第七章 一一月〇四日(水)#3
◆ 3
授業が終わって、さあどうしようかと多少途方に暮れながら、売店で立ち読みでもするか、と足を向けかけたとき、一人の女の子と目が合った。
「あ……」
千春が言葉を出せないままでいると、向こうから声をかけてきた。
「やっほーっ。あれえ、な~んか浮かない顔してるなぁ。せっかくの美形が台なしだよそれじゃ。あっ、でも、今日は珍しく、お粧ししてるじゃな~い? もしかして、デート?」
いきなりのハイテンションに大いに戸惑った千春だったが、そこまで言われておとなしくしていられるわけがない。
「う~~ん、いろいろありましてねえ。浮かない顔の一つもしてしまうのですよ……。
でも、そっちこそ何かテンション高いじゃん。いいことでも、あった?」
土曜日のこと、改めて詫びようかと思っていたのに、どうもそっちの方の話に持って行けそうな展開ではない。
「いやぁ、この間、千春には迷惑かけたなあって思ってたから。シリアスな感じで声かけにくかっただけなんだけど」
「…………」
本当は自分の方こそ迷惑をかけたから、と謝らなければならないのに──そう思うと嬉しさのあまり、また雅のことを抱き締めたくなってしまった。
「雅ちゃん、抱きついても、いい?」
冗談っぽく千春が言うと、クスッとかわいらしく笑ったあと「ダ~メ」といたずらっぽい口調で返してくる。
良かった、いつもの雅ちゃんだ。
「こっちこそ、ゴメンネ。何度も電話しようかと思ったんだけど、ちょっといろいろあって──ね」
千春がそう言うと、雅も顔を少し引き締めた。
「……ねえ千春。何か、あったの? 日曜日さ、あたし千春のウチ電話したんだけど、いなかったから」
「え、何時頃?」
「朝。一〇時頃かなあ。ちょっとどっか、遊びに行こうかな、なんて思ってさ。留守電さんに繋がる前に切っちゃったけど」
日曜日の朝一〇時と言えば、おそらく水林と関本に事情聴取されていた頃だろう。
「ちょっとね、厄介なことに、なっててね」
少しの沈黙のあと雅の方に改めて目を向けると、彼女は千春が口を開くのを待っているかのようにやや上目遣いで、神妙な表情で千春の顔を見つめていた。
「雅ちゃん、口、堅いよね?」
「うん。友達少ないし」
そう言われると、なんだかなあ──。
「大丈夫よ。話すなっていうなら、あたしは絶対話さないから」
やむを得なかったとはいえ、雅の秘密は水林に話してある。それだけにちょっと罪悪感があったが、意を決して、次の言葉へ移ることにした。
「そんなたいそうなことじゃないんだけど──ちょっとさあ、これから一時間半ぐらい、暇、ある?」
千春がくだけた調子で言ったのにも関わらず、雅は神妙な顔で、そっと頷いた。
◆ Meanwhile "Police & Supporter"
春日桜がアルバイトしていたという花屋での聴き込みは、彼女の行方を探す、という観点からは残念ながら完全な空振りだった。
しかし、今の二人にとっては、成果を得た、と言って良い結果だった。
島野と大介は、元々、春日桜の新しい情報が得られるとは少しも期待せずに、ある実験をするために、その花屋を選んだのである。
「こんにちは。ちょっと、いいですか」
花屋に着くとすぐ、島野は店員らしい中年の女性に声をかけた。話によると、彼女はこの花屋の店長その人で、店を開いてからもう一六年経っている、とのことだ。
「あの、この写真をご覧になって下さいませんか?」
島野は、今朝「ある筋から」手に入れたという写真を一枚、スーツの内ポケットから取り出した。
すると、花屋の店長はひどく驚いて、桜ちゃん──この写真の人は、今、今どこにいるんですか?──と島野に食ってかかった。
その写真には、『1998.5.4』という日付が入っていた。
大介はそれを事前に見せられていたので島野の意図が分かっていたが、まさか、これほど効果があるとは思ってもみなかった。
島野は質問には答えずに次々に写真を見せていく。
初めのは井川恵、二枚目のはさえぐさゆみえ、そして三枚目が早野千春の写真。
そんな店長への聴き込みは、時間が経つにつれ成果は大きくなったが、逆に彼女の不審感を増大させた。
ここが頃合いだな──というところで話を切り上げ、不誠実にならない程度にネタバラしをしてフォローし、店を出た。
車に戻ったあと、島野はこう呟いた。
「どうやら、井川恵が一番、春日桜に似ているみたいだな。次が早野さん、更に次が三枝祐美恵」
「出来過ぎですね」
「狙った、って感じだな」
◆ 4
幸いにも、学生会館の個室が使えたので、千春は雅に伴われてそこに入った。四畳ぐらいの小さな部屋だが、楽器の練習や少人数の学習会などに利用されることが多く、防音もそこそこしっかりしている。
室内には、学習用のホワイトボードと机と椅子が置いてある。
千春は普段、ここに足を踏み入れるような立場にないので詳しくは知らないのだが、いつもなら、予約せずに使用できることは稀なのだという。明日からは市立Y大との定期対抗戦で、体育会系の人たちの多くが練習に励んでいるためか、それとも明日から今週いっぱい、運動部に所属しない一般の学生は大学が休みになる、という事情のためか、幸運にも、今日はそんな稀な日のうちの一日だったらしい。
「まず、今から話すことは、しばらくは絶対内緒にしてて。あんまり大騒ぎすると、雅ちゃんの身も危なくなるかも知れないから」
「危ない?」
雅は怪訝な表情をしたが、無視して話を進める。
「雅ちゃんには、法学部生で、しかも裁判官を目指す論理的思考のスペシャリストの一人として意見が聴きたいの。できるだけ客観的な、ね。お願いできる?」
雅は誘った時点から既に真剣な面持ちだったが、何かしら迫力を感じるような、その大きな瞳に吸い込まれそうな、そんな力を感じさせる目で頷いた。千春は、これが小杉雅という人間の本性なのかも知れないと、このとき初めて思った。
裁判官か検察官。
向いてると思うよ──。
「じゃあ……」
千春は今まであったことを、判っている事実を、西脇の推理も交えながら、できるだけ客観的に説明した。
意識して話さなかったのは、事件に関係のない西脇や美月との細かいやり取りと、さえぐさゆみえや春日桜についての細かいプライベートな情報だけだ。平川についてはあえてH君という呼ぶことにしたが、宮腰教授についてはありのままに話した。
それだけ、千春は、雅を信用できる人物だと認識していた。
雅が話の途中で何回か細かく質問してきたり、確認を取ったりしてきたが、三〇分後には、ほぼ余す事なくしゃべり終えることができた。
雅はその後数分間、じっくりと考え込んだ。
千春の話の間にメモをとっていて、それを見ながら何事か思案している。
「やっぱり、おかしい。不自然だよ」
雅の第一声は、意外な言葉だった。
「あたしには『犯人』が誰だかはわからない。今、千春がしゃべった中にいるとは限らないし。
千春や警察は、そのH君が『犯人』と思ってる。でもそのストーカーの証言とは整合しない、と。
千春の全く知らない人が犯人の可能性がある以上、軽々なことは言えない。
ただ──」
「ただ?」
雅の言う「ストーカーの証言」とは、小林が最後に言った例の手紙男の体型が、「中肉中背ぐらいだった」というところだ。
平川は一八四cm、体重も八〇キロ前後。
どう見ても中肉中背ではない。
「でも、千春の言ってた中に、怪しい人がいる。一人だけ」
「……え?」
雅の表情が、真剣なものから更に厳しいものへと変わっていく。その表情に千春はゴクリとツバを飲み込み、小さく深呼吸をしたあと、雅に、話して、と言った。
雅は大きな目を鋭いものにしたまま、コクリと首だけで小さく頷いた。
「捜査に無駄足がなさ過ぎるの」
小杉雅は、千春の目をじっと見ながら、反応を確かめるかのように少しずつ切り出した。
その口調はいつもと違い間延びした感じが消え、シャープなものになっている。
「捜査本部の捜査の方はそれほど順調でもないように思える。その井川さんの事件についても、おそらくまだ、現場にあったもの以上には、まともな情況証拠さえ掴めてないんでしょう。何も出て来なくて、焦ってる感じがする
だからそのH君を捜査本部は重要参考人として任意で引っ張って追い込んで、自白を引き出したいんだと思う。もちろん身柄も押さえたいんだろうけど──それしかたぶん、手がかりがないから、そんなふうになっちゃってるんだと思う。
でもそんな自白頼みの捜査は、今の警察は結構嫌うのよ。裁判で全面否認されたら、意外と脆いからね。『誤認逮捕だ』『冤罪だ』ってことになったら、警察の威信は丸つぶれになる。
それなのに、重要参考人も行方不明。相当困ってるんじゃないかな?」
雅はまず、警察の、水林たち捜査本部の方の捜査について述べた。千春はそうした知識はあまりなかったので、神妙に聞き入った。
「捜査本部としては、そのH君が姿を消している、というところに重点を置いていると思う。そりゃあ、恋人──っぽい、サークルの同僚、学部違いなのにゼミの同僚、と来れば無理ないとは思う。
でもいかんせん、証拠がないのよ全然。
これでは、シラを切られたときに追い込みようがない。だから、H君を見つけることは重要だけど、そこはまだスタート地点に限りなく近いことになる。
ところが、千春たちの方は、犯人が誰かの特定は全然できていない代わりに、いろいろな情報を掴んでる。
『手紙』という物証まである。
それはもちろん、千春が見た『夢』の力が大きいんだろうけど、もう一つ、西脇さんっていう人の存在が大きい。でしょう?」
その通りだ。
千春が平川を怪しいと思うのも、元々は彼の推理によるところが大きい。
捜査本部が平川を怪しいと言い、全く逆方向から調査してきた、西脇のイニシアティヴで出た、千春たちの結論も同じく平川を疑問視している。
平川は、両方からある意味「追いつめられて」いるのだ。
千春は雅の問いに、小さく頷いた。
「その西脇さんの調査は、実に的確だと思う。
現に、外している調査対象がほとんどない。
土曜日に千春と初めて会って、とても常識じゃ信じられないような話を聞いて、そんな常識じゃない路線から調査に入った。常識じゃないってことは、普通に考えれば無駄になる可能性がとても高いはずなのに、いくら音楽仲間で、知り合いの友人だからと言っても、自分の生活を優先しないで千春に協力するってことが、まずあたしなんかから見ればすごいことよ」
確かに、どうしてあれほど親身になってくれるのか──千春も疑問に思った瞬間が何度かあった。
「日曜日には、自分の警察へのネットワークを使って『被害者』の遺族にコンタクトを取ったあたりは、手際がすごくいい。しかもそこで『現場』を見せてもらう約束をあの手この手を使って取り付け、更にその二日後にやった調査でもきちんと結果を出している。全然──とまでは言わないけど、地道な取り組みにしては無駄が少ないのよ。どこに行って何をしても少しずつだけれど結果を出してる。結果から見て、不自然でない程度にとても合理的」
「……でも、日記を見つけたのは、彼じゃなくて私だよ?」
千春はすぐに反論した。
西脇のことを悪く言われそうなのに抵抗感を覚えたからだ。
「それは、たまたま千春が早い段階で気づいた、っていうだけのことかも知れないじゃない? あなたがもし気づかなかったら、彼が自分から言い出していたかも知れない。
それに、彼が『見つかる』と思ってたのは『日記』じゃなくて、手紙そのものだったのかも知れない。
更には、日曜日の、まだ情報の少ない状況での推理の段階で、彼は犯人像をかなり詳細に特定してる。そしてウチの大学に来た月曜日、理学部、人文学部、法学部で少しずつでも確実に情報を引き出してる。理学部と法学部には協力者がいて、人文学部関係では宮腰教授のことを知っていると言う。
……いや素晴らしい」
理学部には彼の同級生の水井が、法学部には恩師の長谷教授がいて、それぞれ協力してくれた。そのおかげで千春たちの、内容に関する評価は現時点ではできないものの、それなりの情報を得ることはできた。
主観的には空振りも多い印象だったが、それでも、千春一人では、とてもこうは行かなかったのは事実だろう。
「警察の捜査はすごく地道なものよ。近所での聴き込みなんかそれこそシラミ潰しにやるもんだから、実際に事件に関係してなかったり、事件の被害者だったりしても、『あの人、何かやったらしいわよ』っていうような噂が立っちゃうぐらい」
雅の表情が急速に曇った。
彼女は実際、「被害者」としてそういう世間の目の犠牲になった一人──なのだ。
そう思うと、胸が苦しくなる。
「ところが、その西脇さんの調査は本当に効率がいい。劇的に何かっていうのはないように見えるかも知れないけれど、無駄な手がほとんどない。そのストーカーの家の聴き込みだって、たまたま千春が殺されかけたときに通りかかった刑事さんたちがいたから彼の出る幕が無くなっただけで、彼、調査に行くつもりだったんでしょう?」
千春は小さく頷いた。
もちろん、あの小林を突き止めたのは、千春の見た「夢」の存在も一因になっているのだが、直接は西脇がの目撃談がきっかけだった。
「そしてそこから、また、手掛かりが出てきた。実際に捜査に当たったのはその警部さんと千春だったかも知れないけど、警部さんの代わりに彼がいても、結果は同じだったかも知れない。いや、きっとそうだったと思う」
でもだからと言って、それがどうしたというのだろう?──。
確かに不審に思っても良さそうなぐらい順調なのかも知れない。
でも、実感としてはそれなりに無駄足も踏んで来た印象も強かった。
徒労感もあった。
西脇も、「気が紛れるだろうし」とも言っていた──。
正直言って、西脇主体の捜査の方も、まだ何も判ってはいない。
手がかりっぽいものが五月雨で、少しずつ発見できているっていうだけ。
あるいは、そこに行っても情報は得られない、ということがいくつか判明しただけ。むしろそっちの方が多い。
とはいえ、千春とさえぐさゆみえの事件が共通点を持っていることは、一応明らかになった。
『手紙』──。
しかも、井川恵と千春にも、いくつか重なってもおかしくない条件がある。
しかし──まだ、井川恵の事件、そして春日桜の失踪との関連については、根拠が薄弱なままだ。
雅は、煩悶する千春を見て、一つ、ため息をついた。
「その西脇さんは、初めの『推理検討』のとき、『共通点』にこだわってた、って言ったよね?
今回の事件の捜査で『春日桜』という人が出てきたのは彼にとっては計算外のことだったのかも知れない。それは今までに出てきた情報からだけでは判断できないけど、でも、その情報を手に入れたときは警部さんがイニシアティヴを取ってたんでしょう? なのに彼は初めから『共通点』にこだわってた。
そして現実に共通点が多くあった。
午前二時半という時間、若い女性、一人暮らし、そしてロングのストレートヘア、似たような顔つき──。
もう一度初めから整理し直しましょう」
雅はそう言って、メモをとっていた紙を裏返し、文字を大量に書き始めた。
千春も目でそれを追う。
・10/29(木) さえぐさゆみえが転落死
・10/30(金) 千春、助かる(偶然)←佳奈 ←警察を呼ぶ。盗聴器発見。
・10/31(土) 井川恵が刺殺される→千春、警察に不審に思われる→西脇氏
と知り合う→事件のことを話すと、西脇氏は全部信じてくれる(共通点にこだわる)→マンションに泊まる(手紙が出される〔未明・日付は一日〕)
・11/01(日) 千春、刑事に事情聴取を受ける→西脇氏の力で、さえぐさゆみえの母親と会う→西脇氏が事件の検討をする(犯人像を推定)→千春が帰宅するのを、熱心に止めなかった→千春、二時半過ぎまで起きていた
・11/02(月) 大学で調査(宮腰教授とH君にたどり着く)→西脇氏が事件の検討をする(普通はすぐには思いつきそうもないような、ドアチェーンの開け方などを千春に講釈する。)→千春が西脇邸に泊まる
・11/03(火) さえぐさゆみえのマンションに行く(日記を発見)→バイクが爆発する→偶然、刑事たちが通りかかる(但し、千春は尾行されていた可能性が高い)→バイク事件の犯人は未だ特定されず(なぜ?)→警察も巻き込んだ捜査体制ができ上がる(共通点の存在が明確になる)→千春が西脇邸に泊まる
・11/04(水) ストーカーから話を聞き、手紙の存在が明らかになる(一連の事件である可能性が客観的に高まる)。また、その手紙の主の情報を得る(中肉中背)
「これを見て分かるように」
雅はそう前置きして、自らの考えを語った。
「西脇──氏は、かなり前から核心を突いていた可能性が高い。
そして、その効果は──」
「効果?」
雅は一度静かに目を閉じたあと、パッチリと目を開けた。
その視線は、千春を通り越して更に先を見ているようだった。
「千春が、彼の管理下に入ること」
「……え?」
それは思いがけない指摘だった。
いや、本当にそうだろうか?
心のどこかでは、自分もそう、考えていたような──。
「『犯人』は一〇月三〇日に千春を殺し損ねた。これが本当だとしたら、もう一度千春は狙われるかも知れない。だけど、殺され損なった千春の方は、なぜか最初から警戒している。実際そうだったんでしょう?
『犯人』は、西脇氏が指摘した通り、十分な計画を練っていたと思う。だから失敗は考えていなかった。まして、警戒された上での失敗なんて想定外だったと思う。
『犯人』は、初めは共通点にこだわってた。それは確かだと思う。
でも、『犯人』は千春を仕留め損ねてしまった。
それどころか、当の千春が予想以上の情報を持っていた。
『犯人』は焦ったと思う。
ところが偶然にも、チャンスが訪れた。
そこで『犯人』は、千春をコントロールできるような状態を作ろうと考えた。
千春に信頼されるように振る舞い、自分から調査に協力することによって、千春が実家に帰ったり友達の家に泊まったりするのを防ごうとした。
一一月一日午前に手紙を出したのは、千春を殺す予告をするため。それによって千春を自分の家に泊まらせ、管理下に置くことができる。まさかストーカーが奪っているなんて、『犯人』にとっては予期しようのない事故だった」
「でも……」
? 何かが──引っかかる。
なんだろう?
「そう。でも千春は、手紙を読まなくても彼の家に泊まることにした。
千春が手紙を読んでいないことについては不安があったかも知れないけれど、その結果については満足していたっていう感じかな? ただ、千春が刑事に尾けられている可能性があることが『犯人』を慎重にさせた。だから、寝ている間に殺すということはしなかった、というよりできなかった。
そんな理由から、『犯人』は逆に白昼堂々、千春をバイクごと吹き飛ばす方法を選んだ。
尾行がついていても、その仕掛けをするのに悟られにくい方法でね。
もちろん、それでも自分が疑われる可能性はある。
けど、『犯人』は千春と常に行動をともにしていた。上手くすれば、警察が自分の無実を証明してくれる証人にすらなり得る。かなり危ない橋を渡ることになるけど、逆に、渡りきってさえしまえば、自分は誰よりも安全圏に待避することができる。
それに千春はどこかで『昼間は安全』という意識を植え付けられていたと思う。
それに信頼している人が横にいる。警戒レベルが下がっても仕方ない。
それだけ『犯人』にとっては、やりやすい状況に誘導できていたってことになる」
「…………」
裏の裏は──何だ?
「一連の犯行は、基本的にすべて計画的に行われている。それだけ計画の構成力がある人間なら、千春と会った時点で、新たな計画を構築しようとしたはず。
であれば、『犯人』は当然、自分がウチのOBであることを最大限に活かし、持っている人脈や知識を総動員して、どこに行けばどういう情報が得られるかを詳細に検討したはず。ふつう、卒業した大学の先生方の人事について、OBの人たちってそんなに気にかけてるものなのかな? とてもそうは思えないけど。
でも、少なくとも『犯人』は、自分と縁の深い恩師が学部長に出世していることを知っていた。これは予め調べていたってことになるんじゃないか?
自分が一連の事件の『犯人』なら、そのカラクリも全部知っているはず。
ボツになった犯行の手法なんかもあったかも知れない。
『犯人』は、事件の被害者たちの立場や行動パターンを、良く調査して知っていた。
であれば、被害者たちと関わりのある人たちがどういう人間たちであるかも、当然ある程度は知っていたはず。どこに行けばどの程度の情報が入るかも、ある程度は予測することができたはずで、だから彼の推理は、結果から見てすごく妥当で、空振りが少なかった。っていうか、手に入る情報量を、ある程度調整できた可能性すらある。
じゃあ、そこに登場した警部さんや探偵さんはどうなるのか?
これはまさに、偶然の誤算。
千春には悪いけど、あなたが無傷だったのは偶然以外のなにものでもない。そうでしょう?
そして彼らと鉢合わせをしたのも紛れもない偶然だった。偶然でなければ、もっととんでもないこと。
すなわち、そこからは『犯人』にとっては、まさに予想外の展開に他ならなかった。
だから、ストーカーとあなたが自分のいないところで対面することや、そのストーカーが『手紙』を持っていたことは、『犯人』にとっては偶然だったのよ。
そして、千春が昨日──あっ今日か──例の『夢』を見なかったことは必然になる。
なぜなら、『犯人』は、計画を立てる余裕も時間も材料もなく、どうしていいかわからず、動くことができなかったのだから。
ストーカーの存在は、『犯人』にとっては完全に誤算だった。その存在を『犯人』が知ったのは、一一月二日に実際にその姿を自分自身が見てから、いえ、その前だったとしても、それは千春の話を聞いてから──なのよ。それで『犯人』はストーカーの存在に初めて気づき、実際に目撃して見せた。
千春が火曜日に早く起きてたら、自分で捜査に赴くつもりだったとしたら──いえ、違うな。
あなたが一一月三日に朝寝坊したのが彼の仕業だとしたら?
睡眠薬とか使ってたとしたら?
そのストーカーは自分を目撃しているかも知れないのよ?
だから重要参考人であることは間違いない。
だからこそあなたに単独では会わせまいとした。会うとしたら、自分がそれに立ち会おうとした。
いや、それ以前に、あなたに会わせる前に、あなたを殺そうとした」
千春はものが言えなくなっていた。雅の仮説に、それなりに説得力があったからだ。
西脇の言葉を思い出す。
『人間が人間を殺すとき、必ずしも、それ相当の切実な、あるいは深刻な理由があるなんて、考えてはいけないんです』
『お互い知り合いでなくても、犯人が個別に知っていれば問題じゃない』
『通りいっぺんの知り合い、という関係でも構わない』
それは確かに、千春と西脇の間でも成り立ち得ることを示している。
一一月三日の午前二時に見た「夢」も、また一一月一日に千春を無理にでも引き留めなかったことも、千春を怖がらせるため必要だったと言われれば、なるほどそうかも知れない。
「これで、西脇氏がどうしてあなたにそんなに親切にしたか、どうして早い段階で犯人を絞り込めたか、無駄足捜査をしないで済んだか、ドアチェーンやドアガードの推理をさらりとできたか──については説明できる。
それに彼にはアリバイがないしね。千春が寝てたから。
だけど……と、なると、動機の点があまりに弱くなりすぎる。
そもそものきっかけだと見られている春日桜と『犯人』の間の関係が不明な段階で、彼を『犯人』と決めつけるのはちょっと強引に過ぎる。
それにまだ、H君が真犯人だという可能性だってもちろんあるし、それ以外の第三者が犯人の可能性だって低くなったわけじゃない。
ただ……『犯人』はまだ目的を遂げていない。それはたぶん確実。
とりあえず今、確定的にあたしが言えることがあるとすれば、それは十分──あなたが警戒を続けていく必要が依然ある、っていうこと。
警察が関わってくれているからと言って、全方位オールクリアと考えるのは、状況から考えてかなり怖い」
雅は、悲しそうな表情を浮かべると、「嫌だからね」と言った。
おそらく、「死んだら」などの言葉が上に乗っかるのだろうが、そんな言葉、口に出すことはできなかったのだろう。
その気持ちは嬉しかった。
が、千春の心はそれどころじゃなくなっていた。
犯人が予期してなかった、私に会わせたくなかった「目撃者・小林亨」──。
彼は、手紙の主を「中肉中背だった」と言っていた。
彼の身長・体重は?
──中肉中背、一七〇cm弱、六〇キロぐらい
職業は?
──フリーター(しかも一人暮らし)
バイクは?
──乗れるし、持っている→構造にも詳しい可能性。ただ、今乗っているのはスクーター。
Y大については?
──OBのため詳しくても不思議はない。学生部棟に関してはむしろ、バンド活動によって出入りしていたらしいため千春よりも詳しい可能性が高い
性格は?
──きれい好き、時間は守る(几帳面?)
爆薬やセキュリティシステムに詳しいか?
──不明だが、マンションのオーナーとして、一定程度詳しくても不思議はない
千春が「泊まりたい」と言ったとき、彼はかなり難色を示した(それは当たり前だろう)が、最終的には快く承諾してくれた──。
雅が言うように、彼が自ら立てた仮説に、ことごとく状況が、沿って来ているような気は確かにする。
何より、千春自身が、一度、西脇を疑ってみたことがあった──。
ただ──。
千春はもう一度よく考えてみようと思った。
雅の推理に欠陥がないかを。
『──四年前の三月、僕、ある事件に巻き込まれたことがあってね……』
彼はそう、言っていた。
少なくとも辻村と島野はその関係者らしいので、そこにウソはないだろう。
春日桜が失踪したのは二年前。
だからその件について関連はない。
とはいえ、断定はできない──か。
全く別件で、ということはあり得る。
(そろそろ、刑部さんが迎えに来てくれる時間──)
さて、どうすべきか。
千春は雅と別れ、待ち合わせ場所の正門に向かった。
雅の推理を聞かされ、精神的にボロボロになった気はした。
が、今回は、混乱はしていなかった。
道中、閃光が千春の頭の中に走った。
千春には、一本の道が、見えた気がした。
そうだ、彼は──。
◆ "Supporter"
刑部大介は、自分の事務所、つまり辻村探偵事務所に向けて車を走らせていた。
早野千春にそう頼まれたからだ。
それもエラく真剣な顔で。
彼女は、大介が何を話しかけてもどこか上の空だった。深刻な表情で、なにがしか真剣に考えている。大介も、しまいには、声をかけることさえできなくなってしまうほどだった。
よく耳を澄ますと、時々、彼女が深く息をしているのが分かる。
何かの病気だろうか?
それとも、何かに怯えていて、心を落ち着かせようとしているのか?
「あの、オレ、そんなに危険人物じゃないですよ?」
冗談めかしてそう言ってはみたが、プラスの効果もマイナスの効果もなかったようだ。彼女はほんの少しだけ大介の方に顔を向けてきもち、笑顔を作ったようだったが、すぐにまた元の表情に戻ってしまった。
(──何なんだよ、いったい)
大介の気持ちに関係なく、車は確実に前へ前へと進んでいた。
「……叔父貴は、多分ウチらが着く頃には、戻ってると思うから」
千春の体が強ばったような気配を、大介は感じた。
◆ 5
「ん? あれ? 早野さん、どうかしたんですか? 西脇さんの家に戻ることになってたんじゃ──おい大介、どういうことだ?」
「私がお願いして、連れて来てもらったんです」
大介が怒られそうな気配を感じて、千春は自分からそう応えた。
「……どうか、なさったのですか?」
エリート銀行員のような風貌の辻村が、少し強ばった口調で言う。
年は四〇は過ぎているだろう。
考えてみると、千春にとっては父親、と言ってもいい年齢である。
母親より少し年下──くらいだろうか?
千春より年上の刑部大介の叔父にあたるのだから、当然のこととも言えるが。
『ある一人の人間のせいで、警察官という職業だけでなく、温かくて平凡な家庭と、安定した生活、という三つのかけがえのないものを失ってしまった。
そう、この、僕の、せいで──』
西脇は昨日の夜、そう言っていた。
「あの……」
千春は胸のドキドキが、車に乗っているときから止まらなかった。
深呼吸をして鼓動を整えようとしたが、どうしても胸の苦しさが収まらなかった。
──それは、今回の事件のすべての鍵を握っているかも知れない、そんな事件──。
「……何か?」
辻村の口調は相変わらず強ばっていたが、それでも努めて、優しい目を向けてくれる。
探偵が楽な仕事とは到底思えないし、今日は手が放せない仕事がやっと片付いたばっかりのはず。なのに、こんな表情を向けられる、というのは、それだけでたぶん、すごい技術だ。
「あの──四年前の三月に起こった事件のことを、教えていただけませんか?」
「…………えっ?」
千春の言葉に、辻村は、僅かだが明らかにうろたえた。
そして何か言い返そうとしたのだが、千春の決意のこもった目に、これはただ事ではなさそうだ──と言葉を飲み込んだようだった。
しばしの沈黙のあと、辻村はこう切り出した。
「……理由を、聴かせてもらえませんか?」
千春は、雅が披露した推理を余すところなく、辻村に話した。
話している最中、なぜだか涙が出そうなって、こらえるのに必死だった。
体は震え、動悸は異常に速さを増しながらも、何とか最後に西脇の『僕の、せいで──』という発言を締めくくりにして、無事、話し終えることができた。
辻村はしばし無言だった。
どれくらい時が経ったのだろう。
辻村が向かい合って座っていた応接用のソファーから立ち上がり、机の方へと移動した。そして、机の上に置いてあったタバコを左手に持ち、ゆっくりとした動作で火を点けた。
白い煙が部屋の中を漂う。
「失礼、タバコはお嫌いですか?」
千春は静かに首を振った。
タバコを吸うことはないし、煙の匂いも好きではなかったが、それを気にするほど気持ちの余裕はなかった。
「……そうですか。西脇さんが、そんなことを」
辻村はそう言うと、じっと天井を見つめていた。
そして一つ溜め息をついたあと、静かに再び、千春の前に座った。
「解りました。本来、警察官、あるいは警察官であった者が、外部に職務上知り得た情報を漏らすことは、守秘義務に違反し罰せられることになるのですが、わたくし個人の判断で、西脇さんの名誉のために、そしてあなたのために、お話しさせて戴きましょう」
丁寧な口調だが、しかし話している最中も、自身の決意を固めているように千春には思えた。その辻村の態度は、千春の予想した以上に、はるかに深刻なものに映った。
「但し、自分には外形的な、客観的な事実と、そしてわたくし自身の印象、感情の動き以外は、お話しする立場にはありません。それで、いいですね?」
千春は小さく頷いた。もう後戻りはできない。
(信じる者は救われる──、か)
いつも、パソコンの壁紙の上で自己主張している、兄、伸一の座右の銘。
千春は自らの判断でここにやって来た。
自分で考えて出した結論に基づいて、今、ここ、辻村探偵事務所にいる。
どういう結果が出ようと、後悔はしない。
そう強く誓って、辻村の言葉を待った。
「……今から四年前の、三月三〇日のことです」
小杉 雅:#3 PTSDは2年以上かけて、未だ完全ではないがかなりの程度克服しており、「深刻な状態」からは脱している。自分の感情をコントロールできるように、動揺しても速やかに持ち直せるように、引き続き訓練を重ねている。努力家だが、そこには「人間不信」の影がある。




