12.匂いを運んで
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苦しそうに顔を歪めて涙を流すユキに、ユウトはじっと静かに見つめた。
「……いつわかったんすか? アティシアが黒幕だって」
ユウトの問いにユキは顔を俯かせた。その拍子に彼女の涙が落ちて布団を濡らす。
「……昨夜、あの男に襲われた時、かすかに、アティシア様が毎日使っているローズの、香水の香りがしたんだ……」
「……」
あの時、昨夜あの男に覆いかぶされた時、一瞬だけ嗅ぎなれた香水の匂いがした。その匂いは、ヴァンモス家にいたときに家の中で常に香っていた匂い。アティシアが育てた薔薇を自ら香水に調合したオリジナルだ。一緒に暮らしていたユキが気づかないはずがない。
あの男に頼んだのがスバルを暗殺しようとした犯人と同一だとすれば、アティシアは――……
ユキは、ぎゅっと布団を強く握った。
「もしかして、とは思ったんだ。けど、気のせいだって。そんなはずないって思って……ッ」
そう言いながらもユキの涙は止まらずぽたぽたと零れ落ちる。
しかしユキの話にユウトは眉を潜めた。
「……香りが移るぐらいってことは、もしかして……」
「やめてッ!」
まさかと思い思わずこぼしたユウトの言葉に、遮るようにユキは大きく叫んだ。ユウトはユキの叫びに口を噤んだ。
香りが相手に移る理由は、その匂いがする部屋に長くいたか、もしくはその相手と長く密着状態にいたか。もしくはその両方だ。それが男女であったのなら、容易に想像はつく。
おそらくアティシアは、あの青年と関係を持ったのだ。
青年を利用し、ユキを襲わせるために。
泣いているユキを見て、ユウトは苛立たし気に顔を歪めた。
「……なんで庇おうとしたんすか? あんたをこんな目に合わせたやつっすよ。……庇う理由、ないでしょう」
「……」
止まらないユキの涙に、思わず手を伸ばしそうになってやめた。
すると、俯いたユキの表情からかすかに笑ったような気配を感じた。ユウトはその様子を訝し気に見つめる。
「アティシア様は、本当にお優しい方なんだ」
「……はあ?」
ユキの思ってもいない言葉にユウトは思わず、眉を潜めて声をあげた。ここまでされてまだ庇おうとするユキが信じられなかったからだ。
ユキはそんなユウトの態度に、苦笑いをした。しかし顔は俯かせたままだ。ユキはゆっくりと胸に手をあてる。その目には懐かしさがにじませていた。
「私が初めてヴァンモス家に来た時、優しくしてくれたのはアティシア様なんだ」
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キリエルに弟子入りを認めてもらってすぐの頃。
ユキは雨でぬれた身体を温めるために浴場へと案内された。キリエルの妻であるアティシアもなぜかついてきて、脱衣所でユキのドレスを脱ぐ手伝いをするといってきた。しかし嫌がるユキの身体を見られ、ユキはその場でうずくまり、身体を震わせた。
無数の青紫のアザがある、その身体を。
綺麗なアティシアに、どう思われるのか怖かった。女性とは思えない汚いアザだらけの身体なんて、きっともう誰も受け入れてはくれない。アティシアに比べると、なんてひどい身体なんだ。
震えてうずくまっているユキに、アティシアは目線を合わせるようにゆっくりと屈みこんだ。
「大丈夫よ」
「え……?」
顔をあげると、優しく、柔らかく微笑んでいるアティシアの顔が目に入った。アティシアは微笑みながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「そんなに恥ずかしがることじゃないわ」
「け、けど……」
柔らかい、優しい微笑みを浮かべるアティシアを見ていられなくて、ユキは目を逸らす。しかしアティシアは気にせず、そっとユキの身体に触れた。アザのあるその場所を。
ユキはびくっと肩を揺らした。それがあまりに優しくて、冷たい身体に暖かさが伝わってくる。
何を言われるのだろうか。怖く怖くて仕方がない。
そのユキの恐怖とは裏腹に、アティシアは微笑んだまま口を開いた。
「これはね、あなたが頑張った証よ」
「え……?」
思ってもいない言葉に、ユキは目を開いた。
目が合うとアティシアは、眉尻を下げて困ったように微笑んだ。
「その、なにがあったのかは詳しく聞かないでおくけれど、あなたがこんなにも傷だらけになって、それでも耐えていたのでしょう?」
「……ッ」
ひゅっと息が止まる。
父親に殴られてきた記憶が頭の中で走馬燈のように流れ、その痛みを思い出す。
痛みをこらえるように顔を歪ませながら、アザの方に手を伸ばすとアティシアが優しくその手を握ってくれた。
「なら、これはあなたの強さの証よ。……よく頑張ったわね」
「……ッ!」
身体が動かない。
言われたこともない言葉。言われたくなかった言葉。
別によかったのだ。父には嫌われているけれど、殴られ続けたけれど、使用人たちはユキに関わってこようとしないけれど、メイドのサヤは優しくしてくれていたし、ユキには大好きなスバルがいたから。
けれど、もういない。サヤ以外もう誰も。
父や使用人を置いて、大好きなスバルには捨てられてしまった。
けど、まだやれる。この先に待っている明るい未来があるから。
あの人を守って、あの人のそばにいて、あの人の幸せを近くで願える、そんな輝かしい未来が待っているから。
まだ、いや、これから頑張っていかなければならない。まだ、まだユキは頑張れるのだ。頑張らなければならないのだ。
けれど、だけど――……
「つらかったでしょう。痛かったでしょう。なのに、こんなになるまで頑張ったのね。……あなたはとても強い子よ。強くて、頑張り屋さんなのね」
まるで割れ物に触れるかのように優しく頭を撫でられる。
その手を振り払わなければならないのに。否定しなければならないのに。身体は思った通りに動いてくれない。
頭なんか、誰にも撫でられたことなんてない。
だって、頭を撫でて褒めてもらうようなことなんて、ユキは一度もしたことがないのだ。
思考が止まっても、アティシアの言葉がゆっくりと身体の中に溶け込んでいく。
「だから、胸を張って? この傷は恥ずかしがるものじゃないわ」
「……ッ、アティシア様……ッ」
強張った心が、強がっていた姿勢が、アティシアの言葉で溶けていく。
泣きたくないのに、涙が勝手に溢れ出てくる。
本当は、誰かに認めてほしかった。褒めてほしかった。
父の役に立ちたかった。こんな風に頭を撫でてもらいたかった。
殴られても、蹴られても、その痛みに耐えて褒められたのなら、ユキはそれでよかったのだ。
それで、もし父が笑ってユキを認めてくれたのなら、きっとユキは幸せであれたのだ。
あの人に、スバルに認めてほしかった。
婚約者として頑張ったユキを、認めてほしかった。
例え間違えても、今までのユキの頑張りで、笑って受け止めてほしかった。
大丈夫だって、ここまで頑張ってきたんだから、心配いらないって、そう言って欲しかった。
けれどスバルは、ユキの間違いを否定した。決して認めてはくれなかった。
ユキがどれだけ努力をしても、本当に認めてほしかった人には、認めてもらえない。
それが、どれほど絶望で、残酷で、悲しいことか。
けれど今、初めて認めてもらえた。
今までの自分が報われたことに、心が歓喜する。
そして同時に、今まで自分がされた数々の痛みが、悲しみになって胸を襲った。
顔を歪ませて泣いているユキに、アティシアは戸惑ったような顔をした。
「あ、あら? どこかで会ったことあったかしら?」
スバルの婚約者として一度会ったことがあるが、今のユキの姿で気づいていないのだろう。名前を呼ばれて戸惑っている様子だった。
けれど、そんなことはどうでもいい。
ユキは、身体中に走る様々な感情を抑えられず顔をくしゃくしゃにして大きな声で泣いた。
「ふぇ……ッ、あぁ……ッわあああああああああん……ッ‼」
脱衣所に、家中に、ユキの泣き声が響き渡った。
初めて大声で泣いた気がする。
今まで泣きそうなことはあっても、誰にも気づかれぬように声を抑えて泣いていたから。
ユキは初めてのことに、戸惑いながらも一度大きな声で泣いてしまえば、止まらなかった。
そんなユキにアティシアは、一度は驚いて目を開いたものの、すぐに優しく微笑んでユキを抱きしめた。
「よしよし。よく頑張ったわね。つらかったね。痛かったね」
優しい言葉は毒だ。
認められなくてもそれでもいいと思っていた意固地な心を、簡単に溶いてしまう。
だから、もう、涙の止め方を忘れてしまったではないか。
抱きしめられながら、頭を撫でられる。
「もう、大丈夫よ」
サヤが走ってきたのが、横目でかすかに見えた。ユキの泣き声に心配してきてくれたのだろう。
泣いている姿など恥ずかしい。なんてはしたなく泣いているのか。
わずかに残った理性がそう訴えている。
けれど、今だけは――……
ユキは、細いアティシアの背中にゆっくりと手をまわして泣き続けた。
この人のことは、絶対に守ろう。
誰にも傷つけさせはしない。
優しいこの人を、ユキを認めてくれたアティシアを傷つけるものは、絶対に許せない。
それがどんな相手でも、ユキはきっと容赦しないだろう。
ユキはそう固く誓ったのだ。
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「あの時、アティシア様に救われたんだ。ああ、これまでのことは無駄じゃなかったって。そう思えた」
「……」
ユキの話にユウトは静かに聞いていた。
けれどその顔が晴れることなく、ユキを見つめる。
ユキは俯いて止まらない涙を流しながら、布団を指でいじった。
「母がいたらこんな感じだろうかって思った……。本当の母であればいいのにって何度思ったか……」
ユキは少し恥ずかしそうに微笑んだ。そしてユウトは思い出すように顎に手をあてた。
「……確かユキさんのお母様は、ユキさんが小さいころに亡くなったんですよね」
ユウトの言葉に、布団をいじっていたユキの手がぴたりと止まる。
「……知らないんだ」
「え?」
ユウトは聞き返すように顔を向けた。しかしユキはうつむいたまま、けれどその顔は確実に影を落としていた。悲しそうに目を伏せるユキの姿が目に入る。
「私は、父の……ツクヨ男爵の子でもなければ、ツクヨ男爵の奥様の娘でもないんだ」
「は……」
ユキの衝撃の言葉にユウトは固まる。
どういうことだ。
ユウトの調べだと、ユキは五歳ぐらいの小さいときに母が亡くなり父親が育てていたはずだ。まあ、あれが育てたと言っていいものかはわからないが。しかし、茶色の髪であるユキの父親に似ていない白銀の髪は、きっと母親の、もしくは父親の不倫関係からできたものだろうと思っていたのだ。スバルの婚約者の時は、虐待があったかの調査でそこまでの調査はしていなかった。今の白銀の髪を見ても、調べる必要性がないからユウトは放っておいたのだ。
しかしまさか、血すら繋がっていないなんて。
ユウトが衝撃で固まっているのを知ってか知らずか、ユキは話し続ける。
「……私は、物心ついたころには貧民街に捨てられてたんだ。本当の両親は覚えていない。それをツクヨ男爵に拾われて娘として育てられただけ。私が拾われたのは、奥様がお亡くなりになられたころだから、その人の顔さえ知らないんだ。……おおよそ、子どもができる前に亡くなられたから、政治的駒がいなくて困っていたのだろう。それに抜擢されたのが、私だ」
「……そんな……」
衝撃で自然とこぼれた言葉。それ以上ユウトは何も言えなかった。
貧民街では、スバルを襲った暗殺者同様に治安が悪い場所だ。そこに子どもを育てきれずに捨てる親も多い。きっとその一人がユキだったのだ。
おそらく、ツクヨ男爵は子どもができる前に先立たれた妻に焦ったのだろう。すぐに別の女性を娶っていてもよかったのだろうが、手っ取り早さを考えたのだろう。あの野望に燃えた男のことだ。血筋などはどうでもよく顔がいい子どもを攫ってくるように誰かに命じたに違いない。どういう経緯かは知らないが、それにユキが選ばれたのだ。
なるほど、これで納得がいった。どうしてユキがツクヨ男爵の言う事を長年聞いていたのか。
拾ってもらった恩があったからだ。
例え禄でもない、さらに他人である男と暮らすことになったとしても、貧民街で明日のご飯もままならない生活よりかは、多少令嬢の生活ができるツクヨ男爵のもとの方が生きていくのによかったのだ。そしてツクヨ男爵はその恩をずっと目の前でぶら下げながら、ユキを言う通りにさせていたのだ。
なんて男だ。
ユウトは内心吐き捨てる。今すぐ大きな罪をでっちあげて処刑された方が世の中の為とさえ思う。
そんな気分の悪い思いでいるユウトに、ユキは一度顔をあげて困ったように微笑んだ。
まるで、気にするなとでも言っているようだ。
そんなユキにも、ユウトは苛ついた。
そしてユキは、突然ユウトに頭を下げた。
「だから、私に、母はいなくて。だから、アティシア様は母のような人で……。お願い。アティシア様は、本当にお優しい方なんだ……。だから、どうか……ッ」
その続きの言葉がわかり、ユウトは拳を握る。
信じられない。今でも、なぜそんな言葉が言えるのか。
母親は、娘にこんなことはしない。娘を傷つけたり、襲わせたりしない。
優しい人は、こんなことをしない。相手を傷つけ、襲わせたりはしない。
裏切られて、裏切られて、さんざん傷ついただろう。
なのに、なぜ庇う。庇える。
徐々にユキの言葉に涙が混ざり、身体が震えている。
「どうか、お慈悲を……ッ」
「やめろよ」
「……ッ!」
その言葉を聞いたとき、ユウトは自然にユキに手を伸ばしていた。
ユウトは、ユキを抱きしめた。
手を頭に回して逃がさないように自分の腕に閉じ込める。ユキは驚いたままユウトの腕の中にいた。されるがままのユキに、ユウトはぎゅっと力をこめる。
「やめろよ。あんたが泣いてると、許したくなる……」
「ユウト……?」
どうして、そんなに人に無条件に優しくあれるのか。
こんなに泣いて、こんなに傷ついて、裏切られて、それでもなぜ許そうと思えるのか。
だから、ユウトはユキを許そうと思ってしまう。目の前でこんなに泣いている人を、何か一つでも許して、笑って欲しいと望まずにはいられない。
見ていられない。見ていられないから、見ないように、ユキを抱きしめたのだ。
ユウトはユキをゆっくり放した。ユキは茫然とユウトを見上げる。そんなユキをユウトは顔を歪ませてユキを見ながら、抱きしめられた衝撃で止まったユキの涙を優しくぬぐった。
「……残念っすけど、あんたの要望は受け入れられません」
「……!」
ユウトの否定の言葉に、ユキは絶望したように目を開いた。
その姿に一瞬痛んだ胸をユウトは無視した。
「理由はなんにせよ、王子を殺そうとしたんです。見過ごすわけにはいきません」
「そんな……ッ!」
ユキは、思わずといったように声をあげる。
しかし、ユウトは遮る。
「あんただってそうだろ? なんのために騎士になったんすか? 情で動くくらいなら、護衛騎士なんてやめちまえ」
ユウトは腰かけていたベッドから立ち上がって、ユキを睨むように見下ろす。
ユキは、満月のような黄金の瞳を開いたままユウトを見上げていた。
「どんな相手でも、どんな事情があっても、スバル殿下が一番で唯一だ。俺たちはそれを徹底しなくちゃならない。あんたの中でその優先順位が変わってしまうぐらいの気持ちなら、やめてもらった方がスバル殿下のためっす」
「……ッ」
ユウトの容赦ない言葉にユキは顔を歪ませて、また涙を流して俯いた。ユウトはその姿を見ないように静かに目を伏せる。
今、この人を傷つけているのは自分だ。それは一番ユウトがよくわかっている。
けれど、これだけはユウトも譲れない。
スバルは、口も悪いし、態度も悪いし、目つきも悪いし、ユウトに対する扱いも雑だが。ユウトはスバルのために行動すると心に決めているのだ。
遠い昔、誓った言葉を違えないように。
ユウトは決心したように目を開き、ユキを見据える。もうそこに迷いはない。
「そばにきたくてきたんでしょ。だったら他の情は捨てろ」
ユウトのその言葉に、ユキはかすかに驚いて首を振る。
「そばに、だなんて……」
「……」
じっと見つめるユウトに耐え切れず、ユキは目を逸らした。
一度唇を噛んで、呻くように声を出した。
「あの人には言わないで……」
「知ったら喜びますよ」
「喜ぶものか。あの人には嫌われてるんだ。婚約破棄だってされたし、今は無礼な態度もとっているし、嫌われているに違いないさ。それに私は、嫌いだとこの前言ってしまったし」
「……なんでそうなるんすか」
ユウトは呆れた。
本当にこの人は相手の好意に鈍感だ。以前試合をしたときのあの観察力はどこいった。もしや戦闘スイッチが入らないと発揮しないとかじゃないだろうな。
ユウトは自分の主の不憫さに、はあっとため息をついた。
ある意味、あれだけ歪んだ独占力を持っている人をユウトは知らない。
傍から見れば好意を持っていることは、あからさまにわかるのに。
本人は、悪態をつくことで隠しているから、それをそのままに受け取ってしまっているのだろう。
そんなユウトの心情を知らず、ユキは俯いたままスバルを想ってなのか優しく微笑んだ。
「結ばれなくても、いいんだ。ただ、そばにいれればそれで私は良いんだ」
その言葉にユウトは押し黙る。
痛々しいほどの一途な健気さに、自分の幸せを捨てるその行為に、思わず顔が歪む。
そのころユキは、ぎゅっと両手を握って額に当てた。
「……うん。そうだな。スバル殿下が私には一番だ」
そうぽつりと呟くとユキはゆっくりと顔をあげた。
その瞳に、もう迷いはなかった。けれど、かすかに悲しさを含ませていた。
「すまない、ユウト。私が間違ってた。……アティシア様を、捕まえてくれ」
「……こっちはそのつもりっすよ。逮捕状も出てる。今頃、連行されてるところじゃないっすかね?」
「……そうか」
ユキはユウトの言葉を聞いてふっと笑って、また俯いた。
今日は俯いてばかりだ。いつもとは想像できないしおらしい姿だ。
昨日の今日で仕方ないのか、とユウトはユキの気持ちを想像し、苦しくなって顔を歪める。
するとユキは突然顔をあげて、ぼうっとしたように遠くを見つめた。
「ねえ、ユウト」
「はい?」
ぼうっとしながらユキは口を開く。感情のない瞳に少しぞっとした。それに少し違和感を覚えながらユウトは応える。
「私の、何がいけなかったんだろう」
「……」
ユウトは固まる。
それは、ユキを殴り続けたツクヨ男爵に対してか。
「私、何かしてしまったのだろうか」
それとも、無慈悲に婚約破棄したスバルに対してなのか。
「……きっと、私が何かしてしまったんだ。優しいあの人が、こんなことするはずがないのに……」
それとも、ユキを襲わせたアティシアに対してなのか。
「……今日は安静にしているように、スバル殿下の命令っす。そのままゆっくりしていてください」
ユウトはユキの問いに応えずにユキの身体を押して布団に戻した。
すると、ユキが不満げにユウトを見た。
「……なんともないのに」
「顔、殴られたんでしょ。いいから」
そういうとユキはしぶしぶと言った感じで、布団を被った。
ユキのその様子に、ユウトはほっと息をはく。先ほどの感情のない瞳は、まるでユキではないみたいで、どこか遠くに行ってしまったみたいで、怖かった。
「じゃあお大事に。ユキさん」
「ああ。すまないな」
ユウトはユキに背を向けて扉に向かい、部屋から出た。
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ユウトは扉を閉めてしばらくすると、扉の奥ですすり泣く声が聞こえてきた。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……ッ。アティシア様、ごめんさい……ッ!』
すすり泣く声とともに聞こえてきたのは、ユキの懺悔の言葉。それを扉の向こうから聞いているユウトは顔を歪めた。
「……馬鹿じゃないっすか」
何もかも自分の身に降りかかることが自分のせいだなんて大間違いだ。
そうじゃないと否定してやりたいが、ユキ自身納得しないだろう。
ユウトは、ユキの声を振り払うように扉から離れて廊下を歩く。
みんな馬鹿だ。スバルもユキも。
どうして自分のためにもっと貪欲になれないのか。
もっと欲しがれば、きっと幸せになれるのに。
みんな相手のことばかりだ。自分を決して見返らない。
どうして幸せになることを、そう簡単に諦められるのか。
自分の願いとは裏腹にユキと婚約破棄をしたスバル。
自分の幸せさえも捨てて、ただ好きな人のそばにいたいと願ったユキ。
見ていて腹が立つ。
あんなに泣いて苦しんで、その先に何があるっていうんだ。
腹が立ちながら速足で歩いていると、ふとユキを思わず抱きしめてしまったことを思い出し足を止める。ユウトは自分の手を見て、ユキを抱きしめた感触を思い出していた。
「……」
やっぱり細い身体だった。抱きしめたらすっぽりユウトの腕に入って、少し力を入れれば折れてしまいそうだ。あんな細い肩に、背負っているものが重すぎる。
あの時、考える前に身体が動いていた。
俯きながら身体を震わせて泣いているユキに、ユウトは言葉にできない衝動に襲われた。
あまりにいじらしくて、か弱くて、小さくて、健気だったから。
あの人に触れていいのは、ただ一人だけだったのに。
「抱きしめたって知ったら、スバル殿下に怒られるだろうなぁ……」
いや、殺されるかもしれない。
あの独占欲の強いスバルのことだ。これを言えば確実にユウトの首は天高く飛んでいることだろう。それを一瞬想像し身体が震えた。
「……黙っとこう」
そう呟いて、ユウトは意味もなく忍び足で廊下を歩いたのだった。
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さんざん泣いた後、ユキはベッドで横になってぼうっと天井を見つめていた。
何がいけなかったのか。何が必要だったのか。
そればかりが頭をぐるぐるする。それ以外一切考えられない。
アティシアはスバルの命を狙い、ユキを男に襲わせた。きっと知らない間にアティシアに何かしてしまったのだ。そうでないと、あの優しいアティシアがこんなことするはずないのだ。
きっとユキのせいで、アティシアは咎人となってしまった。王子であるスバルの命を狙ったとなれば、一生牢屋からでることはないだろう。
キリエルは悲しんでいないだろうか。あんなにアティシアを愛していたから、知ったらきっと悲しんでしまう。
こんな自分が、スバルの護衛騎士なんていいのだろうか。
自分の望みのためになったことだが、スバルに危害が加わるなら意味がない。
このまま辞めてしまったほうが――……。
嫌な想像ばかりが脳裏をよぎり、休めと言われてもなかなか休めなかった。
打ち消したくて、ぎゅっと枕を抱いた。すると、ふと先ほどユウトに抱きしめられたことを思い出した。
初めて、男の人に抱きしめられた。
もしスバルにされたら、と想像したことは何度もあったが実際にされたのは初めてだ。しかもスバル以外の男性と。
「……意外と、背中が広かったんだな」
あの時、抱きしめられた時、自分の身体がユウトの身体で覆われた。その時、初めてユウトも男の人なんだと自覚した。いつも一緒にいたのに、思ってたよりユウトは大きくて、そして背中が広かった。
あの時、スバルのジャケットによって包まれていたスバルの香りが、徐々にユウトの香りで打ち消されていくような感覚がした。スバルとは少し違う、太陽のような、暖かい匂いがした。
ユウトの顔は見えなくて、しかし苦しそうな、呻くような声にユキは少し心配になった。顔が見たいと思った時には放れていて、心配そうに顔を歪ませ、光を束ねたかのようなきらめく金髪の隙間から、エメラルドの瞳が見えて、一瞬綺麗だと思った。
その時のことを思い出し少し胸が高まった。
しかし首を振って、ユキはスバルのジャケットの袖を顔に当てる。
ああ、スバルの匂いがする。
早く会いたい。
どれだけ冷たくされても、嫌われても、やっぱりユキにはスバルしかいないのだ。
五年前に出会ったあのお見合いの日から、ユキはスバルに惹かれていったのだから。
無愛想なところも、目つきの悪いところも、口が悪いところも、手先は器用な癖にどこか不器用なそんなところも、優しいくせに悪ぶるところも、気遣いをしたときに照れて顔を逸らす癖も、笑った時の少年のような顔も、好きだったのだ。
特にあの、灰色に似た青い瞳と少しだるそうな低いあの声がたまらなく好きだった。あの瞳に見つめられるだけでユキの気持ちは舞い上がるのだ。
例え、ユキのことを道具としか思っていなかったとしても。
そばにいたい。
そして、この気持ちは絶対に伝えない。
昔はそうでも、今でもこの気持ちを持ち続けていることを決して悟られてはならない。
早く声が聴きたい。早くあの瞳に映してもらいたい。
そして、もし望むなら、少しだるそうなあの声で、名前を呼んでほしい。
ユキはそう願いながら、スバルの香りに包まれて目を閉じた。




