第五章 一一月〇二日(月)#2
◆ 2
宮腰の教授室は、人文学部棟の四階の東側の端から二番目の部屋だった。
「今日は宮腰教授、そもそも来てる日なのかなあ」
西脇が独り言のように言った。確かにそれは確認してから行った方がいいだろう。
人文学部の事務局で、西脇が職員に訊ねている。
その間、なんとなく隣の法学部の事務局の方に視線をやると、小杉雅のことを思い出した。
あのあと彼女は大丈夫だっただろうか?
電話をしようと思いながら、すっかり失念していた。
我がことながら、よくそれで親友だなんて言えたものだ。情けない。
「え? それ、本当ですか? そんな……」
西脇の動揺した声が聞こえてきたので、急いでそちらに目を向けると、彼の方も千春の方を振り返っていた。
「どうしたんですか? 何か、あったんですか?」
事務局を出て、西脇の答えを待つ。
思案していたらしい西脇は、しばらくして、ようやく口を開いた。
「宮腰教授、夏休み後一度も、大学に出て来てないんだってさ。通常なら、月曜日と木曜日の両日、つまり今日も来てるはずらしいんだけど、一〇月の初めに『一か月休講にする』って、電話が入ったっきり連絡が取れないらしい」
そんないい加減な──。
千春は腹が立つ、というより呆れてしまった。
そんなことで国費から給料をもらってるなんて、詐欺と同じではないか。
しかも、その給料には税金だけでなく千春たち学生の学費も入っているはずだ。
千春にとっては税金も学費も文字通り『血税』に等しい。
それがこんなふうに使われているのだと思うと──。
「宮腰教授のゼミの関係者を教えてもらおう」
西脇はそう言って再び事務局へと戻ったが、すぐに戻って来た。その態度から、教えてもらえなかったことが読み取れた。
「学生のプライバシーに関することは一切教えられないってさ。宮腰教授の住所も電話番号もダメだそうだ。今は助手もいないみたいだし──まったく頭が固いぜってまあ、公の機関としちゃ、しょうがないんだろうけど。
早野さんの知り合いで、その平川って奴の他に、このゼミに入っている人って、いないの?」
千春が小さくかぶりを振ると、西脇は天井を見上げ、やっぱりあの手を使うか。それしかないかなあ──と言って、法学部棟の方へ歩きだした。千春が慌ててそれについて行く。
「あ、あのっ、『あの手』って何ですか?」
西脇はこちらを振り返って、ああ、ごめんごめん、と言ってから説明した。
「法学部の教授に頼むんだ。法学部の今の学部長、僕が三、四年のときお世話になったゼミの先生なんだ。正真正銘の師弟関係ってヤツかな、言ってみれば。あの人なら何とか──でも無理かなあ、やっぱり」
自信の無さそうな口ぶりだが、態度はもっと自信が無さそうだった。期待しないでね、と千春にダメを押す。千春もそれを聞いて、更に次の手を考えようと、しばし思考モードに入った。
しばらく歩いて行くと『法学部長室』と書かれた部屋に行き当たった。
ドア自体は他の部屋と何ら変わらない作りなのだが、その肩書のせいなのか、重厚な扉に見えて来るのが不思議だ。「人間は理知的な生き物である」というが、まさしく、視覚と聴覚で得た『法学部長室』という情報を元に、自らの思考力によって触覚や嗅覚にも微妙な変化を与え、回りに漂う空気を重いものだと感じさせているらしいことを、千春は実感するに到っていた。
「法学部長って、今日は出勤して来てる日なんでしょうか?」
千春にしてみれば、なんとなく納得のいかない教授たちの勤務実態。
教授たちは、えてして『安月給』というが、高い給料をもらって週二回の勤務でも許されるという(少なくとも、宮腰教授はそうだ)、千春の感覚では信じられない、それこそ千春の中での基準では理解できない世界の話なのだ(*筆者注:地方の国立大学の教授の『給料』は、実際にイメージほど高くない。都心の大規模私学の一流の教授の半額以下の場合もある。ただし、著書の印税や原稿料、講演料などの副収入があるのが普通で、合わせるとそれなりの額になる)。
そんな中で『学部長』といえば、きっともらっている給料も多いだろう。
それで、またしても週二回出勤とかだったとしたら──。
「確か、学部長ってのは原則として毎日、少なくともウイークデーは大学に来てるはずだよ。行政系の諮問機関の会議に出てるとか、学会に出てるとかでなければ。
まあ、いても会ってくださるとは限らないけどね」
そう聞いて、少しホッとした千春であったが、この訪問のあとでそのことを西脇に話したところ、怒られてしまった。いや、「怒られた」、というより、「諭された」という方が正しい。「教授たちには、大学に出ること以外に、研究したり、講演したり、本を書いたり、行政の審議会に出たりする、社会的に有益な活動をしなければならないという責任があるんだから」と(*著者注:ちなみに、行政機関の審議会の報酬額は二時間で数千円のレベル。事前準備が必要な場合もあるので、その場合には時給換算すると更に下がり、学生バイト以下になることも。本人的には社会的ステータスと、権限のある機関に対する発言権、政策の実現への関与や、他の仕事に繋がるなどの旨みもあるが、名前や研究実績を機関側にいいように使われてしまう面もある)。
千春は、自分が異常に了見の狭い人間であることに気づかされたように感じた。
その最たるものは「だって、そんな活動が『社会的に有用』かどうかなんて、ちっとも分からないじゃないですか」という反論がすぐ頭に浮かんで来てしまったことだ。
でも、それは千春一人が決める筋合いのことではない。
世の中、自分の価値観がすべてではない。
自分が一番偉いワケでもなんでもないのだから。
そろそろ、そんなお子様みたいな『独りよがりの基準』を見直す時期が来ている。
そのことを、痛切に感じずにはいられなかった。
今まで、何でも、自分一人でやってきたような気になっていた。
自分は大人だ、と思ってきた。
自分は一人で生きている、そう思ってきた。
そんな思いを、根本的に改めるときが──。
法学部長である長谷政子教授は、千春たちの訪問を歓迎してくれた。特に、西脇の顔を見るや「久しぶりね、元気、だった?」と気さくに話しかけて来た。思わず、昔の恋人と何年かぶりに出会ったかのような、そんな雰囲気を、千春は二人の態度に感じてしまうほどだった。
千春が自己紹介すると、長谷教授は「あら残念。人文の学生さんなの。ふふふ、ごめんなさいね。わたしが学部長になってからもう七か月経つんだけど、この部屋には、まだ一人も学部生が訪ねて来なくて、ちょっと寂しい気分だったものだから」と笑った。
やはり教授の立場からすると、学生に訪ねて来てほしいと思うものなのだろう。
日本の大学では、諸外国に比べ、教授に質問に来る学生は驚くほど少ないという。千春もそんな「質問に行かない普通の学生」の一人だ。
もっとも、学部長室と教授室は別にあるので、ここに来ていないから学生と接していないということではないのだろう。
それにしても、「学部長」が女性とは意外だった。
もう、五〇の声を聞いて久しいのだろうが、何だか憧れる。
西脇が大ざっぱにワケを話すと、長谷教授はため息をついてからこう言った。
「宮腰さんねえ。彼とは、飲みに行ったことも何回かはあるんだけど……。
あの方は、大学に長期に来ないときは、だいたい海外に研究に行ってるのよねえ。しかも行き先を誰にも告げないで行くことがほんとんどで、人文学部だけじゃなくて、大学全体でも問題になって来てるのよ。今も連絡取れないし。
あら、しゃべりすぎかな? オフレコでお願いね?」
微笑みながら、語りかけるように話を続ける。
「彼はねえ、研究の亡者みたいな人。さすがに何年か前みたいに年間通して海外ってことはなくなったみたいだけど、毎年夏休みと春休みの大半、一年のうち三、四か月は海外暮らしみたい。それも研究のため。バカンスのためじゃない。研究が趣味と言う研究者は多いけれど、ホントあそこまでくると、同じ研究者として頭の下がる思いだわ」
一年の内、三、四か月も?
費用とかはどうしてうるのだろうか? まさか国費?
そのことを言うと、長谷教授は「彼の場合は、ほとんど自費なの。だからウチの大学も、あまり強く言えないのよね」と苦笑した。
「でも、それじゃ、結構──苦しいんでは?」
西脇の質問に、長谷教授は苦笑いを浮かべる。
「そうでもないらしいの、彼の場合は。詳しいことは畑が違うからね、知らないのだけれど、彼は学会では相当な異端らしいのよ。それもかなり有名な、ね。
でも彼は、その異端さゆえに、独自の研究を重ねていくいことができた。
もともと彼はT大にいたんだけど、T大を追い出されるぐらいに目立った人だったみたいだから、逆にそれだけの力もあったらしい。異端ゆえにもちろん主流派ではないけれど、だからこそ逆に目立つってこともあるのね、学会って。
だから国内外に意外に支持者が多くて、著書数も、ウチ大学の教授の中では一番じゃないかしら? それも小難しい本から解りやすい新書版まで。論文と名のつくものも、難易度はピンからキリまで、いろいろって話よ。
文系の学者って、研究者にしか解らないような難解な文章を書くことがステータスになっているところがあって、そういう文章しか書けない人っていうのも少なからずいるんだけど、彼は、その両方を卒なくこなすことができる人なの。これは学者としては、大変秀でた能力だわ。より多くの人に、自分の説をアピールする方法を持っている、ってことだから。これからは、多くの学者は、彼のようなやり方を学んでいかないといけないわね。
でもまあだから、世間ウケがよかった、っていうのも、一つの理由でしょうね。そのぐらいの人だから、援助だとか、印税だとか、講演料だとかで結構あったかいはずなのよ。
それに、海外へ行くって言っても、行った先はまだあまり拓かれてないところばかりで、しかもほとんど現地人と同化した生活をしてるって言ってたし。アメリカやヨーロッパで暮らすのとはだいぶ違うわ。
あ、これは本人から聞いたことよ」
知的な笑みを浮かべながら饒舌にしゃべる長谷教授の顔が、なんだか生き生きしている。人と話すのが好きで、それ以上に学生が好き、という感じだ。
そう感じるのは、彼女が西脇ではなく、主に千春の方を見てしゃべっているからで、最初に感じたのは、もはや邪推でしかなかったな、と確信を持った。
「それに、宮腰さんは奥さんを亡くされて、息子さんも独立されてるし、経済的には何の問題もないはずよ。彼が財テクに走って大損しているとはとても思えないし」
「……息子さん、っていうのは?」
「ごめんなさい。詳しいことは知らないわ。私もそんなに、宮腰さんと親しいわけではないから。でもどこかの大学の助教授(*著者注:一九九八年当時はこの呼称)らしいってことは風のうわさで聞いてる。もっとも、彼とは少し、畑違いの分野らしいけどね」
宮腰については、それ以上の情報は聞けなかった。
平川については、言うまでもない。
しばしの問答のあと、西脇が畏まった態度で、井川恵について訊ねた。
さすがの長谷教授も、この質問に対しては、改まった態度になった。
「土曜日の午前中に報告を受けたわ。まあ、学内での事件だから、警察にできる限り協力するってことにはなっているけど、わたしたちY大学の教授、しかも法学部の教授としては、警察による必要以上の介入は防ぐ必要があります。
特に、学生や講師、助手、職員、助教授、教授まで、様々な人たちの人権を守る必要があります。警察の捜査を妨害する気はありませんが、向こうとしてもやりにくいんじゃないですか? 刑事訴訟法担当の羽村さんや、非常勤講師の鮫島先生(弁護士)も張り切ってるみたいだし。
もちろんわたしも、法学部長として、毅然とした態度をとるつもりですけどね」
こういうときに頼られるように振る舞えないと、法学部としては立つ瀬がないのよ──と長谷教授は苦笑した。
千春も、大学には自治権がある、とは聞いたことがあったが、千春は、それを「学生による自治」だと思っていた。しかし、あとで西脇に聞いてみたらたら、実は「大学の自治」とは、「研究と教授(教え授けること)の自由に基づく自治」のことなのだと教えられた。何だ──と少し拍子抜けしてしまったが、ある意味それはもっともな話である。
西脇が、千春の置かれた事情を細かく長谷教授に話し、千春たちが「捜査」活動をスムーズに行えるように便宜をはかってほしい、と頼み込んだ。千春には到底、この申し出が受け入れられるとは思えなかったのだが、案に相違して、彼女は肯定的な答えをくれた。
「じゃあ、わたしの方から事務局の方には、できる限りあなたたちに協力してくれるように言っておきます。もちろん、バレたら問題になりかねませんが。
そうね、今度事務局を訪ねるときは、法学部の──そうね、伊藤さんに協力してもらいなさい。彼女なら、多分大丈夫だと思うから。
そうそう、あなたたち、そろそろ食事でもして来たら? もういい時間だし。特に西脇クン、あなた、学食に入る機会なんて、何年かぶりでしょう?」
長谷教授は微笑みながらそう言うと、さりげなく千春たちに退室を促した。
これが彼女のできる、精一杯の協力であることが、千春にも理解できた。
「ありがとうございました」
西脇がそう言って頭を下げるのに続いて、千春も深々と頭を下げた。
「うふふ、かわいい学生のため、それとかわいい教え子のためですものね。
西脇クン、また、一息つけたら会いに来てね? 特に忙しくなければ、いつでもお相手するわ。早野さんも学部が違うからって遠慮することありませんよ? じゃんじゃん、遊びに来てくださいね」
改めて礼を述べ退室したときには、時刻はいつの間にか一三時一〇分前になっていた。
千春は三、四時限目に授業があることはあったが、もはやそれに出る気は完全に消滅していた。
そして、「オカルト研究会に昼休み聴き込みに行く」時間も、消滅していた。
宮腰俊一郎:国立Y大学の人文学部教授。文化人類学者・社会学者。研究には極めて熱心で、現地調査も多数行うなど精力的に活動しているが、他方で、担当する授業コマ数が少なすぎること、指導を担当する学生も少ないこと、授業のすっぽかしなどの学内の身勝手な行動に止まらず、研究のオカルト方面への傾斜などが目立つようになり、様々な問題を生じて学内でも学会でも問題となっている。特に大学は、名物教授ではあったがクビ寸前の状況である。
オカルト系の著作が硬軟様々多数あり、稼いではいる模様。




