませてるっすよ」
スバルは、「そうか」とだけ答えてユキの部屋に向かうため、ユウトの隣を横切った。
「ユキさんのところっすか?」
ユウトの問いかけにスバルはぴたりと足を止める。その顔には影が落ちていた。
「ああ。……けど今回の事件の真相を言う気はない。あいつは知らなくていい」
「……」
何も言わず押し黙っているユウトを、不審に感じてスバルはユウトに振り向いた。
「なんだよ?」
眉を潜めてユウトを見ると、ユウトも不満そうに眉を寄せていた。なぜそんな不満そうにしているのかスバルには分らなかった。ユウトは少し逡巡するように目を逸らしたあと、じっとスバルを見た。
「……あんたのそういうところ、ダメなところだと思うっすよ」
「は?」
突然のユウトの言葉にスバルは眉をさらにひそめた。するとユウトは目を細めてスバルを見た。いつもふざけたような態度ではなく、冷たい目でスバルを見ていた。
「俺、言っちゃいましたよ。アティシアが黒幕だって」
「な……ッ!」
スバルは驚愕して声をあげた。スバルはそんなことユウトに命じていない。つまりユウトの独断だ。伝えるつもりなどなかったのに。ユキの傷ついて泣いている姿を容易に想像でき、スバルは怒りに震えた。
「なんでそんな勝手なことした⁉ あいつが傷つくってわかってただろ……ッ⁉」
スバルは怒りのまま声をあげた。しかしユウトは気にする素振りもなく、むしろあっけからんとした態度をスバルに向けた。
「わかってましたよ。けどあの人には知る権利、あるでしょ?」
「……だが、あいつが傷つく必要もない。これ以上、あいつを泣かせたくない」
スバルは目を逸らして呻くように声をあげる。
いつも微笑んでいた。婚約者だった頃、スバルの前でいつも微笑んでいたが、父親から暴力を日常的に受けていたのをスバルは知っていた。痛みに時々顔を歪ませていたのも見た。けれどユキは、スバルに何も言わずに微笑んでいた。もどかしさに、何もできない自分に無力さを感じた。
言ってくれれば、頼ってくれれば、すぐにでも助けるのに。これに限ってはユキの証言がないと成立しない。使用人からも何度も目撃はされているはずだが、金を渡すなり口留めはどうとでもできる。父親のツクヨ男爵も否定するだろう。そうなれば咎めもできない。スバルには何もできない。それでもユキは言わなかった。
自分が虐待されていることを知られたくなかったのか。それともあんな父親でも、庇おうとしていたのか。どちらにせよ、ユキが傷ついたことには変わりはない。
そして、婚約破棄したスバルも、ユキを傷つけた。
だからもう、本当にこれ以上傷ついてほしくないのだ。
ユウトは、そんなスバルの気持ちを察してか悲しそうに目を伏せた。
「……確かにあの人は優しすぎる。あんなことされても、アティシアを庇おうとしてたっすからね」
「……あの馬鹿女」
スバルは舌打ちしながら部屋で寝ているユキに悪態をついた。
やっぱりユキは、愚かだ。
どんなにひどいことをされたとしても、誰かを憎むことを知らないのだ。
いや、知らないのではない。
憎みたくなかったから、憎まないのだ。
愚かで優しすぎるユキ。
だからこの真実は、ユキには苦しすぎる。
スバルがユキを想っている中、ユウトは冷たい目をスバルに向けた。
「けど、俺はユキさん自身がちゃんと知って受け止めて、傷つくべきだと思った」
「……‼」
ユウトの言葉にスバルは目を開いて驚いた。しかしユウトは気に留める素振りもなく話し続ける。
「あんたのやり方は正直気に入らない。そんなんユキさんの為にならないっすよ」
「……ッてめぇ」
ユウトの思いのよらない言葉に、スバルは一気に頭に血が上った。まるでユキが傷ついても構わないと言われているようで、スバルは目の前のユウトを睨みつける。しかしいつもそれでビクついているユウトだが、今は全くそんな素振りはない。
「傷つくからってなんでも隠して守っても、ユキさんはずっと変わらないってことっすよ」
「……変わらなくていいだろ。あいつはあのままでいい」
そう言ってスバルはユウトから視線を逸らした。
なぜ目を逸らしたのか。
スバルは間違ったことを言っていないはずなのに。
すると、そんなスバルの反応にユウトは目を細めた。
「変わらないことを望むのは残酷っすよ」
「それでも俺は……」
残酷でも、それでも、ユキが傷ついてしまう真実をスバルはどうしても伝える気にはならなかった。
これ以上ユキが傷つく必要なんてない。
今まで散々我慢して、傷ついて、泣いてきたのだ。だったらまた傷ついてしまうような事実を突きつけて泣かせる必要などない。強気な態度を見せているが、ユキは本当は弱くて、臆病で、お人好しで、優しすぎるのだ。
だから何も知らず、変わらないまま、そのままのユキでいてほしかった。
するとユウトは少し苛立ったように眉を潜めた。
「変わらないでいいっていうのはさ、ユキさんがあんたを好きだって気持ちも?」
「……ッ!」
ユウトのそう聞かれて、スバルは目を開いた。
変わらないことを望まれる。
それはユキにとってスバルへの想いも変わらないで居続けろということだ。
違う、そうじゃない。
そう否定しようと口を開こうとするが、声が出ず、ぐっとスバルは飲み込んだ。
違っていたはずだ。
これから彼女に降りかかるであろう不幸が彼女を傷つけないようにと、ユキの幸せのために彼女を傷つけてまで手放した。
自分とは別の誰かのそばで幸せになってほしいと、そう望んで。
けれど、それでもユキがスバルのそばにいようとしてくれたから。
もう少し、もう少しだけだと。
引き延ばしにして、そばにいることを許容していった。
本当はそんなこと、許されるはずがないのに。
スバルを想っていたままでは彼女は一生幸せになれないとわかっていながらも、スバルは未だにユキを突き放せずにいる。
もし彼女の幸せを本当に望むのなら、彼女の心が変わってしまうことを望むはずなのに。
いつの間にか、彼女が変わることを、変わるかもしれないあらゆる要因を排除しようとしていた。
いつの間にか、すり替えられたように変わってしまっている自分が信じられなかった。
彼女の幸せを想っていたはずなのに。
顔が青ざめているスバルを見て、ユウトは苦笑いを浮かべた。
「そんな顔しないでくださいよ。ちょっと意地悪がすぎたっすね。俺はあんたの隠して守るやり方は好きじゃないし、変わることはユキさんの為にもいいと思う。けど、好きって気持ちが変わって欲しくないって思うのは至極当然のことなんすよ、あんたの気持ちを考えればね」
「……それでも俺は、俺だけは、それを望まなくちゃならなかったんだよ。傷つけておいて、突き放しておいて、気持ちだけは変わるな、なんてそんな自分勝手なこと、思っちゃいけねぇんだ」
そう言ってスバルは目を伏せた。
ユキが護衛騎士になった時、確かにスバルはユキを否定した。
けれど、それが自分のそばにいるための行動だったと知った時、スバルは優越感を覚えた。それと同時に安心したのだ。
暗殺者に命を狙われた時、疑いをかけたツクヨ男爵を庇おうとしたユキの優しさに、スバルは安心した。
ユキが男に襲われた時、部屋で小さく泣いていた弱いユキに、スバルは安心した。
変わらない。彼女は変わらない。
スバルのそばを離れた三年でも、彼女は変わらなかった。スバルを好きでいてくれた、スバルが好きな優しいユキのままだった。
だから、少しだけ欲が出た。
このまま、このままいけば、ユキはスバルのそばから離れることはないと。
ああ、本当に嫌になる。
こんな自分が、あの優しいユキを縛っていいはずがないのに。
自分から突き放しといて、そばにいて、好きで居続けることを望むだなんて。
なんて残酷な人間なのだろう。
こんな自分に吐き気がする。
するとユウトは、スバルの表情に困ったように微笑んだ。
「あんたはいろいろ、難しく考えすぎっすよ。好きなんだから、そばにいてほしいとか好きでいてほしいとか思うのは当たり前っすよ。だからユキさんもきっとここまで来たんだから」
「……うるせぇ」
まるで説教されているようで、スバルは覇気のない悪態をついた。それユウトは少し声を出して笑う。
「ま、今回に関しては俺謝らないっすよ! ユキさんに話したこと、俺は間違ったことしたって思ってないし。これがユキさんにとっていい方向になるって信じてあげましょうよ」
「……ユキは、泣いてたんじゃねぇのか」
「泣いてましたよ。それに自分を責めてた。それでも何も知らないよりかは、色々考えてこれから選択できると思うから」
「……」
そう優しい気に微笑むユウトに、スバルは眩しそうに目を細めた。
ああ、だからユウトとユキは会わせたくなかったのだ。
ユウトはこういう奴だから。
本当に相手のことを考えれる、優しい奴だから。
ユキがユウトに惹かれるんじゃないかと危ぶんだのだ。
だから、ユウトとユキを会わせないようにしていたのだ。
汚い自分の考えにスバルは自嘲気味に笑った。
「あ、スバル殿下!」
突然呼ばれて声の方向に振り向くと、そこには見張りの衛兵がいた。少し息が上がっているところを見ると、必死に探していたのだのだろう。無理もない、先ほどまで外出していたからスバルが見つかるわけもない。すると衛兵はスバルとユウトのただならぬ雰囲気に一瞬たじろいだものの、すぐに背筋を伸ばして敬礼をした。
「どうした」
「陛下がお呼びです」
「は? あの人が?」
スバルは、驚愕した。いつもは公の場でしか会わないこの国の王、つまりスバルの父親はあまり息子である王子に関わってこないし、口も出してこない。ある程度領地の管轄を任せてあとは放任している。任された領地の報告などはあげているが、正式な面会は久しぶりだ。
ユウトも眉を潜ませた。
「……珍しいっすね。いつも無関心なのに」
「今回の暗殺のことだとは思うが。……わかった。すぐ行く」
スバルが返事をすると、衛兵は小走りで去っていった。
謁見の間に向かうべく、宮殿を出るため出口に足を向ける。
「あ、あと言い忘れてた」
「ああ?」
付き添いにユウトも後ろからついてきたときに、ユウトは思い出したように声をあげた。スバルは先ほどの話から気まずさが少し残っているが、立ち止まってユウトを見た。
すると、ユウトは見たこともない優しい笑みを浮かべていた。
「あんたは優しいよ。俺がそれを保証するっす」
思ってもみない言葉に、スバルは驚いて目を開いた。しかしすぐに眉を潜めて不機嫌な表情に変わった。
「なんだよ急に……」
そういうとユウトは、なぜか少し誇らしそうに胸を張った。
「なんだか自分のこと卑下にしてるように思ってさ。あんたは元々優しい奴だ。意外に世話焼きで、本気で困ってたら手を差し伸べるっしょ? 俺の時みたいに」
「……たまたま気分だっただけだ」
一瞬目を開いて、表情を無理やりいつもの不機嫌顔に戻した。
ユウトに初めて会った日のことを思い出して、目を逸らす。
ユウトは、スバルが十のとき。まだユキに出会う前に下町の貧民街で出会った。
時々、息抜きに王城を抜け出して、街を見たりしていたスバルは下町の貧民街にまで足を伸ばしていた。そこでユウトと出会った。ユウトは貧民街で集まってできた子どもばかりの団地で暮らしており、たまたま会ったスバルを迷子か何かと勘違いして世話をしてきた。スバルもなかなか身分をいいだせず、結局三日ぐらいは貧民街にいることとなったのだ。ちなみにこの口の悪さはその貧民街での暮らしが影響だった。そこでちょっとした事件があって、そのときスバルが手を貸したのだ。
そんなつれないスバルに、肩をすくめた。
「気分であんたは動くやつじゃないっすよ。それとあんたは自己評価が低すぎるっす。だから、自分をそんな責めなくていいっすよ。アティシアの話を聞かせて傷つけたくないって思ったのも、泣かせたくないって思ったのも、全部、ユキさんが好きだからで、優しいからなんすよ。……あんたが苦しんで、自分の気持ちを抑えて、ユキさんを手放したこと、俺は知ってるよ」
「……」
ユウトは、眩しそうなものを見るかのように目を細めて、優しく微笑んでスバルを見る。
「俺は、極悪非道な奴のそばにいるほど心広くはないっすよ。……ユキさんだって、そんなあんただから好きになったんでしょ?」
優しいのは、どちらなのか。
スバルは自嘲気味に笑った。
こんなスバルを知ってもまだ優しいと言えるのか。ユキを想っていると言えるのか。
馬鹿だ。
なんでこんな人間を優しいだなんていえるのか。
なんで、ユキもユウトもそばにいようとなんて思うのか。
スバルはユウトを見ていられず目を逸らした。
そのころユウトは、急に恥ずかしくなったのか頬をかいて同じように目を逸らしていた。
「まあ、俺に対する暴言とか休みをくれないところとかは別っすけどね。……褒めたんで休みくれてもいいんすよ」
「……言ってろ」
そう言ってスバルは、歩き始めた。後ろから慌ててユウトがついてくる気配を感じる。それにスバルはふっと笑みを漏らした。
今思えばユウトとは不思議な縁だった。王子であるスバルが貧民街にいたユウトとは絶対に出会うはずがなかったのに、今ユウトはスバルの隣にいる。ついユウトにはきついあたりをしているが、それでもそばにいてくれている。
そして、ユキも。最初はテキトーにとった見合い書類から始まった見合いが、まさかここまで深入りするとは思わなかったし、こんなにもユキに溺れてしまうとは思わなかった。
そしてスバルはユキを捨てた。しかしあんなに無慈悲に捨てたはずなのに、ユキはスバルのそばにいるために、騎士にまでなって戻ってきた。
思いもよらないことが起こるものだ。
けど、悪くない。こんな予想外のことが起こるのも。
スバルはバレないように笑った。それはとても優して、美しくて。
スバルのそばにいたいと願ってくれた二人に、心の内で感謝を述べた。
――絶対本人たちには言わないが。
ユキの気持ちが変わってしまう事を、スバルは恐れている




