チーズがとける
汲み溜めていた水は、メイドにより程よく沸かしてあった。失礼にも気絶していたらしい少年の頭だけを袋から出し、寝椅子に転がしたまま濡らしてやる。何か抗議するように喉音が上がっていたが、そう頓着していられない。縛られてどうせ抵抗すらできないのだ。
石鹸を泡立てて、頭皮を柔らかに揉みこむようにしてやると、顔を真っ赤にしたまま黙り込んだので大層やりやすかった。意外と、髪から落ちるフケが不快なのである。家具は鏡面の如く磨くというのに、使用人に任せると程度が分からないらしい。そのためこれだけは自分でやっている。
やがて軋むそれから爪に垢が混じらなくなるまで洗ってやって、その間に風呂を用意した執事ダカンに預けた。そのまま風呂場と兼用の工房から出ていたから、その後の詳細は知らない。しかし大変怯えた様子の彼は、父の昔の服だとか言う簡素なローブを着て恭しく執事に案内されてきた。
昼食の時間だ、と聞いて更に肩を跳ねさせているから、蜘蛛を煮込むとかあることないこと吹き込まれたのかもしれない。話せない少年に何と言っていいかも分からないが、執事が先導するままについていく少年は、悲愴な決意を宿しているようにも見えたのでそっと説得は諦める。どの道見るまで信じないだろう。
そっけない土の壺に突き刺さっているのは、大鍋をかき混ぜるための木べらであった。三つ並ぶかまどの下には、薪ではなく大きな赤い石が据えられている。使用人たちがボウルに向かって野菜の皮を剥き、ひっきりなしに鍋をかき混ぜる。誰もが忙しく立ち働くここをキステン、恐らくは前世で厨房と呼ぶそこであった。
両親のいない時の食事は、大抵キステンで摂る。配膳に手間がかからないし、のびのびと食えた。サロメは隅に置かれた、木のテーブルまで放心する少年の手を引いた。そこにはいつだって食思の働かない色合いの果物ばかりが、素っ気なく山積みにされていた。
連行した少年は先程までさめざめと泣いていたと言うのに。ほど近くに置かれたかまどで、鍋で温めたクリームすらできそうに濃厚な牛乳に、メイドのマリアベルによって木べらでそっと白くまるいチーズが沈められていくのを興味深げに眺めている。この国のラク、と呼ばれるチーズは歯が立たない程に固く、外側が塩辛いので、大抵こうして牛乳で煮込んで柔らかくするのだった。
煮加減を確かめるのにすくわれたチーズが、熱を吸って木べらの上に少しひらたくなってとろける。熱いため息と、景気よく腹が鳴るのは騒がしいキステンにも紛れず聞こえた。食が細い、って訳じゃないようだ。…ならば痩身の原因は、食料事情の問題らしい。世間の尊敬を集めない魔法使いに、弟子として厄介払いされるのはよくある話だと。以前酒屋のルトニー翁が言っていた気がする。
『ねぇ、ラクは大丈夫?』
聞かれて弾かれたように頷く彼は、簡単に自分から受けた仕打ちを忘れたらしい。目はチーズに釘付けである。そのまま何度も首を縦に振るので、雑穀まじりの黒パンを切って何枚か皿に乗せれば、マリアベルが心得たように微笑んでパンにチーズを盛ってくれた。ばさばさと舌触りの悪いパンだが、牛乳で煮たチーズを載せて食べるには悪くない。昼は大抵、これにいくつかの果物と濃く煮出した茶で終わる。
横から刺さる羨まし気な眼差しを一先ずは無視して、ぱらぱらと香りのいい乾燥バジリコを少しばかりふりかける。残念ながらこの世のたかだか資産家風情に、胡椒という概念はない。ガーリックを混ぜ込むのは、朝からちょっと気が引けた。
割と手の込んで見えるその皿を彼の前に置いてやれば、ぎょっとして肩を震わせている。忙しい両親だ。今いるのは使用人と自分だけ。…新しい弟子をもてなすべきは、自分だろう。腹をすかせた子どもに、飯を盛ってやりたいぐらいの気持ちだって持ち合わせていた。
『マリアベルの料理は最高においしいのよ』
だから冷める前に食え、と流石にはしたないので口には出さない。
遠い昔に味を感じる細胞は舌以外にもある、と聞いたことはあったが、実体験することになるとは自分も思わなかった。彼も、使う内にいずれそこそこ鋭敏になって、もう少し食事が楽しめるようになるはずだ。
少年は大変失敬なことにサロメの微笑みに戦いて、毒でも勧められたように恐る恐る口をつけた。目を丸くした後で、猛然と食べ進めている。尾でもあればひっきりなしに振っていそうな勢いだ。そう思わされるほど幸せそうに顔がとろけている。
あんまり幸せそうだし。自分の分は黒パンに乗せたのを更に暖炉で炙る面倒な仕様なので、待つ間に一つくらいは果物を剥いてやる気になった。
パンが減って少しばかり余裕のできた皿に、少しばかり身の固い桃のようなのを小さなナイフで薄く切る。ペチカという青く凍った色味の果実は、食欲の失せる見かけを裏切り、食めば華やかな風味の果汁が滴るほどに垂れる。一切れ食って目を丸くした少年に、これまたパンに挟んで食うのだと教えてやれば、すぐ無くならないようにちみちみとよく噛んでいたのが面白い。
自分も甘いもの好きな母に急かされて初めて食べた時は、とろりとした濃厚さの桃もどきが、パンに馴染んでジャムのようにしっくりと収まるのは新鮮な発見であった。しかしパンも食えば無くなる。空になった皿に、先程までの笑みは消え、一瞬で尾を垂らしそうな面持ちでしょげた。
子どもとはこんなに表情豊かなのか、と半ば感心して残りの桃もどきを切ってやれば、にこにこと破顔して…何も言えずにもどかしげな顔になる。ぱたぱたと動かす両手がチーズの油と牛乳にまみれていると知っていたから、ナプキンで拭きとってやれば、手を握りこまれてぶんぶんと振られた。
よほどうまかったらしい。幸せそうだ。口唇はしきりに意味を成さない音を鳴らしている。
『おいしいでしょう。お夕飯はマリアベル特性のシチューだから楽しみにしててね』
炒めた塩漬け肉と豆と玉ねぎを、先程のチーズを温めた牛乳で煮込むだけだが。小麦粉のルーが入らないのでさらさらとした舌触りながら、チーズの旨味が移っている。これまたサロメの好物だ。ちぎった固い黒パンを沈めて、ふやけるまで待ってから食べる。
お嬢様、と声をかけられて、木皿で置かれたのは黒パンの端にチーズを載せたものだ。ボートのような形のパンが、チーズを受け止めてちりちりと油を飛ばしている。少年のものと同じようにバジリコを振ってから、待ちかねた自分のパンの為にフォークを握る。表面を軽く焦がしたチーズは、差し入れたナイフにさくさくと音を立てた。
まずは一切れ、と丁寧に切り分けたのを吹き冷ましていれば、うあ、と音が隣で漏れた。どうしたのかと振りむけば、少年が慌てたように口元を押さえて目を逸らしている。マナーを教える立場にある両親が忙しい朝は、基本的に子どもと使用人だけの食卓である。微笑ましそうに見守っていたメイドのマリアベルは、大変察しのいいおばあさまであった。サロメの目線にそっと背を向けて、礼儀正しく見ないふりをしてくれるくらいには。
まだ熱い油のしたたるそれを、根気よく冷ましてから口を開けるようにと伝える。少年の肩を叩いて、喉音を立てないように、と口元に指を立てれば、こくこくと頷く。素直なのはいいことだ。そうっとパンを刺したフォークを差し出せば、おずおずと噛みついている。
『本当はやっちゃだめだけど、今日だけ特別』
また必死に頷きながら、さくりとした違う触感に、熱く焼き上がったチーズの旨味を堪能しているようだ。
ほわりと笑う少年に、胸中をくすぐられて温かな気持ちを覚える。透子としての経験からそれを母性と判じたサロメは、フォークを置いてそっと幸せそうな少年の頭を撫でてやった。
次の瞬間、先程の悪夢を思い出したようで、耳まで真っ赤に染めているのはまぁ通り魔にあったと思って忘れてほしいけれど。多感な時期にちょっとむごいことしたかなぁ、と思ったところで自身の狼藉は後悔しない。恨むなら軽率に預けた父を恨め、と軽やかに責任転嫁して自分は忘れることにした。
「そういえば、お嬢様」
『なあに?』
また木皿に向き合ったサロメに、マリアベルが思い出したようにふくふくと言う。
「その子、お嬢様より2歳程年上の紳士ですよ。はす向かいの、タクロフカさんのお家の子でしょう?」
この世に生を受けて7年…そっと自分が小学生1、2年生であれば彼はもしかして、と前世のノリで勘定した彼女は気付く。もしや、年上相手にお姉さんぶりたい子どもだと半笑いで見られて…?そうっと周囲を見渡せば、ちょっと笑いを耐えた使用人がわざとらしく背を向けた。気がする。言い様のない羞恥を覚えて、殊更丁寧にパンを切り分けながらマリアベルに聞く。
『…じゃあ、お名前も知っているの?』
「それは…お弟子さんが、まだ知られたくないようですから」
老婦人が笑うのに釣られて少年を見れば、眉間一杯にしわを寄せた彼は口元に人差し指を立てて、必死に首を横に振っている。
『呼ぶとき、困るのに?』
手を取られて、それはもう使わないものだと指先で伝えられる。字が書けるのか、と感心していると、ついで自分もまた、と書かれる。…人に使われるのが前提とは、随分とまぁ勤勉なことだ。真似できない。
しかしどんな心境の変化があったかは知らないが、表情に悲壮感は消え、目はただ怒りを映しているのか。明るい水色に凄みを足して、ひたすらごうごうと燃えていた。それは両親を恨みに思ってか、と聞けば首を振る。何事か呟こうとして、喉音ばかり鳴るのを悔し気に目を伏せた。
「お嬢様、パンが冷めてしまいますわよ」
停滞する食卓に業を煮やしたマリアベルにより、優雅に木べらが空いた小鍋の底に叩きつけられる。かぁん、と軽やかな破裂音をたまわって少年が我に返る。マリアベルはそのまま少年の耳をひっつかんで、キステンの外に連れて行ってしまった。妙に息苦しい空気から解放されたサロメは、急いで少しばかり冷めたパンを口に詰め込んでから少年が消えた先を追う。折檻されてやしないかと、不安になったのだ。特にマリアベルは無作法に厳しい。
よく通る声を探して恐々と覗いたところ、どうやらちゃんと紳士にならねば、とマリアベルにより何事か教え込まれているようだった。しかし何故か真面目に聞く少年に気を良くしたのか、徐々にそれが旦那様の女性遍歴に話がすり替わって行ったので、サロメはたいへん穏やかな心持ちで食卓に戻った。
何せまだラフシュリを食べていない。だから貴婦人を三人手玉に取ったなんて話に、いつまでもかまっちゃいられないのだ。




