【1】地獄で待っていた男
信長を討った後、密かに生き延びた明智光秀は、関ヶ原の戦いの直前に死亡した。偶然にも同日に死んだ娘の細川ガラシャと、魂になって再会した。
しかし光秀は、ガラシャと共に天に昇ることはできない。地獄に行って、会わなければならない男がいる。そんな光秀を地獄で待っていたのは、意外にも徳川家康の家臣 酒井忠次だった。
天に昇る道の途中 明智光秀と明智珠(細川ガラシャ)
そうか、なるほどな。イエズス会の洗礼とやらを受けると、新しい名を授かるのか。それで、ガラシャになったのだな。俺、自分の娘に付けた名前も忘れてしまうほどボケてたのかと思ったぞ。まあ仏教も同じではあるが、あまり入れ込み過ぎて盲信的にはならないように気をつけてな。
色々話を聞いたが、お前が後悔のない人生を歩めたようで安心した。私はそろそろ、地獄に行かねばならないようだ。天に昇るお前と会えるのは、これが最後かも知れないが、達者でな。
地獄某所 明智光秀と酒井忠次
「明智光秀殿」
「これは、酒井忠次殿。お久しぶりです」
「待っていましたよ。地獄には気兼ねなく話せる徳川軍団員が、まだほとんどいないものですから」
「私も、早速 顔見知りの方に会えて嬉しいです。家康殿の家臣の方々は、まだ現世にたくさん残っているのですね」
「そうですよ。あの体育会系軍団のやつらは、元々普通の人間の五倍くらい頑丈にできているうえに、最近 家康様が大きな戦に巻き込まれることがなかったのもあって、ますます死人が減っていましてね」
「死人が減っているのは何よりですが…。酒井殿は、どのように亡くなったのですか?」
「病死です。まあ、ただの寿命でしょう。軍団の中で、私が一番 年を食っていましたから仕方がありませんね」
「そうですか。私も寿命で死にかけていましたが、最後は恥ずかしい死に方をしてしまいました」
「ああ、聞きました。増水した川で溺れてしまったとか…。冷静な明智殿でも、そういうことがあるのかと驚きましたよ。明智殿にも、我が徳川軍団の水泳法を教えておけば良かったですね」
「徳川軍団の水泳法ですか」
「そうです。我々に戦死者が少ないのは、攻めるときは攻め、逃げるときは逃げるを徹底しているからです。仮に逃げる途中で川や湖に出くわしても、鎧を着たままで泳いで渡れるように、特殊な訓練をしているのですよ」
「それは是非 教えて頂くべきでした。それをマスターしておけば、もしかしたら家康殿の天下取りを、この目で見られたかも知れません。でも、そんな秘伝の技術を私に教えてしまうのはまずかったでしょう」
「いえ、秘伝でもなければ技術でもないので問題ありませんよ。徳川軍団水泳法の極意は、ひたすら気合いと根性だけですからね」
「なるほど。それはとても大切な要素ですね。私は長く隠棲していたせいで、気合いも根性も衰えていたのでしょう」
「さすがは明智殿ですな。気合いと根性なんて聞くと、時代遅れのスパルタ精神ではないかと、嘲笑う者のほうが圧倒的に多いのですよ」
「嘲笑う者は、徳川軍団の強さを知らないのでしょう。それと私は、徳川軍団の健康法も教えて頂きたかったですね」
「それも気合いと根性…と言いたいところですが、気合いでは寿命に勝てませんでしたな。健康と長生きの秘訣ならば、健康オタクの家康様に教わるのが一番良いでしょう。と言っても、まだまだこっちに来る気はないようですがね。私もあと数年長く生きていれば、家康様の天下を一緒に見られたと思うと、残念でなりません」
「同感ですね。でも家康殿も、一番頼れる酒井殿が先にこちらに来てしまって、寂しい思いをされているでしょう」
「そう言って頂けると救われます。しかし、家康様は徹底した現実主義者ですから、死んだ人間のことなど、すぐ忘れると思いますよ。あっ、良い意味で、ですよ」
「そうなのですか。とても興味深い話です」
「まあ、忘れると言いましたが、死んだ途端に記憶から抹消されるわけではありませんよ。でも過去より断然、未来を重視する人なので、寂しいとか思う前に、私の代わりに誰を重用するかを考えたはずです。おそらく、体育会系ではない本多正信あたりが適任でしょうね」
「すると、現実主義で未来を重んじる性格の家康殿は、これから体育会系軍団を重用されなくなるのではありませんか?」
「しなくなると思いますよ。戦が減るのに、戦バカを重用しても意味がないですからね。ああ、でも別にそれで問題はありませんよ。兵は少しずつ軍役を解いていけば良いし、家康様にこき使われてきた武将たちは、やっとのんびりできるんです。むしろ喜ぶんじゃないですかね」
「そういうものですか」
「徳川軍団には、本当は戦が好きなやつなんていませんし、それぞれ与えられた領地で、平穏に暮らせれば良いんです。武士は元々、戦うより領地経営が仕事なんですからね。まあ息子の代になったら、どうなるかは知りませんけどね」
「なるほど、納得しました。徳川家は家康殿に限らず、家臣団も皆 現実主義なのですね」
「我々はせいぜい、今日と明日のことくらいしか考えていないだけですよ」
「それこそ何より大事なことでしょう。今日の積み重ねが5年先 10年先を作るのですから」
「我々のような体育会系軍団はそれで良いのですが、この世のすべての人間がそうではいけませんよ。明智殿のように、今日を見ながら10年、いや100年先まで考えられる方が いなくてはダメのです。あの時代の人間は皆、現世のほうがよっぽど地獄だったと言います。刺されて斬られて撃たれるのが、嬉しいはずないんですから。
でも後世の人々からは、浪漫や教訓に溢れる時代だったと評価されなければ、あの時代を生きた我々は、苦労しただけ損じゃないですか。明智殿は、数百年後から見たあの時代の評価を変えさせられる存在の一人なのです」
「そんな大それたことを、考えてはいませんでしたよ。むしろ今の酒井殿のお話を、ただ頷きながら聞き入ってしまったほどです」
「私は言うだけ番長ですから」
「でも私がやったことは結局、信長を殺しただけです」
「それも、明智殿がやったことの一つです。でも、たった それだけなはずがないでしょう。殺すだけだったら、あの時の無防備な信長なら、何の目的も理想も持たない ただの刺客にやらせれば良かったはずです。しかし、明智殿は自ら主君の信長を殺した。それは私欲のためですか?」
「違いますね。しかし、現実主義の家康殿に対して私は、自分の理想を高く掲げ過ぎていたのかも知れません」
「正直 私も、明智殿を見てそう思いました。でも理想が高いからこそ、あの信長を殺すという重い決断もできたのでしょう。それが正しいとか誤りとかは、私には分かりません。でも謀反人の汚名を着て、自らの命を危険に晒してまで、この国の未来を変えたいと思ったのではありませんか」
「確かにそう思っていました。しかしあの時の私は、自分の理想に囚われ、信長を殺すという最も極端な方法に走ってしまいました。いや、走ったのではなく、逃げたと言うべきかも知れません。しかし現実を見据えている方なら、もっと他にも方法があると思いませんでしたか?」
「率直に言うとそうですね。でもまあ、我々はあの時、信長に暗殺されそうになっていたのですから、明智殿が信長を討つと決断してくれたおかげで助かりましたがね」
「私の都合で、家康殿や家臣の方々を巻き込んだだけです」
「巻き込んでもらって良かったんです。家康様も、常に信長を最大の敵と見なしていましたからね」
「私もそれを感じていたので、家康殿は強い味方になってくれると思っていました」
「しかし、私のような凡人には、理解できなかったことがあります。明智殿も家康様も、どうして織田信長という男を、あれほどまでに危険視していたのかです。織田家と徳川家は約20年間も同盟し協力して戦っていました。
私も信長に何度も会っていますが、殺したいほど悪い感情を抱いたことはありませんでした。家康様が警戒している相手だから、決して気を許してはならないと、自分を戒めていたほどです。だから改めてお聞きしたいのですが、明智殿が、信長を絶対に殺さなければならないとまで考えた、本当の理由は何だったのですか。やはり、海外侵攻と〈あれ〉を目論んでいたのが許せなかったのでしょうか?」
「少なくとも、あの時の私にとっては、そうでした。しかし、もしかしたら本当は、信長を殺す以外の道があったのかも知れないと、長い隠棲の中で感じ始めてもいました。ですから、これ以上は信長と、いや信長様ともう一度会ってみないと、お答えできそうにありません」
「なるほど、そうですね。信長も待っていることでしょう。私なんかより信長と話すほうが重要なのに、お引き止めしてしまいましたね」
「何を言われるのですか。実は信長様に会いに行くことに躊躇いもあったのです。しかし酒井殿とこうして話をさせてもらって、会いに行くことに躊躇いはなくなりました。それに、信長様を討った時の思いを、再び噛みしめることができました」
「そうですか。それがどんな味かは あえて聞きません。本当は体育会系らしく、もっと脳天気な会話をするつもりだったのですがね」
「酒井殿はいつも飄々としながら、人をよく見ておられます。体育会系というのは、年下の武士たちを束ねるための、仮面だったのではないかと感じました」
「そうでしたよ」
「あっさり言ってしまうのですね」
「仮面でも、かぶり続けると、それが本当の顔になってしまうのです」
「やはり、酒井殿とこうして会えて本当に良かったです。私も、仮面をかぶり続けていたのかも知れません」
「そうだったとしても、無理に脱ぐ必要はないのですよ」




