第十二話
「……九条、レン」
みやびはその名を口にするだけで、舌の先が痺れるような感覚を覚えた。
かつて未来の世界で「調律師」として君臨していた頃の自分の姓。
それが、この2026年の、一介の高校生の胸に刻まれている。
「驚かせてしまったかな。でも、名前なんてただの符号だ。僕にとって重要なのは、君がこの世界の因果律をどれだけ『浪費』するか、ということだけだよ」
レンは手に持っていた詩集を、音もなく書架に戻した。
彼の動作には一切の迷いがなく、あたかも「これから何が起こるか」を完全に知悉しているかのようだった。
「浪費……? 私はこの世界を、より正しい形に修復しようとしているだけよ。田中先生のような、偽りの均衡を守るために」
「修復、か」
レンはみやびに一歩近づき、その瞬間、みやびが常時展開している「ダーク・ベール」が、まるでないかのように霧散した。
干渉されたのではなく、レンの存在そのものが、みやびの力を「無効化」している。
「君が何かを動かせば、必ずどこかに歪みが溜まる。一〇億円を稼げば、一〇億円分の誰かの未来が消える。……君が作ろうとしている『帝国』は、この世界にとっては巨大な癌細胞なんだ。」
さみしげに呟くと
「……じゃあ、また。今中さん。次は、君の仲間たちが『見つけてしまう』場所で会おう」
レンはそれだけ言い残し、夕闇に溶けるように図書室を去っていった。
一方、旧校舎の地下倉庫。
みやびの不在を埋めるように、阿久津とシンジは、完成したばかりの『阿久津弐号』の調整に没頭していた。
「おい、シンジ! なんだこれ……波形がおかしいぞ!」
阿久津が、モニターにかじりつきながら叫んでいる。
みやびがいないにもかかわらず、弐号機の液晶には、かつてないほど強固な「ダークマターの奔流」が映し出されている。
「待て。計算が追いつかない……。今中さんがいないのに、なぜ励起エネルギーが上昇してる? 発生源は……この真下だ。地下三階のさらに奥。田中のおっさんがいたラボの、もっと深い層から出てるぞ!」
シンジのホワイトボードに書かれた数式が、赤く点滅し始めました。
それは確率論的な「あり得ない事態」を示唆していた。
「これ……今中さんがダークマターを動かす時の周波数と、完璧に一致してる。……いや、違う。今中さんの波形が『調律』なら、これは……ただの『破壊』の波だ!」
そこへ、麗華が息を切らして駆け込んできた。手には、神宮寺家の古い資料を握りしめている。
「阿久津、シンジ! 逃げる準備を。……見つかったわ。神宮寺がかつてこの地下に埋設した、実験用の『疑似・特異点』。田中たちは、それを再起動させようとしている!」
「ブラックボックス……? まさか、今中さんの力を人工的に再現しようってのか!?」
阿久津が叫んだ瞬間、地下倉庫全体が、内側から引き絞られるような異様な振動に襲われました。
『阿久津弐号』のモニターが激しく明滅し、そこに映し出されたのは、学園の地下深くで目覚めようとしている、暗黒の渦。
みやびが図書室から地下へと駆け戻ったとき、そこには、すでに自分たち以外の「影」が蠢いていた。
「……レンが言っていたのは、このことだったのね」
みやびの瞳が、怒りで銀色に染まる。
自分の力を「兵器」として、あるいは「管理の道具」として利用しようとする組織の意志。
それは、かつて彼女を殺した未来の組織と、全く同じ醜悪な色をしていた。
「阿久津くん、シンジくん、麗華さん。……準備はいい? 私たちの本当の『授業』は、ここからよ」
旧校舎の地下から、2026年の物理法則を根底から覆すような、重い唸り声が響き始める。




