のんびり馬車の旅……とはいきません
退屈ね……。
馬車の外を流れる景色をぼんやりと眺め、そんなことを思う。四角く切り取られた世界は茶色い地面と緑の大地が広がるばかりで人気が無く、とても長閑だ。
狭い空間は嫌いではないけれど、長時間そこに閉じ込められて大人しくしていれば流石に息も詰まる。今夜宿泊予定の街に着いたら、エルザたちを連れて街へ出ようかしら。いいわね、それ。最近はゆっくり出来ていなかったもの。みんなでお買い物でもしたら、きっと楽しいわ。
……レベッカとリヴィは元気かしら。あの2人ったら、最初の2週間は毎日のように通信をかけてきたのに、最近じゃ3日に1度くらいしか連絡を寄越さないんだもの。って、それでも十分多いわね。私の感覚もおかしくなっているみたい。
たまには私から連絡してみようかしら。驚くのか、喜ぶのかは分からないけれど、反応が楽しみだわ。
お父様とお兄様は……まあ、考える迄も無く元気でしょう。卒業式での一件を盾にとって嬉嬉としてルーカスを追い詰めていそうだわ。
お兄様、リヴィとは今頃どうなってるのかしらね。学園を卒業したら容赦はしないと言っていたし、容赦なく囲いこんでいそうだわ。がんばって頂戴、リヴィ。
「……」
駄目、思考を逸らすのももう限界だわ。
夜空を写し取ったかのような黒い髪と命の色の瞳を持つ彼は、先刻からずっと私の顔をみつめている。何なのよ、私の顔に何か付いているの?
耐えかねてちらりと顔を見上げれば、彫刻のように整った顔が途端に笑み崩れる。せっかくの美形が台無しだ。そんな表情でなかったら、神秘性さえ感じられるのに。
「どうかしたか? アナ。退屈な馬車の旅に飽きたなら、一瞬で目的地に連れて行ってやろうか。それとも、目的地の方をここまで移動させる方が望みか?」
めちゃくちゃなことを言いながら、目の前の堕天使は楽しげに微笑む。
それが嘘でも何でもなく、やってくれと頼めば本当にやってみせるのだと身をもって学んでいる。ここで頷けば即座に実行に移すだろうことが分かってしまうから、お願いするわと頷く気にはなれなかった。
はあ、と思わず溜息を吐く。2ヶ月ほど前に突如目の前に現れた彼のことは、未だによく分からない。唯一分かることと言えば、彼がとても強い力を持つ天使だったらしいということだろうか。
けれど、そんなことはそれこそ初対面の時から分かっていたことだ。結局、それ以外に分かったことなど無いに等しい。
「それで、どうする? 俺の力なら運ぶのなんて一瞬だぞ?」
「結構よ。馬車の窓から見る景色も好きだもの」
「そうか、残念だ」
素っ気なく断ったと言うのに、彼はすこぶる機嫌が良さそうだ。出会った日から、ずっと変わらずに。私と他の人とを相手にした時の態度の落差に私が怒ってからは、エルザたちにも普通に接してくれている。
ただ、私がいないところまではどうしようも無いし、彼が内心どう思っているかも分からないので信用は出来ないけれど。
因みに彼は、私の前に現れた日からずっとフィリップの家に居候中である。天界を追放されたため、自分に帰る場所は無いと彼は言う。だからと言って、男子禁制の女子修道院に男性である彼を滞在させる訳にはいかない。元々そのつもりでフィリップを呼んだのだし、目の前の彼も私が頼むと快く了承してくれた。まあ、フィリップが多少ごねたけれど。
「アナ」
低い声で静かに名前を呼ばれ、思考の海から現実へと意識が引き戻される。目が会う度に嬉しそうにするの、止めてくれないかしら。謎が多い彼のことを信用する訳にはいかないと頭では分かっているのに、絆されてしまいそうだ。
「次の別れ道、予定通りなら左に行くだろう? 左に行くのは止めた方が良い。どうやら橋が崩落して通れなくなっているようだ」
「……!」
事も無げに、薄らと笑みさえ浮かべながら告げられた言葉に目を見開く。何故そんなことが分かるのかなんて無駄なことは聞かないし、今の発言は嘘では無いだろう。彼に常識は通じないし、嘘を吐くこともない。
少なくとも私以外の人間に対しては、彼が嘘を吐く理由が無いのだ。自分と同じ生き物だと、思っていないから。人間が虫や動物相手に嘘を吐くことがないのと同じようなものだろう。自分より遥かに格下だと分かっている相手に、わざわざ嘘を吐く必要は無い。
けれど、今私が気にするべきなのはそんなことでは無い。
「ねえ、怪我をした人はいないの? そもそもの話、何故橋が落ちたの?」
「自分とは関わりが無い人間を心配してやるなんて、アナは優しいな。橋は老朽化して落ちただけだ。アナが心配するようなことは起きていないから安心しろ」
すぐに嘘だと分かった。あの橋は石造りの頑丈なもので、落ちたとなると相当大変な何かがあったとしか考えられない。頑丈なはずの橋が崩落したのに、大事にならないはずが無いのだ。
同じ馬車の中、気配を消して静かに座っていたエルザに目を向ける。エルザは私の視線を受けてぱちりと閉ざしていた目を開けた。
「エルザ、聞いたわね? 大変なことになったわ。エリックに馬車を急がせるよう伝えてもらえるかしら」
「かしこまりました」
エルザは淡く微笑んで私の言葉に頷くと、唐突に馬車の窓を開けた。
「エリック、聞こえますか! 緊急事態です、出来る限り馬車の速度を上げてください!!」
「分かった!」
エルザの声に答え、前方からエリックの叫ぶ声がする。馬車の走る音に遮られて、大声でも上げないと声が伝わらないのだろう。
エルザが窓を閉めたのとほぼ同時に、馬車の速度がぐんと上がった。対応しきれずに、体が前に傾く。止めてくれたのは私の目の前に座っていた彼だった。
「……ありがとう」
ふいと目を逸らした状態で、お礼を言う。嘘を吐かれた直後にお礼を言うのは、なんだかとても癪だった。
嘘を吐かれたという事実が、彼は私のことだけは同じ生き物だと思っているということの証左だ。嬉しくないというか、複雑な気分である。
彼にとっての私がその他の人間と変わらなかったら、さっきも嘘を吐かれることは無かったのかしら。けれど、それだと橋が崩落したことも知らなかったことになるのよね。
「礼を言う必要は無い。やはり、其方は大人しくしていてはくれないか」
「嘘を吐かれたことに気が付いた上で何もしないなら、私は私をやってないわ。私には守ってくれる頼もしい人がこの場に3人もいるもの。心配する必要がどこにあると言うの?」
「……そうだな、俺の見てきたアナはいつもそうだ。矮小な人間など捨ておけばいいものを、自ら困難に飛び込んでいく」
そう言って、彼は目を伏せて溜め息を吐く。苛立ちを吐き出しているようだと思った。笑顔以外の表情を浮かべている彼を見るのは珍しい。思わず目が丸くなる。
「それに、だ。何故そこに俺が入っていない。俺を頼れ、アナ。お前が助けを乞うのならいくらでも助けてやろう」
じっと私の瞳を見据えて、堕天使が囁く。助力を乞え、俺を使ってみろ、と。
たらり、と暑くもないのに汗が額を伝った。彼は怒っているわけでも何でもないのに、感じるこの圧は何だろう。私たちと一緒に生活して、同じように振る舞っていても、彼は人間では無いのだ。それを、私は本当の意味では理解出来ていなかったのかも知れない。
堕天使は、人を誘惑し堕落させる悪の象徴だ。私は決して信心深い訳では無いけれど、そう教わってきたし、実際目の前にいる彼を見ても確かにその通りだと思う。
助けを求めてはいけないと分かっているのに、求めたくなってしまう。何故か私を特別扱いする彼なら、喜んで助けてくれるだろう。
事態は一刻を争う。綺麗事をと言う暇があれば手段を選ばず行動しろと言われるかもしれない。それでも、彼の言葉に従う気にはなれなかった。
彼を疑ってかかっている癖に非常時にだけは助けを求めるなんて都合のいいことが出来るのなら、私は私をやっていない。
「全く、アナは強情だな」
私の瞳に答えを見たのか、堕天使は溜め息を吐いて笑う。仕方の無いやつだ、とでも言われているような気がした。
そして次の瞬間、体が突然がくりと傾く。またしても受け止めてくれたのは彼だった。お礼を言うと、彼はにこにこと嬉しそうに笑いながらどういたしましてと言う。ちらりと横目でエルザを見れば、彼女は平然としていた。
エルザも彼も、なんで体を傾けずにいられるのよ……。
「エルザ、何が起こったのか分かる?」
「恐らく、馬車が止まったのでしょう。窓の外の景色が先程から変わらなくなりました」
馬車の窓に目を向ければ、確かにエルザの言う通りだった。というかこの景色、どう考えても街よね?
先程彼が崩落したと言った橋は、街の端にある。水上都市と呼ばれ、あちこちから水を引いているこの街には、街の四方にある橋を渡ることでしか入ることが出来ない。
入る人の選別がしやすい上に、関所の制限が厳しいことで有名な街だ。その分、不届き者も少ない。私も何度か来たことがある。
「まさか、貴方が?」
堕天使に視線を向けてそう問えば、にこりと笑みが返ってくる。返事は無かったけれど、それは肯定と同じだった。
「そう……。一応、お礼を言っておくわ。ありがとう」
「礼には及ばない。まあ、あれだけ馬を急がせたのは無駄になるだろうが」
「それは、どういう……」
彼の発言に目を見開き、その真意を問いただすべく口を開く。その瞬間、馬車の扉が勢いよく開かれた。随分と焦り息を切らしているエリックが、慌てた様子で叫ぶ。
「お嬢様、大変です! 橋が……橋の石が宙に浮いています!」
…………はい? 今、何て?
毎度の事ながら、遅くなって申し訳ないです。次話は来週か、遅くても再来週の日曜日、朝7時に投稿します。その後は、また遅くなるかもしれません:( ;´꒳`;)
また、今回の更新に伴い設定&番外編集を2つに分けました。両方とも1話ずつ更新されています。キャラ設定は、このキャラ誰だっけ?となった時にでも役立ててくれると嬉しいです。キャラの過去編も、少なくとも残り3人は追加予定ですので!




