第十六話
「……信じられない。この演算速度なら、世界の全金融取引のパケットを、発生から0.0001秒以内に検知・改ざんできるわ」
嘉納シンジが、ホログラムディスプレイに映し出される光の奔流を見つめ、陶酔したように呟く。彼が設計した「期待値計算アルゴリズム」は、みやびが提供するダークマター演算基盤の上で、もはや予言に近い精度を持ち始めて回転しはじめていた。
「これが私たちの『盾』であり、世界を買い取るための『財布』よ」
みやびは、窓ガラスに映る自分の瞳を見つめた。銀色の輝きが、かつての「九条」としての冷徹さを色濃く映し出している。
「麗華さん、旧神宮寺の資産回収は順調?」
「ええ。ネクサス・コアの奪還を受けて、散り散りになっていた旧臣たちが次々と合流を申し出てきているわ。柳たち裏切り者の隠し口座もすべて凍結した。……でも、みやび。田中先生から送られてきた『初陣おめでとう』というメッセージ。あれが引っかかるの」
麗華の懸念は正解だった。
次の日の朝
聖ガバナンス高校の教室に、一人の少女が姿を現れた。
「今日からこのクラスに編入することになった、白河エリカです。……皆さん、仲良くしてくださいね」
清楚な黒髪、控えめな微笑み。一見すれば、どこにでもいる可憐な転校生。男子たちが騒ぎだすが、みやびの網膜には、彼女の周囲の空間が不自然に「凪いでいる」のが映し出されていた。
阿久津が、小脇に抱えた『阿久津弐号』のスイッチを密かに入れると
「……おい、今中さん。弐号の針が、マイナス側に振り切れてる。電磁波も熱も、彼女の周りだけ完全に『吸収』されてるぞ」
阿久津の声に、みやびは頷く。
エリカの存在。それは、ダークマターを「動かす」みやびとは正反対の、「止める」あるいは「消す」力の保持者だった。
その日の放課後、図書室。
レンと会ったあの場所で、エリカは一人、みやびを待っていた。
みやびが図書室に入ると、自然と二人は対峙する。
「……今中みやびさん。あなたが、この時代の因果律をかき乱している張本人ね」
エリカの声は、鈴を転がすような美しさでありながら、一切の情動を排していました。彼女の手には、みやびがかつて未来で愛読していた量子物理学の原典があった。
「……白河さん。あなたは、誰の差し金? 田中先生? それとも、九条レン?」
「私は誰の味方でもない。私はただの『清掃員』。……あなたが動かした膨大なエネルギーの残滓が、この世界の平穏を汚している。それを消し去るのが、私の役目」
エリカが本を閉じ、みやびに右手を向けると、その瞬間、みやびが感じていた世界の色が、一瞬にしてモノクロに変わった。音が消え、温度が奪われ、周囲のダークマターが「無」へと還っていく感覚。
「……ダーク・ボイド(虚無の領域)」
みやびは即座に反応し
「……展開! ダーク・ベール!」
相反する二つの力が衝突し、図書室の空気が悲鳴を上げ、書架の本が不自然に浮き上がり、次の瞬間、粉々に砕けて霧散します。
「……強いわね、今中さん。でも、あなたの力は『加算』。私の力は『減算』。……最後に残るのは、何もない虚無の世界よ」
エリカの瞳が、一瞬だけ深い紫に染まりました。
その時、図書室の扉が勢いよく開き、阿久津とシンジが駆け込んできました。
「今中さん! 壱号のセンサーが、校門周辺に異常な空間歪曲を検知した! 田中の組織の実行部隊が動いてるぞ!」
「……邪魔が入ったわね」
エリカは向けた手を下ろし、涼しげな顔に戻りました。
「今日のところは挨拶だけ。……今中さん、あなたが『世界を買い取る』前に、世界そのものが私の虚無に飲み込まれないよう、気をつけることね」
エリカは、影も残さず図書室から消え去っていった。
「……あいつ、何者なんだよ。僕の弐号が、彼女の座標を『存在しない』って認識し続けたぞ」
阿久津が震える手でデバイスを確認します。
「……計算不能だ。僕の確率論が通用しない相手が、この学園にまた一人増えた」
シンジが苦々しく吐き捨てる。
「……彼女は、私の『影』よ」
みやびは、エリカが立っていた場所を見つめながら
「彼女もまた、未来を知る者。あるいは、未来を消すために送り込まれた刺客。……麗華さん、ネクサス・コアの防衛を一段階上げなさい。これはもう、ただの買収ごっこじゃない」
聖ガバナンス高校を舞台にした「異能のチェス」は、ついに駒が出揃った。
調律師、エンジニア(阿久津)、政略家(麗華)、数学者。
そして、監視者(田中)、記録者、そして消去者。
「……買い取ってあげるわ、白河エリカ。あなたのその『虚無』さえもね」
みやびの銀色の瞳に、不屈の決意が宿った。
みやびの「帝国」の胎動は、いよいよ世界という巨大なシステムそのものへの反逆へと加速していく。




