薔薇姫の涙と頭の痛い問題 side見張りの騎士、ウィリアム
あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。
前半は見張りの騎士視点、後半は国王ウィリアム視点になります。
ア、アナスタシア様が泣いてる……
その事実は、学園の卒業パーティーで扉の警護をしていた俺たちに酷い衝撃をもたらした。
アナスタシア様は、色々な意味で有名な方だ。王太子殿下の婚約者であり、全ての令嬢の憧れ。気高く美しいクーヴレールの至宝。その瞳の色と誇り高い在り方から名付けられた『宵闇の薔薇姫』の名を知らぬ者は、社交界では存在しない。
本来はクーヴレール公爵令嬢である彼女を気安く名前でお呼びするのは許されないのだが、みんな彼女を慕ってそう呼んでいる。アナスタシア様も、笑ってそれを許して下さる。
家柄という観点から見れば妥当なのは分かっていても尚、彼女が王太子殿下の婚約者でさえなかったらと惜しみ、何故婚約者が王太子殿下なのかと疑問視する貴族男子は多い。王太子殿下がアナスタシア様を毛嫌いしているのは有名な話なので、尚更夢を捨てきれないと言うのもあるのだろう。
俺は恐れ多くて隣に立とうとは思えないが、もしも彼女に婚約者がいなかったら貴族男子はこぞってその地位を得ようとしたんだろう。簡単に想像出来る。
王太子殿下は何故あんなにも素敵な方を邪険にするのだろうか。俺には到底理解出来そうも無い。
そんなお優しいアナスタシア様が、社交界の子息子女なら誰でも一度は憧れを抱くアナスタシア様が、いつも気高く凛と背筋を伸ばしている、あのアナスタシア様が。
俯き、か細い肩を小さく震わせて泣いている。
それは、衝撃以外の何ものでもない光景で。
会場内で何があったのだろう、とか、誇り高く気高いアナスタシア様が泣くとはどれ程の事が、とか、一体誰が彼女を泣かせたのだろう、だとか、言葉はぐるぐると頭の中を巡っていくのに俺は何も言えなくて。そしてそれは、きっと傍らに立つもう1人の騎士も同じだった。
パーティーが始まって早々に会場を出られたアナスタシア様の身に何があったのか、中に入ることの出来ない俺達には分からない。俯いているアナスタシア様の表情もまた、俺達が見る事は叶わない。
だけど、扉が閉められた途端、張り詰めていた糸が切れたかのように彼女が小さく息を吐いた事は、それから、彼女の顔が耐えようとしても耐えきれないとばかりに歪められた事は、誰にも顔を見られぬようにと俯き、肩を小さく震わせて泣きながら去っていったことは。
どうしようもない、事実だった。
✼ ✼ ✼
そろそろか………
銀の懐中時計が示す時間を見て、傍らに立つ宰相と背後の近衛騎士団長以外の臣下たちに謁見の間から出る様に命じる。
彼らは速やかに謁見の間から退出して行った。
件の令嬢の姿は、未だ見えない。宰相であり幼馴染でもあるリチャードの刺すような視線と胃の痛みを感じながら、ただひたすらにその令嬢の訪れを待った。
遡ること3日前、王立ウェミス学園で卒業パーティーが開かれた。未来ある若者たちの門出を祝う祝福すべき日に、我が国の王太子とその婚約者が卒業する。ルーカスの婚約者とルーカスの婚姻まで1年をきることで、王城にはどこか浮かれた雰囲気が漂っていた。
王太子のルーカスは国を背負っていく者としては頼りない。しかしそこは、彼女がしっかり手助けしてくれるだろう。既に陰に日向によく支えてくれているのだから、きっと結婚してからも問題は無いはずだ。それに、ルーカスも学園を卒業したのだからこれからゆっくり教えていけば良い。
そう、思っていた。それがどれほど甘えた考えであるのかと、考えることもせずに。
『国王陛下、一大事でございます!!』
そういって駆け込んで来たのは誰だったか。彼の報告のあんまりな内容とその後怒涛の勢いで押し掛けてきた貴族たちのせいで、誰が最初に報告をしてきたのかは定かではない。
よりによって大切な卒業パーティーの場で、婚約者である公爵令嬢に婚約破棄を突きつけ、国母に相応しいのはリーゼロッテとか言う男爵令嬢の方だとか、公爵令嬢が何の取り柄もない冴えない女だとか、他にも色々とほざ…………言ったと聞いた時には我が耳を疑った。次に正気を疑った。だが、残念ながらそれは事実であったらしい。
その場に居た子息子女たちの心は、あの件で完全に馬鹿息子から離れていったと聞く。
今まで彼女は、散々あの馬鹿息子の尻拭いをしてきた。言い換えれば、彼女が取りなしていたからこそ、彼らは溜飲を下げてきたのだ。
それがどうだ、今回愚息は、婚約者に尽くして来た令嬢に突然婚約破棄を突きつけ、彼女を罵ったのだ。そんな事では、次にいつ自分がその憂き目に合うとも知れない。そんな息子を主として戴こうとは誰も思えなかったのだろう。だが、恐らく理由はそれだけでは無い。
彼の公爵令嬢は、社交界では『宵闇の薔薇姫』と呼ばれ、慕われている存在だ。そんな彼女に対する理不尽に、彼らが怒らぬ筈もない。彼らの心が離れたことの原因は、おそらくこちらが大半を締めているだろう。
……まあ、誰より怒っているのは今私の隣に立っている親バカだろうが。思っていたよりも大人しくて怖いくらいだ。暗殺者の1人や2人は送り込んでくるかと思っていたのだが。
……暗殺者の方が、まだマシだったのかも知れぬなあ…。
最近息子の周囲で起こっている事が思い起こされ、どちらがマシだったのだろうか、と思う。息子の周囲に起こっている事と同様の事が、もう1人の元凶である男爵令嬢の周囲でも起こっているらしい。
一体どうしたものか……。頭が痛い。
……と、その時、騎士に先導されながら1人の淑女が回廊を歩いて来るのが見えた。
艶のある美しい銀髪は一部を結い上げて残りを後ろに流され、派手過ぎず地味すぎず、王城を昼間訪れるのに相応しいドレスをまとった令嬢だ。彼女の瞳と同じ色のそのドレスは、その品の良さも相まって彼女によく似合っていた。
凛と背筋を伸ばして歩いてくる彼女の顔は、臆すること無く真っ直ぐ前を向いている。宵闇の色にも例えられる深いアメジストの瞳もまた、理知的な光を宿して真っ直ぐ前を見据えていた。
先導の騎士が、謁見の間の扉の前で止まる。彼女が騎士に礼を述べると、騎士の顔が赤く染まった。
その騎士に向かって微笑んだ後、彼女が入り口で優雅にカーテシーをする。私が頷くと、彼女はゆっくりとこちらへ向かって歩き出した。令嬢の背後で扉が閉まる。
一定の距離を歩いて、彼女は立ち止まった。腰を落とし、顔を伏せて先程よりも深く礼をする。そんな彼女に私は徐に声を掛けた。
「直答を許す、面を上げよ」
「ありがとうございます、失礼致しますわ」
令嬢が伏せていた顔を上げる。アメジストの双眸は間近でみるとより理知的に、美しく見えた。
「わざわざ来てもらってすまないな」
「いいえ、とんでもない事にございます」
座っていた玉座から立ち、謁見の間入り口から玉座へと続く階段を下って行く。これからやろうとしていることは、遥か頭上からでは意味が無いのだ。
近衛騎士団長も私の後ろに続いたが、リチャードがアナスタシア嬢の傍に駆け寄るのはそれよりもずっと早かった。
アナスタシア嬢の正面に立ち、深く、深く頭を下げる。突然の私の行動に、アナスタシア嬢が少し動揺したのが分かった。
「この度は、愚息がとんだ失礼を……本当にすまなかった。なんと謝罪するべきか……」
「陛下……。僭越ながら申し上げますが、君主が容易く頭を下げるものではありませんわ。どうか頭をお上げ下さい」
「だが…」
アナスタシア嬢の言うことも正しいが、今回の件に関しての非は完全にこちらに……王家にある。そう簡単に頭を上げるわけには行かない。人払いをしたのは主にこの為だ。勿論、アナスタシア嬢を衆目の目に晒さないようにという配慮でもあるが。
事は、令嬢の一生を左右する問題なのだから。
「ウィル、アナが困っているだろう。頭を上げろ」
………理不尽だ。謝っているのになぜ怒られねばならぬ。
そう思いながらも頭を上げれば、リチャードは鋭い視線で私のことを見ていた。その目付きは最早睨んでいると言っても過言ではない。
「陛下。陛下には何の非もございませんわ。その行動の責も非も、請け負うべきは当人です。王太子殿下とていつまでも子供ではいられませんもの。どうぞ、お気になさいませんよう」
淡い微笑みすらたたえて、アナスタシア嬢はそう言った。慈愛すら感じる微笑みを見て、彼女が社交界でひどく慕われている理由を今更ながら実感する。
美しく、賢く、気高く、それでいて他者に対する思いやりを忘れず、諌める時にはきちんと諌め、自分の意見を述べることが出来る。それは正に、社交界の令嬢たちが理想とする淑女の姿だ。
王立学園と言う名の社交界の縮図での振る舞いは、その人物の評価に直結する。5年間の学園生活においてアナスタシア嬢の評価が非常に高く、ルーカスの評価がそこそこと言うのは、つまりはそう言う事だったのだろう。ルーカスはアナスタシア嬢に感謝せねばならぬと言うのに、全く。
「だが、何もしないのではこちらの気がすまぬ」
「わたくしは、謝罪を受け入れないと申して上げているわけではありません。
けれど、最近の王太子殿下とテアトルサンク男爵令嬢の様子を聞くに、これ以上何か罰を下すのは酷なように思うのです。既に、罰は下されているのですから」
「そうか……。とは言っても、あの2人は公爵家の令嬢を不当に貶めたのだ。ルーカスの廃嫡とテアトルサンク男爵家の断絶は既に決定されている。
アナスタシア嬢への慰謝料に関しても、どれほどかかってもルーカスに払わせると約束しよう」
最近、ルーカスとリーゼロッテ嬢の周囲では一切の光が差さず、魔法も使えないのだと言う。これだけ聞いても訳がわからぬ。
王城内のルーカスの部屋は卒業パーティーの日以来ずっと暗闇に包まれて一筋の光すらも差さず、光源を持ち込んでも即座に掻き消されてしまう。侍女や女官は、精霊の怒りだと恐れて近付きたがらない。
精霊が敬われるこの国で彼らに嫌われることは、身の破滅を意味する。彼らのお陰で生活が成り立っているのだから、それも当然だ。ルーカスが廃嫡になるのに、精霊たちの機嫌を損ねたという理由は十分すぎる。仮にアナスタシア嬢の件がなかったとしても、精霊に嫌われたルーカスが王位に即く事は万に一つもないだろう。いや、そもそもその件がなければこのようなことにもなっていないか。
精霊の怒りだと聞いて真っ先に思い浮かぶのはアナスタシア嬢だが、穏やかに微笑む目の前の顔からはそんなことは全く想像できない。
が、東洋の方には蛙の子は蛙と言う言葉もある。リチャードの子供であるアナスタシア嬢ならばされた事に対してそれくらいはやり返しそうな気もするし、その権利が彼女にはある、とも思う。
婚約破棄の内実がどうであっても令嬢側が非難されがちなのに加え、瑕疵のある令嬢と婚約を結ぼうなどと言う奇特な貴族令息などまずいない。彼女らに残された道は修道院に行くことのみ。
だが、貴族令嬢が修道女になった所で生きていけないし、何よりその暮らしに耐え切れない。修道女になることは貴族としての終わりと同義だ。だからこそ、勝算がある。
「……時にアナスタシア嬢、そなた、今後はどうするつもりなのだ? 新たに婚約者を探すつもりなら、王家も協力させてもらうが」
彼女がこの国を自身の敵と定めてしまえば、この国は一夜にして滅ぶことすら有り得るのだ。それを、あのバカ息子は分かっていない。
アナスタシア嬢を逃がす訳にはいかないのだ。
「ウィール」
愛称を呼ばれ、アナスタシア嬢の隣に立っている我が幼馴染にして親友の男を見る。彼は無表情ながらも口元に酷薄な笑みを浮かべ、どす黒い気配を身に纏っていた。
……即座に目を逸らした。
「なあウィル。お前は王家の都合でアナを振り回しておいて、この上更にアナに婚約を強いると言っているのか? ………ふざるのも大概にしろよ」
最後にボソリと漏らされた声は、低い。が、その言葉でリチャードが何に怒っているのかは理解した。そういうつもりでは無かったのだが。
ドスの聞いた低い声を聞いても、アナスタシア嬢は平然としている。
………社交界で淑女の鏡と称されるのだ。流石にこの程度で動揺はしない、か。
そう、心の中で呑気に思っていられたのも束の間の事。
「わたくし、修道院に行こうと思うのです」
アナスタシア嬢の爆弾発言にその場の空気は凍り付いた。
『ウィル』と呼びかけている所が伸びているのはわざとです。誤字とのご指摘がありましたので一応^^;
報告はとてもありがたいです。ご指摘ありがとうございました。