第五章 一一月〇二日(月)#3
◆ Chiharu's View #5
午後一時を回っていたので、学食はまあまあ空いていた。
思い返してみたら、男の子と一緒に学食で食事をするのは、随分久しぶりだった。
七つも上の西脇さんに「男の子」という言葉を使うのは本当は不適当なのだが、彼の童顔を見ていると、そんなに年が違わない気がどうしてもしてしまう。
しかも、男性と一対一となると、記憶にある限りで「初体験」である。
もちろん、学食以外になら過去にもあったが、学食では正真正銘、初めてだ。
彼の方は違うんだろうな──そう、彼、西脇英俊さんは、この大学のOBなのである。
そういえば近頃「初体験」づくしだ。
二人で一緒のベッドにちゃんと朝まで眠ったのも初めてだったし(しかも相手は、今をときめく現役女子高生キャー……って、アホらし)、学部長室なるものに入るのも、理学部の建物に入ったのも、自分が襲われる「夢」を見たのも、盗聴器を仕掛けられたのも、警察を呼んだのも……!!
そうだ。
あの盗聴器、犯人は捕まったのだろうか?
得体の知れない「殺人事件」の発生が、現実以外の何物でもない出来事を、記憶の隅に追いやってしまっていた。それに、刑事たちの方からも何も言って来ない。少なくとも、この間は何も言われなかった。ということは、報告すべきことが何もなかった、ということなのだろうが、今度水林刑事に会ったら訊かねばなるまい。
「どうしました?」
学食のカツカレーを食べながら、西脇さんが私に問いかけてきた。
彼はカレーに初めに口をつけたときには、やっぱり学食はマズイなあとか言っていたのに、どう見ても美味しそうに食べている。
そのことを追及してみようかな? といたずら心が私の中に沸き上がる。
「さっきはマズイとか言ってたのに。とてもそうは見えませんね?」
さあ、言ってやったぞ。
「何でも美味しそうに食べなさいって、昔言われたことない? ちなみに僕はないんだけどね。
一人暮らしだと、カレーを作るのも一苦労、カツを作るのも一苦労、でしょう? その両方をいっぺんに食べるなんて、今の僕からすれば至高の贅沢だよ。そんなふうに考えたことって、ない?」
確かに、カツを作ってカレーを作ってじゃ、手間がかかり過ぎらあね。しかも一人分ときた日にゃ、やってられへんわ──。
……私は一体、どこの人?
「レトルトとか冷凍もののカレーとかあるじゃないですか。あとデキアイのカツだって売ってるし」
「ああいうのは食べ尽くしたよ。小、中、高校とね。ずっと一人暮らしだったから。
大学に入ってからは少し時間もできたし、自分に技術力もついてきたし、その他諸々の事情もあって自分でできるだけ作るようにはしたんだけど。
ここのカレーは、少なくともレトルトじゃなくて、一応ちゃんと煮込んで作ってはあるもんだからね。なんか、惹かれるものがあるっていうかさ」
もう少し美味しくできると思うんだけどなぁ、と彼は残念そうに苦笑しながら、でもばくばく食べて──。
って、ええっ!?
ありゃりゃ、それって私よりすごい。
私が一人暮らしを始めたのは中三のとき。諸般の事情により、だったけど、さすがに最初はつらかったよ。
特に『独り』のときは、「つらい」と一度思っちゃうと──ね。
西脇さんには、『パートナー』なんて、いなかったのかしら、なんて。
……いつまでもこんな浮ついた話ばっかりしてちゃだめだ。
西脇さんに話を聴いてもらおう。
文句を言われるのは覚悟の上だ。
私は、昨日の午前二時半頃に見た、「今までと違った感じの『夢』」の話を告げた。
そしてもう一つ。
ずっとどこかで引っ掛かってるような感じだったこと。
それはドアチェーンのこと。
それも懸命に話にねじ込んで、何とか話の終わりに付け加えることに成功した。
西脇さんは、いきなり私から出て来た事実を突き付けられて、さすがに戸惑っているようだった。
でもだって、「今までと違った感じの『夢』」については悪いとは思ってたんだけど言えなかっただけだし(十分おまえ=私が悪い!)、ドアチェーンについても今思いついたばっかで──(これは本当)。
思わず自問自答──じゃないな、一人会話というヤツをしてしまった。
普段はこんなヤツじゃないんだけど。
もちろん頭の中でよ? 念のため。
「もう一回、落ち着いたところで検討してみましょう。ここじゃ何だかんだ言ってうるさいでしょう?」
……この人って、本気で怒ったりすること、あるのだろうか?
そう思うほど、なんだか万事においてどこか余裕がある。
パニックになりそうなときでも、どっか冷静な感じ。
結構私とおんなじように「屈折した人生」を、「幸薄い人生」を送ってきたはずなのに。
そういえば、もう一つ思い出した。今度は私に非があることじゃない。しかも、重い話題でもない。
そう、「クイズ」のことだ。
ソレは、「どのような自然災害が起ころうとも、決して決壊することのない防波堤」であり、
かつ「それを見る角度、あるいは視点によって、全く違う効果をもたらす強大な力」でもあり、
そして「巨万の富をもたらし、そして破滅にも導く、あやかしの宝石」でもあって、
そしてそれは「空気のようにいつでも私たちの周りにあり、しかしそれが突然この世から消えてなくなったとして、誰もその瞬間に害を被ることはない」という。
この四つを一度に成り立たせるモノ。
いったい何だろう?
「どうしたの? 急に黙っちゃって」
「え? い、いえ」
思わずしどろもどろになってしまったが、落ち着いて落ち着いて。
「あの~、『クイズ』のことなんですけど……」
「クイズ?」
「あ、あの、昨日──一昨日の晩に、美月ちゃんと話してた」
「美月ちゃんと? ……ああっ! あれのこと? ってああ、そういえば訊いてないんだっけ。あれは……」
「ストップ。問題は聴いたんですよ、問題は。答えはまだですけど」
「フフフ。あれって、本来は早野さんのために出すべき問題だったんだけどねえ、実は」
「え? そうなんですか?」
「そうだよ」
その割には、私には直接言わなかったじゃない。
「美月ちゃんおしゃべり大好きだから、もう全部知ってるのかと思ってたよ。で、答え分かった?」
そうあっさり返されると、返す言葉がない。
「……『ウラン』とか」
不意に思いつきを口にした私に、西脇さんはかなり驚いたようだった。
アレなら、見方によってはいろんな用途がある。
冷戦のときは「抑止力」として「核」が存在していた。これが「防波堤」。
「武器」としてみれば、それはもちろん「原子爆弾」つまり「核ミサイル」。
しかし、「発電エネルギー」としてみれば、「エネルギー効率の良い燃料」ということになる。
それにウラン鉱は希少な資源だ。「石油王」ほどでないにしても、その供給先が潤うことだってあるかも知れない。
ひょっとしたら、当たり!?
「へえ、驚いたね。いいセンいってるかも。模範解答の一つになるかもね。
でも、それだと『第四の条件』が宙に浮くよね。第一『ウラン』なんて、常に誰の周りにもあるってものじゃない。っていうか、誰の周りにも基本的にない。アレが空気のようにいつでも周りにあったら、人類は絶滅してるか、何か別なモノに変異してるでしょう」
「…………。じゃあ、『電気』だ! そうですよね!?」
ウランから逆算的に出てきた答えだが、これなら常に人の周りにあるものだ。
「電気の供給が絶たれたら、それこそ大勢の人が気づくし、その瞬間に害を被る人は少なくないでしょう? 一般人のプライベートな時間中のことなら、その瞬間は一時的な停電程度かも知れないけど、世の中数多ある業種の中には、直ちに損害に繋がるような業種もある。残念だけどダメだね」
そんな、常に人の周りにあるものって言えば、あとは空気中の成分ぐらいしかないじゃないか。
「じゃあ、『水』……ですか?」
「確かに、それを目に見える『水溜まり』や『空気中の水分』と解釈するなら、ある程度は条件に沿うね。
でも、『水』は何の防波堤になるのい? 火事?
例えその『防波堤』=『池は燃えない』とかいう論理が成り立つのだとしても、やっぱりそもそも、人間の体の七〇パーセントは『水』だ。
『水』がなければ、人はたちどころに崩壊する」
でも、なかなかの推理力だなあ、面白いよ──と、西脇さんは笑う。
……ちょっと悔しい。
「なるほど、『ウラン』ねえ。『水』っていうのもいいね。そういう考え方もできるんだな」
「……違うんですよね?」
「一応、『模範解答は』ね」
模範解答──。
すると、答えは一つではないのかも知れないが、少なくともそのうちの一つは彼の頭の中にある、ということだ。
「まさか、『性』──『男性・女性』の『性』なんてことは、ないですよね? かなり比喩的になりますけど、これなら概念的な発想になるから、解釈としては成り立つんじゃないかな?
どんな災害があっても、『性』の概念は人間の──いえ、生物そのものの存在の最も根元的なもの。これが『防波堤』的な効果を示す部分は多々ある、そう考えてもいいような気がしますが、違います?
それに、見方、用い方で一例を挙げれば、言論の場なんかでは強力な武器にもなり得ますし、歴史的に考えて、肉体的な価値の面から見たときに、強大な財や権力と結びついたり、破滅に結びついたりすることもあります。
あ、なんかいい感じかも。
そして、仮に『性』の概念が突然になくなったとして、『その人』『その人』は、やっぱりそこにいるんです。それがなくなったその瞬間に、一般的に害を生じることは、普通の状態では、ないと思いますけど」
……普通じゃない状態を想像して、少し顔が火照ってしまう私。
──って、欲求不満かよ!?
「おそれ入るなあ。見事だね」
あれ? 今度こそ正解!?
「うーん……。
まあ、『性』みたいな概念まで持って来られちゃ、たぶんそれも正解なんだろうね。
もっとも僕的には、ちょっとその『防波堤』論は弱いような気がするけど。
でも頭の回転速いなぁ。すごいよ早野さんは」
そうしみじみと言ってくれて、ちょっと照れた。
「僕の用意してた模範解答はね、『インフォメーション』、つまり『情報』だよ。
美月ちゃんは、『隕石』とか、『宇宙人のミイラ』とか『UFOの残骸』とか、超常現象の方向ばっかりだったのになあ」
情報?
なるほど『情報』か。
……それにしても、「宇宙人のミイラ」はないだろうに。
「『情報』は、『概念』と呼ぶべきものではないけど、それに近いところはあるね。その存在の形態は一見様々だし。
一見するとそれを記録した『メディア』であるように考えがちだけど、実際はそうじゃない。『メディア』が消失することはあっても、『情報』そのものが消失することはないんだ。
どんな災害でも、『情報』によって守られているものがあるとすれば、そのもの自体が崩壊することがあっても、防波堤たる情報が崩壊することはない。防波堤は一見、その役目を果たさなかったように見えるかも知れないけど、それは防波堤の使命外のことであって、防波堤には何の責任もない。防波堤は、防波堤として正しく機能している。その防波堤を上手く使えるかどうかは人間次第だ。
また、現代の戦争はすべて『情報戦』と言われるほど、『情報』は最重要なテーマだ。一つの『情報』で、犠牲が〇にも万にもなったりするし、勝敗に直結することだってある。
国際世論だって『情報』次第でどうにでもなるし。
戦争だけじゃなく、経済活動においてもそれは全く同じで、『情報』をどれだけ素早く送受信できるかどうかによって、その人の一生や会社の業績は、大きく変動する可能性を持つ。
現代はそんな世の中だよね。
インサイダー取引なんかを規制する法律があるのは、他人が知り得ない『情報』を持っている人が、それを利用して不当に利益を得ることを禁止しているからに他ならない──って、まあ、こんなことは些細なことだけど。でもまあ、富みに直結する可能性があることは明白だ。
そして、人のあらゆる活動に関して発生してしまうのが『情報』だ、と解釈すると成り立たない論理だけど、第一から第三の条件をふまえた意味での『情報』だと考えるとしっくりくるのが、『第四の条件』だ。
『情報』っていうのは、イレギュラーであればあるほど価値の高いものになりうる。
でもイレギュラーであればあるほど、それは、その『情報』が存在しているのかどうかを曖昧にする。つまり、『情報』が目の前から不当に消えてなくなったとしても、その人に与える『不利益』は、その瞬間には発生し得ないことになる。
だって、その人はその『情報』を得なかったのだから。
知らなかったことに関しては、不利益は生じ得ない。
それを知らなかったことを知った時点で、自分がそれを活かす機会を得ることができなかったことにより、何らかの不利益を被ったことを確実に証明できるような場面が訪れたとき初めて、その人は結果として自分が害を被ったことを認識できるのであって、『情報』が目の前から消え失せたその時点においてどうこう、という評価は、本質的にできるはずがないことである、というわけなんだ。
まあ、長々となっちゃったけど、とどのつまりは──」
……なるほど。
私に向けて出すはずの問題だったということは理解できた。
「……今回の事件は、もっと多面的に見つめてもいいはずだ、ってこと──ですね?
同じ事象でも、見方によっていろんな性格があるんだって。
だから、警察がやる客観的な捜査と、私たちの『非現実的』捜査と、二通りあっていいはずだ──でしょう?」
「…………そう」
手の込んだ話よねえ、まったく。
うふふふっ──。
「でも、それだけじゃないぜ。
『情報』ってのは、受け手によって価値が変わるんだ。
投資家や企業家にとっては一生を左右するような『情報』でも、地道に農業だけに精を出してる農家のおじさんにとっては、肥料がキロあたり二銭安くなった、って情報の方が遙かに価値があったりする。
例えば、人心を離れさせるための謀略として流した情報が、受け手が無能だったために『賞賛』の意味に変わって、逆効果になってしまうことだって、あり得ないことじゃない。
貴重な『情報』が、似たような情報に紛れてしまって、使えなくなってしまうことだってある。
『情報』は正しい方法で解釈し、また、正しいものを取捨選択して初めて威力を発揮するものなんだ。
僕が言いたかったのは、そこまで含んでのことさ」
西脇さんの顔がちょっぴり赤い。
ちょっとムキになるとこなんて、なんだかかわいいじゃない♪
長谷政子:国立Y大学の法学部教授。現在は学部長。専門は家族法(民法)。温厚な性格で学生好き。杓子定規ではない昔気質の人物。
夫婦別姓や非嫡出子の問題については革新的な考え方を持つが、歴史を踏まえた議論を常に前提としており、仮に改革を為した場合にどういうことが起こるかなども研究の対象としていて、マイナス面も軽視しない。ゆえに運動論の先頭に立ったりはせず、粛々と、理論でもって意見を支える立場である。政府の審議会等でも呼ばれることがあるが、「御用学者」と言われるほど役所寄りでも裁判所寄りでもない。誠実な人柄がそれをさせている。学部長にも推薦があったため義務感から就任しただけで、それ以上の意図はない。




