11.ただ、それだけだった
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ユウトから報告を聞いた後、スバルは、アティシアがいるという孤児院にいた。
今回の一連の事件の犯人を追い詰めるために。
「スバル殿下は、私がその事件の犯人だと……?」
立派な薔薇の庭園で、スバルはアティシアに今回の事件の流れを説明していた。アティシアは不安そうに眉尻を下げてスバルを見返した。
「ああ。俺の命を狙って暗殺者を雇ったのも。メイドを使って毒殺しようとしたのも。ユキに男を襲わせたのも。全部お前だ」
スバルが冷静にアティシアを見ると、アティシアは目を見開いたあとクスクスと声を殺して笑った。四十代とは思えない少女のような仕草だ。
「ふふ。スバル殿下ったら。ご冗談がお上手ね? 私がスバル殿下やあの子を襲わせて何のメリットがあるというのですか?」
アティシアは、肩を揺らし笑いながらスバルに問いかける。余裕なその表情に、スバルはじっと冷静に見つめた。
「……まず最初に疑問に思ったのは、お前が襲われたという奴の足取りが全くつかめなかったことだ」
「……」
すると、アティシアはすっと表情を消した。
「……あら。もしかしてまだ捕まっておりませんの? 私、あのとき本当に怖い思いをしましたのに。これでは、危なくて碌に外出などできませんわ」
「あれはお前の自作自演だな?」
「……」
スバルの言葉にアティシアは押し黙った。スバルは腕を組んで冷たい視線をアティシアに浴びせた。
「まずお前は、襲われたふりをして自分を被疑者に仕立て上げた。自分が容疑者だと疑われないためだ。随分慎重なんだな。……そして、ユキが狙われているというありもないことを、ユキに思い込ませた」
「……」
あのあと、スバルたちはアティシアを襲った犯人の足取りを全く掴むことができなかった。人通りの少ないヴァンモス家の周辺といっても、どれだけ相手がプロであったにせよ、怪しい人物を見たという証言者が一人ぐらいいてもおかしくはないはずだ。しかし、目撃したのが襲われた当事者だけ、というのであれば、その人物が嘘をついている可能性を考えざるを得ない。
スバルの考えに、アティシアは何も答えず黙ったままスバルを見やった。
「そして、金で暗殺者を雇い次は俺を狙った」
「なぜそんな回りくどいことをする必要があるのです?」
「俺がユキに注意を向けていたからだ」
自分が狙われたことで、ユキは自分の周囲を警戒するようになった。しかしユキの深読みで、ユキは自分を狙うことで警護を緩めてスバルの命を狙っていると、思い込んだ。
しかしスバルは違う。ユキは、自分を探している怪しい輩がいるということをスバルに報告した。今では護衛騎士だが元婚約者であるユキを、スバルは放っておけない。ユキが狙われているとあれば、スバルは自分の命よりもユキに注視がいく。
相手の狙いはそこだ。
普通の護衛騎士ならスバルはそこまで気にしはしない。しかし相手が元婚約者だったから気にしたのだ。スバルの婚約者が護衛騎士になったことを知っているのは、スバルとユウト、そしてヴァンモス家の者だけだ。
スバルの言葉に、アティシアはふっと口元を緩ませた。
「けど、それだけで私が犯人だなんて……」
「……あの毒殺しようとしたメイド。ここの孤児院に通っているらしいな」
「……」
また、アティシアは表情を消す。深い紅色の瞳が、さらに色を濃くして深くなった気がした。しかしスバルは気にせず話を続けた。
「あのメイドは帰る家族も血縁者もいない中、ツクヨ男爵の家で解雇された。それを孤児院で助けたのがお前だ。孤児院で過ごすメイドとお前が会話しているのを周りが目撃している。……かなり慕われていたようだな」
アティシアは、不快そうに眉を寄せた。
「……確かにあの子は、私が面倒を見ていました。大切な子です。だからそんな危ない真似、させませんわ」
「そうだ。だからあれはあのメイドの独断だろう。どこかでお前が暗殺者と取引しているところを目撃して、助けになりたいと思ったんだろう」
「……」
ツクヨ男爵に解雇させられたメイドは、行くあてもなく彷徨っていた。アティシアはそのころ孤児院に通い始めていたばかりで、よく孤児院に顔を出して子どもたちと遊んでいた。その時にアティシアに孤児院に入るように勧めたのだ。自分を救ってくれたアティシアに多大な恩を感じていたメイドは、アティシアが暗殺者と密会しているところをたまたま目撃し、アティシアを介さずにスバルを殺そうとしたのだ。
メイドも雰囲気が変わったユキのことが、わからなかったのだろう。ユキ自身もただ忘れてしまっていて、気づかなかったのかもしれない。
スバルは、アティシアを睨むようにじっと見つめた。
「そしてそれを聞いたお前は、内部の人間を使うことを思いついたんだ」
「……」
アティシアは何も言わない。ただじっと深い紅色の瞳が感情のない目でスバルを見返してくる。
「選んだ相手は、お前を慕って好意を抱いていたあの衛兵の青年だ」
スバルは、昨夜の男の顔を思い出して顔をしかめる。
「あいつは、お前に好意を持っていた。だから、お前が通うこの孤児院にも足し気に通って、話しをしていたそうだな。しかし相手は人妻、ましてや尊敬しているキリエルの奥方ときた。それに思い悩んでいるのを、同僚が聞いている」
「……」
アティシアは四十代とは思えない美しさだ。その美貌に心が奪われてしまってもおかしな話ではない。あの青年はその一人だった。しかし尊敬しているキリエルの妻だ。想いを伝えられず、けれど隠し続けるのがつらくて、せめて関りだけは持ちたくて孤児院に通っていた。傍から見ても青年のアティシアに向ける好意は、わかりやすいものだったと、ユウトが他の衛兵仲間に聞き取りをしたときに言っていたらしい。おそらく情報が漏れていたのはそこからだろう。
「だから、お前はその好意を利用したんだろ? そしてユキを襲うように命じた……ッ」
「……」
昨夜震えて泣いていたユキを思い出して、スバルは怒りのこもった声でアティシアを責める。
決して許しはしない。ユキを傷つけて、泣かせた奴を。
「これだけ関係者から、あんたの名前を上がれば疑うしかない」
しかし、アティシアは変わらず余裕な表情でわざとらしく首を傾げる。
「偶然でしょう? そんなのただのこじつけですわ。確かに、あの子の好意には気づいてはいましたが……」
「ここは、立派に薔薇が咲いているな」
「え……。ええ……」
スバルは急に周りで咲き誇っている薔薇を見渡した。色とりどりの薔薇の花が、赤、桃色、黄色、オレンジ、白など様々な色の薔薇が咲き乱れている。
急な話の展開にアティシアは、少し動揺しているようだった。その様子をスバルは鋭い目で見返した。
「お前がつけているその香水。この薔薇と同じ成分のローズの香水だそうだな」
アティシアは目を見開いた後、ウェーブのかかった暗い茶色の髪をくるくると弄った。
「……それが何です? 香水をつけるのは淑女のたしなみですわ」
匂いのことを指摘されてやや恥ずかしいのか、アティシアは恥ずかしそうに視線を下に向けた。
「今朝、泳がせていた暗殺者から思い出したことがあったそうだ」
スバルのその言葉に、アティシアは髪をいじっていた手がぴたりと止まった。そして、ゆっくりと感情が消えた冷めた視線でスバルをゆっくりと見やる。スバルはその視線を真っ向から受けて、口を開いた。
「お金のやり取りをしたその場所に、ローズの香りが残っていたと」
アティシアは目を開いて固まる。
強い風がざあっと吹き、アティシアの指にからめとられていた髪が指から離れなびく。薔薇の花びらが舞い散り、そこは幻想的な光景が映し出されていた。ここにいるのがスバルを殺そうとした犯人でなければ、なんとも美しい絵となったことだろう。
「……ふふ」
すると突然アティシアが、口元に手を当てて笑いを漏らした。先ほどの少女のような笑い方とか違い、滑稽だと馬鹿にしているような笑い方だった。
「ふふふ、何かと思えばッ! そんなことで私を犯人だと思ったんですか? スバル殿下といえど、あまりに……ふふ。なんてお粗末な推理なのかしら!」
アティシアはおかしそうに笑いながら目を細めてスバルを見る。そこには、馬鹿にするような侮蔑のような感情がわずかに見え隠れしていた。
「私が暗殺者やカシアとギガレスを使って、スバル殿下とユキを襲わせたですって? さらに私の香水の香りが残ってた? たったそれだけの状況証拠で……。ふふ……」
アティシアはついに腹を抱えて笑った。アティシアの笑い声が美しい薔薇の庭園に響き渡る。するとアティシアは笑いをやめて、したり顔でスバルを見やる。
「私のような香水をつけている人なんて私以外もいますし、たった二人に私が関わっていたというだけでそんな……。それにその二人が犯人は私だと言っていたのかしら? 言ってないのでしょう? だったらこんなに回りくどく問い詰めはずありませんものね?」
「……ふ」
アティシアの言葉を聞いたスバルは、ふっと唇を綻ばせた。まさかのスバルの表情にアティシアは目を剥いた。
「……何か? 殿下」
「お前気づいてないのか?」
「え?」
スバルの言葉にアティシアは困惑した。どうしてスバルがそんな余裕そうな表情をしているのか理解できなかったからだ。今度はスバルが、したり顔でアティシアを見る。
「カシアとギガレス、だっけか? 俺がいつそいつらの名前を言ったんだ?」
「……ッあ!」
アティシアは、自分の失言に顔を青くした。震える手で口を押える。
「カシアとギガレスは、毒殺しようとしたメイドとユキを襲った衛兵だ。俺は『メイド』『衛兵の青年』と口にはしたが、名前までは言っていない」
「……ッ」
確かにメイドと青年からは犯人の名前は出ていない。あの後、どれだけ尋問をかけてもツクヨ男爵以外の名前は出なかった。二人の共通点はアティシアということだけ。ましてや暗殺者が言っていたローズの残り香というだけでアティシアを犯人にするのは無理があったし、決定的な証拠がない。だからスバルはカマをかけたのだ。わざとこれまでの経緯と憶測を披露し、アティシアを油断させて、アティシア自身から証拠を出させる。正直かなりの賭けであったが、アティシアはまんまと口を滑らせてくれた。メイドの毒殺の件は緘口令を出しており、ユキを襲った件も昨夜のことで王城にいないアティシアが知るすべはない。だから、アティシアがその二人を実行犯だと名指しで気づくのはおかしな話なのだ。それにアティシアは、全くこの会話で出てきた二人のことを疑問にあげなかったし、追求しなかった。逆に話が噛み合いすぎるほどだった。スバルが話した少ない情報から、その人物を特定するなど普通は無理な話。
つまり、知っているから追及しなかったのだ。これが指し示しいていることは一つ。
「それを知っているのは、犯人だけだ。……もう諦めろ」
「……」
アティシアは顔を青くして俯いた。スバルはそれに訝し気に眉を寄せた。
「……ただ、動機だけがわからない。俺はともかく、なぜユキを狙った? お前はユキを自分の娘のようにかわいがっていたと聞いた。なぜ襲わせたんだ?」
ずっと思っていた。もしアティシアが犯人であれば、なぜユキをあんな目に合わせたのか。男性に襲われたらどれだけ怖いか、同じ女性であるアティシアが一番よく理解しているはずだ。それを理解したうえで、なぜユキを襲わせたのか理解できなかった。ユキはヴァンモス家にずっと暮らしていたのだ。キリエルもユキのことを娘のようにかわいがっていたと言っていた。恨む理由が全くないはずだ。
そもそも今回の目的がスバルの暗殺であれば、スバルだけを狙えば問題ないし、ユキを狙う必要などどこにもないのだ。
「……だって」
すると、アティシアはうつむいたまま暗い声でぼそりと呟いた。スバルはその声に耳を傾けた。
「だって、ずるいじゃないですか。あの子だけ、あの子だけ騎士になるなんてッ!」
「……!」
顔を勢いよくあげて、顔が怒りに染まったまま、瞳から涙を流すアティシアにスバルは目を見開いた。
「私だって……ッ、私だって……ッ! ずっと騎士になりたかったのに!」
アティシアの叫びが庭園に響き渡る。
その思ってもいない発言にスバルは困惑した。
騎士になりたかった?
どういうことだ。
アティシアは伯爵家の娘だった。それで騎士であるキリエルと見合いをして結婚したと聞いている。家柄は騎士とは程遠い家系であったはずだ。
しかしアティシアはスバルの困惑に見向きもせずに、叫びあげた。
「あの人と、キリエル様と背中を合わせて戦って、戦友になって! 私はあの人の妻になりたかったんじゃないッ! あの人と戦える騎士になって、戦友としてともに歩んでいきたかったッ!」
アティシアはかつての記憶に想いを馳せる。
騎士に憧れたあの時の幼い気持ちを。
「昔、騎士様に助けられたことがありました。その日から私は騎士になりたいって思ったんです。剣をもって国のために戦う姿が格好良くて、憧れていたんです」
アティシアは空を見つめた。決して届かない遠い空。
スバルは、そういえばと思い出した。
昔アティシアは誘拐されそうになったことがあった。通りで誘拐されそうだったアティシアを見回りをしていた衛兵に助けられたと。
その時に憧れてしまったのか、とスバルは見ていられず目を伏せた。
「けれどやはり、家族はそんなこと許してくれなくて。けれど、お見合いで初めてキリエル様と会ったとき、キリエル様に憧れたんです。真面目で、一心に騎士になるために剣を振って努力する彼に。私はそばにいたいと思った。そばで、私も剣を振ってこの人とともに命を預け合って戦ってみたいと……ッ! 背中を預けられる特別な存在になりたいと……ッ!」
するとアティシアは、ふっと自嘲するように笑った。
「けど、その夢は叶えられない。最初は結婚して妻であれば、それでいいと思ったんです。仕方がない。しょうがないってそう思って生きてきた。あの人も優しいし、子どもはできなかったけど、それでもいいって。騎士じゃなくても違った形で支えればって。だけど、あの子が現れた……ッ!」
先ほどの自嘲の表情は消え、怒りに燃えた表情にみるみる変化した。
「同じ令嬢だったのにッ! 家を出て、騎士になるなんて……ッ! そんなの許せなかったんです‼」
その深い紅い瞳は血走っており、いつもの穏やかなアティシアからは想像もできないくらい、狂気に満ち溢れていた。
「ずるいずるいずるいずるいッ‼ あの人に褒められて、あの人と同じ騎士になって……ッ! 私だってなりたかったのにッ‼ ずっと騎士になりたかったのに‼ あの人と戦える特別な存在になりたかったのに‼」
嘆くように髪を振り乱し顔を覆った。その指の隙間から見える瞳から狂気に染まっており、スバルは少しぞっとした。
「だから、失敗すればいいって思った! 護衛騎士なのに碌に守れず、スバル殿下を傷つけさえすればあの子の名誉は傷つくって! それがだめなら、女としての恥辱を受けて二度と剣なんて取らせないようにしようって……ッ!」
スバルは、アティシアのその言葉で先ほどぞっとした感覚が消えうせるのがわかる。そのあとで湧いてきたのは、勝手なアティシアに対しての静かな怒りだった。
「……あいつが苦しみながら厳しい特訓を受けて、騎士になった姿を、お前が誰よりも知っていたはずだろ。それでなぜ恨めた?」
「……ッ」
静かな怒りのこもったスバルの言葉に、アティシアははっと顔をあげた。その際に瞳から涙が一粒流れ落ちた。
今ではなんとも不似合いな美しい薔薇の庭園が花びらと共に匂いを運ぶ。
この薔薇を見れば、花が好きなユキもきっと喜んだだろうと頭の隅で考える。今ではもう、こんなところに連れては来れない。
こんな、ユキを傷つけたアティシアが、育てた薔薇のところになんて。
「ズルをしたわけでもない。あいつは正当な努力をしてきた。それをとやかく言う資格は、努力をしなかったお前にはない」
「……ッ私だって……」
アティシアは悔しそうに唇を噛む。
スバルもわかっている。ユキの場合は特殊だ。本来であればそう簡単に家を捨てられはしない。親に育ててくれた恩や情や期待に応える責任がある。その責任を果たすために様々な教育を施されてきたアティシアは、その責任を軽々と放棄できるほど、愚かではいられなかったのだ。
スバルは、少し同情するようにアティシアを見下ろした。
騎士になりたくて、なれなかった、悲しくて聡明な女性を。
きっと騎士になれば、国民中を魅了する立派な、美しい騎士だと称えられただろうに。
あったかもしれない未来に、スバルは打ち消すように強く目をつぶり、そしてアティシアを見た。
「……あいつは、お前を慕っていたよ。優しい人だって。お前から送られる手紙を楽しみにしていた」
「……あんなの、ただ疑われないためにしたことよ。私は……」
アティシアは苦々し気に吐き捨てる。しかしその言葉の端に迷いや躊躇さが見える。それだけで、ユキに対しての感情のすべてが物語っていた。
スバルはそれを聞いてほっと内心息をつき、後ろのアーチにいる人影に目を向けた。
「……もう出てきていいぞ」
がさっと音を立てながら、その人物は姿を現した。アティシアはその音に反応して顔をあげると、驚いて目を開いた。
「キリエル様ッ⁉」
姿を現したのは、アティシアが憧れた、そして今では夫であるキリエル・ヴァンモスだった。
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「アティシア……。お前……」
キリエルは、震えた声信じられないような瞳で自分の妻を見た。
スバルは、ユウトから報告を受けた後、そのままキリエルを連れてこの場に来た。スバルだけでなく、キリエルも証言者になったほうが信憑性が上がると思ったからだ。この国の第二王子と夫であるキリエルが証言すれば、周りは疑いようがない。
アティシアは、自嘲するように震える声で笑った。
「……軽蔑なさいますか? こんな私を。私は……あなたの妻になどなりたくなかった……」
「……軽蔑はしない。ただ、愚かだと思う」
キリエルはここに来るまで、何度もスバルに対して「誤解だと」弁明していた。しかしこうしてはっきりと自供されてしまえば、キリエルも信じざる負えない。たとえ、信じたくない事実だったとしても。
キリエルは、自分の妻を冷酷な目で見下ろした。
「スバル殿下を、そしてユキを、あんな目に合わせたお前を、許せはしない」
「……」
情はもうなかった。そこにはこの国が誇る『コントラスの鷹』と呼ばれる英雄の姿がそこにあった。アティシアは、その姿にかすかに満足そうに笑って俯いた。
アティシアにとっては、憧れた姿。この人に断罪されるのなら悪くないと、そう思った。
「しかし、私にとってお前は良い妻だった」
「……ッ!」
思わぬ優しい声の響きに、顔を勢いよくあげてキリエルを見上げた。
先ほどの憧れの姿は消えており、優しい瞳で見下ろす、夫の姿がそこにはあった。
「私はお前を妻としか見ていないよ。妻として、君を愛していた。私には戦友がたくさんいるが、妻にと思ったのは君だけだった」
キリエルは愛おしそうに見つめてアティシアに近付く。しかし、アティシアは首を振ってキリエルから一歩離れる。
違う。こんな姿を望んでいたわけじゃない。
アティシアが望んでいたのは、国のために剣を振って戦う、英雄としての姿。
そして、アティシアが望んだのは、その隣で戦う騎士としての姿。
『あの人と戦える特別な存在になりたかったのに‼』
「私の特別は、君だよ。もう、君だったんだ」
「……ッ! キリエル様……」
望んでいた姿じゃないのに。
こんな愛おしそうに、妻として見られたくないのに。
夫として見たくなかったのに。
なのに、勝手に涙があふれてくる。
いつからこの人を英雄として見なくなったのだろう。
いつからこの人を妻として支えていきたいと思うようになったのだろう。
いつから愛されるのが心地いいと思ってしまったんだろう。
自分のいつのまにか変化していた気持ちに、戸惑いを隠せない。
そんなアティシアをキリエルはゆっくりと抱きしめた。
「会いに行くよ、君に。ずっと会いに行く。だって、私は君に初めて会った時、一目で君を好きになったんだ。どちらにせよ、騎士なんてそんな危ない職業、君にはさせないさ。君が傷つくのは見たくないからな」
茶化すように言うキリエルに、アティシアは茫然とする。溢れ出てきた涙がキリエルの制服を濡らす。
「愛しているよ、アティシア。君をずっと愛してる」
『愛してる』
たったそれだけの言葉で、すべてが決壊した。
今まで自分が抱いていた憧れが、今まで自分が気づかなかった愛おしさが。ユキに嫉妬していた自分の醜さが。
『愛している』という言葉だけで、自分がしてきたことがすべて間違いであったことに、ようやく気付いた。
アティシアも愛していたのだ。騎士としてではなく、一人の夫としてキリエルを。
気づいたとき、激しい後悔が押し寄せてきた。
好意を向けてくれたあの青年を、利用してしまったことが。
あれだけ慕ってくれたユキを裏切ったことが。
『アティシア様! 今日初めて、キリエル様に褒められたんですよ!』
そう笑って駆け寄ってくれていたユキを、思い出す。ぼろぼろになっても折れずに必死に厳しい訓練に耐えていたユキ。しかし決してアティシアの前では笑顔を絶やさなかった。
強くて、優しくて、愚かな子。
その時、アティシアがどんな憎しみを持っていたか知らないで。
「………ッあああああああああああッ‼」
激しい後悔を吐き出すように、アティシアは泣き叫んだ。
アティシアの声を聞いて孤児院からパタパタと軽やかしい足音が近づいてくる。きっと孤児院の子どもだろう。心配して出てきてくれたのだ。
そしてアティシアは、そんな慕ってくれた子どもたちさえも裏切ってしまった。
もうここにはこれない。
綺麗に咲き誇る薔薇の庭園で、一人の女性がただ一つの愛に気づき、そしてそれ以外の全てを失った。
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スバルはその様子を、静かに眺めたあとフードを被りなおしてその場を去る。
スバルは顔を歪ませながら、待たせていた馬車に向かっていた。
ユキには、言えない。
こんな残酷で、悲しい事実。
きっと傷つく。
優しい彼女は、慕っていたアティシアが犯人だと知ればまた泣いて傷ついてしまうだろう。
何も知らなくていい。
もう、ユキが泣く姿は見たくなかった。
どうか何も知らずに、笑っていてくれ。
馬車に乗る寸前、後ろで咲き誇る薔薇にそう願いを込めて、スバルは馬車に乗り込んだ。
早く、ユキの笑った顔が見たかった。




