対価の内容は思いもよらないものでした。
堕天使……ヴィンセントと共に歩いて元の場所に戻ると、そこには目じりを吊りあげたエリックが仁王立ちで待ち構えていた。
「お・じょ・う・さ・ま」
一言一言区切った上でわざとらしく丁寧な呼び方をされ、エリックからそっと目を逸らす。助けを求めて周囲を見渡せば、手近な所にあった木に一心不乱にナイフを投げたり、蹴りをくらわせたりしているエルザが見えた。
ええっと……エルザ? 何をやっているの?
最近のエルザはおかしい。少しでも時間が出来ると何かに取り憑かれたように鍛錬しだして、夜もほとんど寝ていない。
馬車で移動する時も、自分は1人だけ並走するなどと無茶苦茶なことを言い出して大変だった。このままでは体を壊してしまいそうで休息を取るように命じても、ちっとも聞きやしないのだ。無理矢理馬車に乗せたけれど、かなり渋々だった記憶がある。
「彼奴は何をやっているんだ?」
今朝の出来事を思い返して遠い目になっていると、だて……ヴィンセントに声を掛けられた。エルザたちにはあまり興味を示さない彼が反応するくらい、今のエルザは奇妙に見えるらしい。
声を掛けられたことをこれ幸いと、堕天使の方へ向き直る。彼と話していると言えば、エリックは怒るのをやめてくれるかもしれないという、淡い期待を抱きながら。
自分の立場やするべきことから逃げるつもりはないし私のための怒りから目を逸らすつもりもないが、それとは別に、進んで怒られたくはないという思いも確かにあるのだ。
「さあ、知らないわ。本人が落ち着くか、馬車が出発する時間になるまでは好きにさせておけばいいのではないかしら」
恐らく馬車の出発時間にまでにエルザが落ち着くことはないだろうけれど、幸いにしてエルザの態度がおかしい原因に予想はつく。
理由が分かっているのだから、後は本人に任せてしまえばいい。自分自身で折り合いを付けることができれば、それに越したことはないのだから。
「エルザとやらも、いつもあんな奇行を繰り返しているわけではあるまい。何かあったのか?」
「それは貴方には関係の無いことだわ」
「それもそうだな」
すげない返事を返すと、彼はあっさりと引き下がる。興味本位で聞いただけで、元々さして関心も無かったのだろう。
話題に区切りがついてしまったため、新たな話題をさがして視線をさまよわせる。そんな私の肩を、誰かががしりと掴んだ。
……誰かとは言っても、この状況では1人しかいないのよね。そもそもエルザが私の肩を掴むなんていうこと事態がありえないけれど。
「お嬢様? そちらのお話はひと段落ついたようですし、少し俺とお話しませんか?」
すごみのある笑みでそう言われ、エリックが結構本気で怒っていることを察した。普段は自分のことを『私』と言う彼が『俺』という時は、感情が高ぶっている時だ。つまり……今の状況ならば怒っている証拠だった。
「申し訳ありませんが、少しお嬢様を貸していただいてもよろしいでしょうか」
私の肩に手を置いたまま、エリックは私の隣にいたヴィンセントに問いかける。もしかしたらヴィンセントが止めるかもしれないと思ったのに、ヴィンセントはあっさりと頷いてしまった。
「構わん。アナの人間関係を阻害する気はないのでな」
そんなことをしたらアナに怒られてしまうだろう、とくつくつと笑う。その通りだった。
そのままヴィンセントは姿を消してしまい、エリックと2人でこの場に残される。意識の外で、ばきりと木が折れる音が聞こえた気がした。思わず顔を引き攣らせるも、エリックの表情は変わらないままだ。
「え、エリック……ほら、一旦落ち着いて頂戴。あんまり怒ると体に悪いわよ?」
焦るあまりおかしなことを口走ると、俺は若いので問題ありませんよ、と真顔で返される。普段ならば呆れた声を出しつつも笑ってくれそうなエリックが、真顔。怖い。
「これが落ち着いていられますか! お嬢様には色々と自覚が足りません。そもそも何故あの方と2人で行動しているのです? あの方がその気になれば我々など一瞬でねじ伏せられるのだと言うことをお忘れですか?」
エリックの言葉が耳に痛い。抵抗する術がないことは分かりきっているのだから彼と2人きりになるなと言ったのは私だ。
「お嬢様は守られる身分であるというご自覚がおありですか? いつも言っていることですが、護衛対象であるお嬢様自身が進んで危険に突っ込んでどうするんです。それではどんなに腕の立つ護衛がいたとしても守りきれないではないですか。ましてや私たちは護衛が専門という訳では無いのですから、誰もいない状況で信用ならない人物と2人きりになられるのは困ります」
それに……。くどくどくど。
エリックのほんお説教は1度始まるととても長い。立て板に水の如く話し続けるのだ。よくもそんなに思いつくなと言いたくなるほどである。彼の母親で私の乳母でもあったエステルにそっくりだ。
どこか懐かしい気持ちさえ感じながらエリックの言葉に耳を傾ける。こんな時はエステルにもう会えないことを実感してしまって、少しだけ、寂しい。
だからエリックの本気のお説教はあまり受けたくないのよね、と少ししんみりとした気分で話を聞いていたら、エリックにじろりと睨まれた。
「お嬢様、聞いていますか?」
「……ちゃんと聞いているわ。ただ、懐かしいなと思って」
ふふっと笑って見せれば、得心が言ったのかエリックがあぁ、と呟く。
「私の母が死んで、もう2年になるのでしたか」
「まだ2年、よ。生まれた時から傍にいてくれた、私にとっても母のような人だもの。未だに生きているのではないかと思う時があるわ」
幼い頃はほとんどお父様とはほとんど関わりが無かったこともあって、私はエステルに育てられたようなものだ。実の母は、私を産んだ時に亡くなったらしい。
美しい上にお優しくて、お体は弱いのにとてもお心が強い方でした、と言うのはエステルの言だ。
「まぁ、ある意味では私とお嬢様は兄妹と言えなくもないですしね。お嬢様の乳姉妹だった妹は1歳になる前に死んでしまいましたが」
1度でいいから、お母様とエリックの妹に会ってみたかった。
生きていたら、エリックの妹はどんな風に成長したのだろう。もしかしたら、彼女が私に仕える今もあったかもしれない。そうしたら、エリックはかつての希望通りお兄様の元へ行っていたのかしら。
ありもしない今を想像してみると、自然と気が引き締まった。私は、エリックたちが仕えてくれるに足る主でいられているだろうか。
「まあ、だから俺には母と妹の分まで無茶ばかりするお嬢様を諌める必要があるわけでして」
そう言ったエリックの目は、まだお説教は終わっていませんよと告げていた。
「……だって、ヴィンセントがいきなり転移するんだもの」
子供っぽいと分かっていながら、ぷいと顔を背ける。幼い頃からずっと一緒にいるせいか、エリックの前ではどうしても甘えが出てしまう。
「確かにあれは予想外の出来事でしたが、だからと言って1人で危険なことに突っ込んでいっていい理由にはなりません。何かあってからでは遅いのですから。そんなことになれば、私は旦那様にも母にも合わす顔がありません。もしも橋の崩落が魔物の仕業だったらどうするつもりだったんです?」
「……ごめんなさい」
素直に謝ると、エリックは溜息をつきつつもそれ以上何かを言ってくることは無かった。
「反省してるならもういいです。何故か事件に遭遇しやすいお嬢様がそれを放ってはおけないことなんて、分かりきってますから。
……それより、いつの間にあの方を名前で呼ぶようになったんですか?」
「対価だって、言っていたわ。橋の一件を教えてくれたり、その場所に連れて行ってくれたりした対価に、名前を呼べって」
「随分と安上がりな対価ですね」
エリックの言葉にこくりと頷く。一体何を要求されるのかと身構えていただけに、内容にはとても驚いた。転移2回は、そんな安っぽいことでお礼出来るようなことではないのだ。それに加えて石を浮かしていてくれたことや馬車ごとの転移なども付け加えれば、どれほど高くついても不思議は無い。
「まあ、あの方がお嬢様に甘いのは今に始まったことではありませんね。使い捨ての転移の魔石1つ購入するのにも下手な貴族の屋敷なら建てられるほどの金額がかかるのですから、手軽にすんでよかったのではありませんか?」
「……そうね」
理解するのを諦めはしたけれど、ヴィンセントの謎は増える一方だ。そもそも、あれほどの力を持つ天使が何故私に目をつけたのかさえ分かっていない。
やがて出発した馬車の中でもずっと考えていたけれど、疑問に答えは出なかった。
あけましておめでとうございます。
今年は最低でも1ヶ月に1度は更新する予定です。
それ以外は相変わらずの不定期更新になりそうですが、今年もよろしくお願いします。




