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5億km²の牢獄  作者: Wolke
9/19

09:離別

 セーフハウスに帰った愛莉をまず出迎えたのは、ちょっとした喧騒だった。セーフハウスと言っても一戸建ての家屋ではなく、建物自体はマンションになる。階数は五階まで決して大きいわけではないが、宿神憑きの人間たちが使用している専用の物件だ。


 住人が割りと好き勝手に内部構造を弄るため、呪的防御は政府機関に備えられた結界を遥かに凌駕し、見た目よりも内側の空間は広い、という混沌具合を醸し出している。


 現在は有事のために宿舎内に残っている人員は少ないが、それ故に騒いでいる人間を特定するのは容易だった。


 紅谷弥生。それも、一人ではないようだ。


 珍しい。と、素直に愛莉はそう思った。彼女は極度の無精者であり、食い気や色気を圧倒的に凌駕して、眠気だけで構成されているような少女だ。身体の中身を砂糖とスパイスに総取っ替えした方が、まだ少女然としている可能性がある。


 そんな彼女が睡眠時間を削ってきゃらきゃらと笑い声を上げている。余程機嫌が良いのだと察せられた。


 二階部分には食堂などの共用スペースが作られており、賑やかな声はそちらから聞こえてくる。


 玄関ロビーを通り抜けた愛莉は、自室ではなく食堂へ向かうため、階段へと足掛けた。踏み越える段数に比例して、彼女たちの声が大きくなる。階段を上りきった右手側にガラスで作られたドアがひっそりと存在を主張していた。


 その奥。


 食堂に割り当てられた空間は広く、四人掛けの四角いテーブルが八つ、規則的に並んでいる。その中央に位置する座席に、紅谷弥生と天笠征悟が向かい合って座っていた。


 弥生は片側の肩を晒すようにオフショルダーのワンピースを着崩して、本人も机の上に崩れ落ちたような格好をしている。テーブルの反対側を掴むように右手を伸ばし、その腕を、頭を乗せる枕としていた。


 彼女の緩慢な仕草からか、テーブルにへばりつく蝸牛を幻視した。日頃の行動から連想した言葉だが、およそ年頃の少女を比喩するのに不適切な単語だと、すぐに愛莉は自身の感想を撤回する。理由としては、対面に座る少年を見る表情はあどけなく笑っていたからだ。どうやら相当機嫌が良いらしく、弥生の整った顔立ちが魅惑的に輝いている。


 対して弥生に付き合っている白髪の少年は、椅子の背もたれに左肘を乗せて寄り掛かっていた。弥生に身体の側面を見せ、胴を僅かに捻っている姿勢だ。彼は出入り口に背面を向けているため、愛莉が表情を窺い知ることは出来ないが、楽しげな声音が聞こえてくる。


 双方共に、初対面だからと物怖じする性格だとは到底思えない。天笠征悟に関しては細かな嗜好まで把握しているわけではないが、少なくとも、紅谷弥生の価値観はかなり癖のあるものだ。人が学校に行って帰ってくるまでの時間であそこまで意気投合できるものなのだろうか。


 紅谷弥生はまず何をしてサボるかを夢想する。大抵の場合は睡眠欲求が勝つわけだが、それを実現させるために如何にして手早く仕事を片付けるかを考える。彼女の本質は怠惰と断言してもいい。


 天笠征悟にアクティブなイメージを抱いていた所為か、二人の馬が合っている状況が、愛莉の目には些か意外に映っていた。


 ガラス戸を開いて食堂へ侵入する。扉が開閉する音に征悟は振り返り、弥生はこちらへのんびりと視線を寄越した。


「おー。遅かったなー愛莉ー」


 いつも通りの間延びした、ゆったりとしたテンポの口調。右手首から先が揺れているのは愛莉に手を振っているのか、ただ手持ちぶさたなだけなのか判断が付かない。


「ただいま」


 と、声を掛けつつ、愛莉は二人が座る席へ近寄る。最も手近な椅子、征悟の隣の椅子を掴み、引く。そしてそのまま愛莉は空席へと腰を下ろした。天笠征悟は隣に愛莉が座るつもりなのだと察したときには、すでに身体を正面へ向けて真っ当な体勢に移行していた。


 愛莉は少年の顔を一瞥し、弥生へと視線を移す。


「珍しいわね。弥生がオフの時間に起きてるなんて」


 身も蓋もない愛莉の問いかけに、弥生は笑って返事をする。


「そーなー。あたしでもそう思う。でも、今日は気分が良いんだ」


「なんでまた」


「コイツ超有能。いや、マジで使える」


 そう言って、弥生はダレた体勢のまま征悟のことを指差した。指された本人は不服そうに弥生の笑みを受け止める。


「人を便利屋か何かだと勘違いすんなよ。ウチの放蕩妹を取っ捕まえ次第こっちは消える心算だから、真面目に戦力として数えてたとしても後で泣くのはそっちだぞ。それに、荷物運びなんて連日やってられるかよ」


「失礼なヤツだなー。重くないだろー。あたしを運ぶのを重労働みたいに言うのはやめろよなー。大体、影沼徹を捕まえる作戦には、お前の方から一枚噛んで来そうじゃないか」


「ん? まあ、そりゃあなあ。小ヤハウェの討伐なんて、如何にも面白そうじゃないか」


 会話の流れから、弥生が征悟の能力を認めるいざこざがあったことを愛莉は察した。昨晩の時点でも征悟が高いスペックを有していることは理解していたが、弥生は改めて彼の実力を測る機会に行き会ったのだろう。


 二人の服装は朝別れたときと何一つ変わっていない。汚れ一つ見受けることは出来ないことから、特筆するような大事ではなかったのだろう。しかし、紅谷弥生がまともな人付き合いをする程上機嫌なら、それなりに劇的な出来事ではあった筈。


 色々と想像たくましくしてみるものの、流石に詳しい内容までは本人たちに直接訊かなければ分かりそうになかった。


 征悟が最後に言った軽口に少々煩悶とした感情を抱きながら、愛莉は二人に問い掛ける。


「私が学校に行っている間に何かあったみたいだけど、問題でも起こったの?」


「うん。コイツが元ショゴス=トゥシャの深きものを見つけてくれてなー。連中を血祭りに上げてたんだ」


 禅の字や愛莉みたいなストッパーが居なかったら、かなり楽ができて楽しかったよ。と、アミューズメントパークから帰ってきた子供のように、弥生は口調を弾ませながら喋った。


「待って。色々と待って」


 予想の斜め上どころかZ軸方向に位相がずれた返答を聞かされて、愛莉は彼女の言葉を飲み込むのに相応の時間を要した。


 ショゴス=トゥシャというのは、昨晩現れた神話生物ショゴスを操る魔術師である。操るためにはマプローと呼ばれるアーティファクトを必要とし、真っ当な人間が用いた場合、五分と待たず発狂する。紅谷弥生のような熟練の魔術師であったとしても、精神汚染は免れず、巡り合わせが悪ければ命令を与える前に死ぬ可能性もゼロではない。


 昨晩のショゴスと関連性があることは間違いないだろう。だが、弥生が口にしたのは『元』という引っ掛かる物言いだ。加えて、歯止め役が居ない状態で彼女が好き勝手に行動したとなれば――


「ごめん。全然想像できないんだけど、簡潔に言って弥生は何をしたの?」


「面倒くさかったから深きものどもが潜んでたビルを塵にした」


「バカかッ!!」


 成果と被害がまるで釣り合っていない報告に思わず愛莉は声を荒らげた。彼女の能力ならもっと内々に処理できた筈なのに、そんな目立つことをしては方々からいらぬ注目を集めてしまう。何より、神話生物の下等種族よりも〈事務局〉に所属する魔術師の方が危険だと世間に判断されるのは、かなり不味い。


「まあ、落ち着けって。気持ちは分かるし、現場に居合わせた俺も正直絶句したけどさ、連中の巣窟になってたビルなんて遅かれ早かれ更地にされる運命だろ」


 愛莉は予想を遥かに上回る惨状に我を忘れそうになっていた。そんな彼女を天笠征悟が窘める。


「こんな街中に密会場を作られた時点でバッシングは避けられないんだし、ビルを倒壊させる程の力を持つ神話生物を被害者が出る前に仕留めたと印象操作すれば、そこまで風当たりも強くはならないだろ」


「おー。上手い言い訳を考えるじゃないか。服を汚したくないという理由で、逃げる深きものに瓦礫を投げては、魚肉ハンバーグを精製してした人間のくせに」


 戯けるように弥生が言った。


「ま、あたしらの襲撃で民間人に被害が出たわけじゃない。連中が根城にしている時点で初めから人払いは完璧だった。だから、ビルが倒壊する瞬間を目撃した一般人なんて居ないんだよ。禅の字にも早々に報告したし、隠蔽は万全。それに収穫だってあったんだからなー」


「収穫? ……ああ。初めに言った『元』ショゴス=トゥシャってやつ?」


「そうそう。連中、ショゴスを操れることがアドバンテージだってのに、肝心のマプローを人間に奪われてやがったんだ。傑作だろー? それで、マプローを取り返すためにわざわざ陸に上がってこんなところにまで侵攻してきたらしい」


 その結末として暇を持て余した魔術師に戯れで殺されるのだから、なんとも哀れな存在である。しかし、それでは一つの気懸かりが生じてしまう。


「昨晩のショゴスは操られていた可能性があるわけね。やっぱり出現のタイミングが絶妙で深読みしちゃうけど、人の身に扱える代物じゃないわよね?」


「禅の字はあたしたちの後始末よりもそっちに頭を悩ませてたみたいだったなー。こっちは単に裏切り者を引っ捕らえたいだけなのに、正体不明の第三者まで絡んできた可能性がある」


「……正体不明の第三者」


 そのフレーズには、憶えが――ある。


 むしろ、あの少女の存在をどう伝えようか考えていた愛莉にとって、渡りに船のような話題であった。


「心当たりがあるわ」


 うん? と話の続きを促すように弥生が視線を寄越してくる。隣に座る征悟も興味深そうに聞き耳を立てていた。語る前に、愛莉は征悟を一瞥する。部外者がいつまで会話に交じっているんだ、という抗議の目で彼を射抜くも、本人に意を返した様子はない。


「コイツのことは気にするなー。つーか、天笠にも手伝わした方があたしらの仕事が若干楽になるからなー」


 判断基準が自分の仕事が減るという利己的な理由である以上、承服しかねる愛莉だが、事の重大性を考えれば彼も協力せざる得なくなるだろう。真意はハッキリしなくとも、天笠征悟は神話生物と戦っていた。ならば、世界が滅ぶことに困る側の人間の筈だ。


「分かったわ」


 言って頷くと、愛莉は下校中、魔術師らしき銀髪の少女に絡まれたことを二人に伝えた。


 その時に交わした会話の内容を出来る限り事細かく。影沼徹が神の僕として世界を滅ぼそうとしていることや以前から予知らしきビジョンを視ていたこと。余すところ無く全てを伝えた。


「弥生。最初に謝っておく。私は次に徹と対面したとき、まず対話を試みるから。みすみす世界を業火に包ませるつもりはないから最善を尽くす努力はするけど、多分私にトドメは刺せないと思う。禅蔵さんにも相談するけど、一番負担がかかる貴女が邪魔だと思うのなら、私のことはここで切り捨てて」


 ここでようやく、紅谷弥生は上体を起こした。ゆらり、と椅子の背凭れに身体を預け、真っ直ぐに愛莉を見据える。


「おいおいおいおいおい。そもそもこの場合の最善策が、四の五の言わずに影沼を殺すことだろー。それを放棄しておいて、一体愛莉は何をするつもりなんだよ? 影沼にやむを得ない事情があったらアイツのことを庇うのか? ただの神様の傀儡に成り下がっていた場合は正気に戻ってーとでも泣き叫ぶのか?」


 あたしはそういうの嫌いだなー。と、弥生は気怠げに笑った。


「で? どうするわけ?」


 しかし、問い掛ける眼は真剣そのもの。弾けば心地良い音色を奏でそうなくらい、場の空気は張り詰めていた。


 この時点で、愛莉は弥生を説得することを諦めた。彼女と共に現場へ赴くことを断念した。先程まで天笠征悟がかなり使えると判明し上機嫌だった少女が、今や柳眉を逆立て鼻白んだ声音を出しているのだ。


 弥生の心変わりに根差している感情を、愛莉は手に取るように理解した。彼女の根幹は何も変わっていない。優秀な人材と共闘できると分かったときは、自分の仕事が減ると弥生は屈託なく喜んだ。しかし逆に、七枷愛莉は使い物にならない可能性があると示されたことにより、楽が出来なくなることを危惧しているのだろう。


 基準こそ自分本位で自分勝手だが、彼女の判断が間違っているとは愛莉には口が裂けても言えなかった。知っているからだ。紅谷弥生が如何なるときも楽をすることに拘るのは、常に余裕を持って物事に挑むことを心掛けているから。余裕があれば心にもゆとりが生まれ、想定外の事態にも柔軟に対処することが出来る。


 こうして思い返せば、面倒がりであるが故に、迅速に事件を鎮圧する弥生の判断にはいつも助けられてきた。だからこそ、この件に関して彼女の信用を得ることは不可能だと愛莉は悟った。


 一番の問題は七枷愛莉自身の立ち位置だ。土壇場で寝返られては勝てる勝負も勝てなくなってしまう。そしていざという時は、愛莉にも何がどう転ぶのか予測ができない。そんな宙ぶらりんな人間と共闘しろというのは、土台無理な話だ。


 だから愛莉は言った。弥生の問いに対して、未来ではなく、現在これから起こすことを。


「今は逃げるわ。個人的な問題を清算したら戻ってくる、っていうのはダメよね。やっぱり」


「影沼に取り入らない保証もないし、寝首を掻かれるのは御免だなー。取り敢えず、この一件が終わるまで大人しくしててくれないかー?」


「それは無理。なんていうか、……そう、悟っちゃったのよ」


「融通が利かないヤツだけど、まあ悟ったのなら仕方がないかー」


 愛莉が浮かべた苦笑に、弥生は締りのない笑みで応えた。何百何千とほぼ毎日交わされ、恒例にもなったいつものやり取り。しかし今日だけは肌を焦がす程の凄絶な魔力が二人の間に渦巻いていた。


 魔術戦に至るまでの言わば前哨戦。術を結んでいないただの魔力で相手の出方を伺い、フェイントを掛け、時には無色の毒として相手を侵す。どれだけ相手の手札を読み切り、有利に事を進められるか。その駆け引きが音も無く行われていた。


 馬鹿なことをしている自覚はある。文字通り世界の危機だというのに、悠長に仲間割れをしている暇は一秒たりとも存在しない。だが、こうして抵抗の意思を露わにした以上、大人しく捕まるわけにはいかなかった。愛莉はまだ、影沼徹の裏切り行為に納得したわけではないのだから。


 一触即発。いつ戦いの火蓋が切って落とされるかも分からない緊迫した空気の中で、緩慢に動いたのは天笠征悟だった。二人の闘志に水を差すように、彼は呑気に謝罪の言葉を口にした。


「いやー、なんか悪いな」


 その一言に愛莉と弥生の意識が僅かに征悟へと向いた。牽制し合い、拮抗していた濃密な魔力のバランスが崩れ、パンッと乾いた破裂音が中空に生じる。均衡から外れた魔力は力を持った余波となり、二人の意識の先へ方向性を定めた。徒人ならば一撃で昏倒しかねない衝撃が、天笠征悟に激突する。


 しかし征悟はそよ風に頬を撫でられたようなリアクションを示しただけで、構うことなく話を続けた。


「流石にここで確執が生まれるのを黙って見てるのは後味が悪いんだが、この場だけでも矛を収めるって選択肢は取れないもんかな?」


「あー? 身内のゴタゴタが片付いたらお前の戯言にも付き合ってやるから、ちょっと黙っててくれないかなー。部外者が割って入るような問題じゃないって、分かってるだろ」


 ぞんざいに弥生が言った。愛莉も弥生もすでに互いしか視界に入っていない。先程生じた一瞬の隙を突いて、直接的な術の応酬へと発展しなかったのは僥倖と言えた。


 あるいは、天笠征悟という二人のペースを乱す存在が居なければ、今頃この食堂は戦場へと転じていたかもしれない。


「分かってる分かってる。だから口出ししてんだろ」


 危うい状況で綱渡りをしているのを自覚していないのか、尚も征悟は言葉を連ねた。


「だからさ。流石にウチの妹が呼び水になって、こんな物騒な空気になったのなら、身内としては少なからず責任を感じざるを得ないんだが」


 殺伐とした流れに身を任せるよりは、もうちょい建設的な話し合いで解決しようぜ。と、征悟は言った。もう一度交渉のテーブルに着くよう二人を宥めながら。


 その声音は平静そのもの。欠片も動じてはいない。その自然体から発せられた言葉と内容に、愛莉は僅かに心を乱された。


 その瞬間、弥生が愛莉に向けて手印を切る。


 彼女の魔力が術を成し、縛鎖と変じて愛莉を襲う。弥生が放った縛めは狡猾な蛇の如き動きを見せ、愛莉に予断を与えず拘束する。


 その刹那、天笠征悟が無造作に伸ばした手が紅谷弥生の魔術を掴み、握り潰した。


 ガタンッと椅子が転がる大きな音が食堂に響く。間一髪、弥生の術を免れた愛莉が椅子から飛び退いたのだ。対照的に弥生は身動ぎ一つする気配はない。獲物の逃げ道を予測する猛禽の瞳で、ジッと愛莉の姿を捉えていた。その視線が断ち切られる。緩やかに立ち上がった征悟が、愛莉を庇うように弥生の視線を遮ったのだ。


「邪魔するなよな」


 面倒そうに弥生が喋る。


「大体天笠さー、話し合いで解決しようとか言いながら、お前、最初から愛莉を逃すつもりだっただろ?」


「あっ。バレてました?」

 

 軽薄な口調で征悟が応じる。


 戦意こそ皆無だが、彼が自分の味方をしようとしていることは愛莉にも推し量れる。


 ただその理由に関しては皆目見当もつかなかった。


 愛莉は自分が納得したいがためだけに影沼徹と対話がしたい。弥生は自分の命を脅かす可能性のある不穏分子を作戦から排除したい。目的は同種の筈なのに、二人の間には明確な利害関係の不一致から生じていた。互いに折れる意思の無い少女たち。そこで幕を開けた新たな逃走劇に、無関係な少年が片棒を担ごうとする真意が分からない。


「――天笠君?」


 気が付けば、愛莉は少年の背に呼び掛けていた。


「ガッカリだなー。一緒に魚の擂り身を作った仲じゃないか。それなのにイベントを起こしてない愛莉の方に靡きやがって」


 征悟が膠着状態をもたらしたためか、弥生も憎まれ口を叩き始める。


 しかし案の定と言うべきか。征悟が彼女らの言葉を意に介した様子は見受けられない。


 本当に、マイペースな男だと、愛莉は思った。


 そしてさらに思案する。今ならば、弥生の術数から逃れられるのではないか。


 悠長に事を構えては居るが、影沼に独自のアプローチを掛けるため〈事務局〉から逃げることを選択した愛莉にとって、ここは敵陣内と言っていい。異変を察した職員が駆け付ければ、それだけ逃走が難しくなる。


 行動に移るべきか――逡巡する。


 この場に彼女を押し留めたのは、またしても征悟の発言だった。


「悪いな紅谷。だけどまあ、俺がお前の人となりを把握したように、お前だって俺の性格分かってるだろ? 俺は面白い方の味方をする。より難易度の高い道を選択する。紅谷が『楽』を追求するように、俺は『楽しさ』を追い求めてるんだよ」


 そっちの方が人生に張りがあって楽しいだろう。と、征悟は快活に笑いながら言う。


 その述懐こそ少年の根幹を形成する行動原理。思い返せば出会った時から、天笠征悟は事の成り行きを面白がっていた。なんてことはない。彼もまた、愛莉たちと同じ様に我を貫いているだけなのだ。やりたいようにやっているだけ。これで目的が不透明な相手に庇われる薄気味悪さからは解放された。


 しかし、彼の判断基準がルカであることは明白だ。その一点だけが、そこはかとなく不安を煽る。


「愛莉の告白が重大過ぎて二の次にしてたけどさー、話を聞いた限りまるで全ての展開を読んでいるようじゃないか。天笠の妹は。それ程までの存在なのかー?」


「ああ。質の悪さは一級品だ。太鼓判を押してやる。それに、いつかの雑談で言ったと思うけど、ゲームマスターとしては一流だよ。そんなヤツが攻略法のヒントを教えてきやがったんだ。俺は裏技もバグ技も好きだけど、やっぱり最初は正攻法から試すもんだろ」


 人の生き死にや世界の命運を遊戯のように語る姿に、愛莉は不愉快な念を感じずにはいられない。それでも、嘲笑を浮かべる底知れぬ少女が、解決法を確立していないとは到底思えなかった。


 弥生は深く考え込むように押し黙る。対する征悟も閉口した。愛莉は先程から口を開く回数が減っていた。


 会話が途切れた拍子に、ざわざわと梢のざわめきが耳に届いた。


 木枯らしだろうか。一際大きな風が吹き荒び、宿舎近くの樹木の枝を強く打ち鳴らしたようだった。ちらりと窓の外へ視線を向けると、夜の帳が下りていた。淡い月光が目に沁みて、街中の明かりは過激に自己主張を繰り返している。


 影沼徹はこの光が届かぬ場所に潜んでいるのだろうか。それとも何食わぬ顔で夜の街を闊歩しているのだろうか。愛莉の無意味な空想を止めるように、呟きが零れ落ちた。


「めんどくせーなー」


 沈黙を破ったのは弥生であった。万感の思いが詰まった独白と共に、弥生は辟易したように溜息を吐く。そして再びテーブルの上に突っ伏した。


 見逃してやる。付き合いの長い友人は言外にそう告げているようだった。弥生の性格からして、天笠征悟がこちらに付いた時点で積極的に戦闘をする心算ではなかったのだろうが、素通りさせてくれるとは愛莉から見れば意外に映る。


 どういう風の吹き回しだろう。疑問には思うが、口を挟む真似はしなかった。


「……ありがとう」


 と、ひと声かけて、彼女の気が変わらぬ内に退散する。その後ろを征悟が続く。現在は〈事務局〉の身元預かりになっている筈だが、朝方交わした約束をその日の夜半で反故にするつもりのようだ。


 結局、最後まで紅谷弥生が椅子から立ち上がることはなかった。二人の後ろ姿を見送るだけで、言葉すら掛けることはない。


 弥生はひんやりとしたテーブルの天板に頬を押し付ける。身体の熱はさっと奪い取られ、今の心理状態と同じ様に冷え込んでいく。彼女の艶やかな長髪は卓上で乱れ、雑に作られたテーブルクロスのように天板を覆った。


 そして怠惰な姫はこのまま堕落に身を任せようか本気で思い悩んでいる。彼女の上司である植月禅蔵は切った張ったが得意なわけではない。つまり戦力にならない。七枷愛莉が抜けた今、影沼徹と一対一で向かい合わなければならないわけだが、そうなると勝ち目は低い。


「うわー。マジで面倒くさくなってきやがったぞー」


 弥生は投げやりにボヤきつつ、目蓋を下ろした。


 傍目からは机に突っ伏して眠っているかのように見える。ピクリとも動かないその姿は、さながら等身大の日本人形。精巧な人形は力無く四肢を伸ばし、持ち主に忘れられたかの如き哀愁さを漂わせている。


 舞台装置のように静止した弥生だったが、彼女の思考回路はかつてない程に目まぐるしく働いていた。改めて愛莉が言った内容を咀嚼し、これから起きうる出来事を夢想し、自分が講じられる最善最適の手段を思案した。短時間の間に幾つもの情報が弥生の脳内を閃いて、問題を切り崩す解法を形作っていく。


 少しではない時間が経過し、ふるり、と彼女の長い睫毛が震えた。弥生はゆっくりと双眸を見開く。


「取り敢えず、まずは裏付けから始めないとなー」


 チクショー。どいつもこいつも余計な仕事ばっかり増やしやがって。と、毒づきながら弥生はスマートフォンを手に取った。連絡を取る相手は植月禅蔵。彼ならば、国外の組織にもコネクションを持っている筈だ。


「本気の全力なんて出したくもねーしなー。出来ることなら、あたしも天笠の誘いに乗って、一緒に踊らされたいもんだぜー」


 にへら、と締りのない笑みを浮かべて弥生は独りごちた。表情とは裏腹に、苛烈な気配をその身に纏わせ。

 

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