08:邪悪
「まず、メタトロン――影沼徹が各地の結界を壊し回っている理由から話しましょうか」
やはり大法螺というわけではない。結界が機能していないことは局内であっても秘中の秘として扱われ、知る者は限られている。厳重に緘口令が敷かれ統制された情報は、生半可な手段では手に入らない筈だ。
なんという皮肉だろうか。眼前の少女が妖しければ妖しい程、信頼に足る情報筋として認識が上書きされていく。危うい情報を彼女が開示する度に、信用度が高まっていく。
「今の内に勘違いがあれば正しておきたいのだけど、彼の目的は『結界を壊すこと』だけ。その結界に守られている機関だとか施設だとか都市だとか、そんなものは初めから眼中にないわ」
「そこまで大見得切って断言できる理由って、一体何?」
「だから、その理由こそが世界滅亡なのよ」
いつしかルカの笑みが消えている。
「何者かに操られて、なんて陳腐な理由じゃないわよ。確かに命令はされているけど、あの命令にそこまでの強制力は無かったし、そもそも気付かない人間だって居たくらいだもの。あくまでも彼の意思で、彼の決断で、手始めにこの国から滅ぼそうとしているのね」
いざ滅ぼそうと攻撃して頑丈な壁がいくつもあったら流石に邪魔でしょ。今はそれを排除する前段階に過ぎないわ。とルカは言った。彼女が口に含むホットチョコレートとは対照的に、彼女の表情には苦いものが走っている。
筋は――通っている。
冷静に、極めて冷静に愛莉は頭を働かせた。目蓋の裏に描くのは、世界の終末で暴れる炎の巨人。何かの行動に失敗した結果ではなく、初めからあの結末を目的として事を運んでいる。この考え方では、何一つ矛盾点は見い出せない。
「その、命令ってやつを出しているのは分かっているの? 影沼徹を止めれなくても、そっちから命令を撤回させれば――」
「無理よ。だって相手は――神様だもの」
「――――えっ?」
「神。ゴッド。主。ヤハウェ。そんな風に呼ばれている存在が、メタトロンが乱心している元凶ね。今のところそっちには手が出せないから、送り込まれる尖兵を順次対処するしかない」
「……ちょっと、待って」
混乱せずにはいられない。
あくまでも七枷愛莉は、自陣を裏切った上司が抱える事情を少しでも多く知ろうとしただけなのだ。それが何故邪神以外の、人類に味方する神から手の平返しを受けているという深刻な現状に頭を悩ませなければならないのか。
「そんな荒唐無稽な話、信じるとでも?」
「信じなくてもいいわ。どうせメタトロンをどうにかしなければならないことには変わりないんだもの。まあ、調べたいと言うならヴァチカンにでも連絡を取れば? 彼らとは知らない仲でもないし、わたしの名前を出せば諦めてある程度の事情は話してくれるでしょう」
あはは、と愛莉は力無く笑った。
「ずいぶんと、変わったお友達が居るようね」
宣いつつ、愛莉は頭を働かせる。仮に黒幕が居たとして、それが誰であろうと現状が好転することはない。理解は出来るが、そう簡単に納得できる話でもない。
「宿神はどういう扱いなの? これも元は神話に出てくる神でしょう? 私達が実は世界を滅ぼすための兵器だったっていうのは、まあ、納得できなくもないけど……基本的に大抵の人は、生活を脅かす神話生物と戦うために利用してるわよ」
「ねぇ愛莉。貴女、宿神から何かを強要されたことはある?」
やはり、宿神のことも、七枷愛莉が宿神憑きであることも既知の内なのか。少女が手にしている情報量と正確さに舌を巻きながらも、愛莉は会話を中断することが出来なかった。
「……無いわ。意志の無い強大な力の塊。それが、宿神憑きが台頭し始めて三十年経った今でも、魔術師たちの共通の見解でしょ」
「ええ。だから宿神は人類が希望を求めた結果、現れたモノではないかしら。う、例えば――救世のジャンヌ・ダルクのような。邪神に対抗するための奇跡。人のためだけの秘跡。そういう認識で間違っていないと、わたしは思っているわ」
「なら、今貴女が言っている神は――人の意志が介在しない、もっと原初のものだと?」
「そうね。世界を運営するシステム側に居ることだけは間違いないわ。神話生物共によって、今の世の中は悪徳のバーゲンセールでしょうし、リセットしたくなる気持ちは分からなくもない」
今はソドムとゴモラ程度の災害でしょうけど、その内ノアの洪水クラスの神話災害が起こるでしょうね。と、憂いなく、彼女は自身の予想を口にした。
それならば、元々神話災害用に設計された結界は邪魔にしかならないだろう。影沼が組織を裏切った動機も、目的も、理解できる。彼はただ、神託に従っているだけなのだ。
しかし、だとするなら――
「私たちに勝ち目はあるの? だって、それ、創造主が敵になったってことでしょう!?」
そう。人類は最大の味方に裏切られたも同然ではないか。
だが、ルカは違っていた。初歩的な部分で躓いている生徒に呆れ、嘆息する。
「知ったこっちゃないわ。わたしたちは生きたいから生きる。それだけよ」
きっぱりと断言する。力強い声音で、そう断じた。
相手が神話生物だろうと創造主だろうと、生命を脅かす相手は容赦しない。彼女の中では、敵味方の線引きが明確な基準で行われているのだろう。決意を簡単に読み取れる程、迷いのない言葉だった。
「それじゃあ、話を戻すわよ」
ルカは言う。これまでの話は理解を促すための背景説明に過ぎないのだと。
この時点で、新情報を咀嚼するだけで、愛莉は十二分に疲労困憊している。だが、愛莉の都合など一切考慮することなくルカは告げた。彼女が、愛莉と接触した目的を。
「影沼徹が敬虔な神の使徒に成り下がったことは理解したわね?」
彼女の説明にはちゃんと筋が通っているし、愛莉は強く否定できる判断材料を持ち合わせていない。ルカの言葉に重々しく頷いた。
「そう。なら、手っ取り早く彼を――殺してくれないかしら」
それは言われるまでもなく考えていることだ。昨夜影沼と顔を合わせる直前まで、ずっと悩んでいたことだ。そして、今も尚迷っている。
「原因や、メタトロンの意図が分からない以上、これまでの愛莉は『殺した方がいいかもれない』程度の認識だった筈よ。何もかもが不透明だったから、最悪のシナリオを回避できる可能性も夢想できたわけだしね。でもそれは違うわ。分水嶺はとっくの昔に越えてるの。メタトロンは『殺すべき』なのよ」
淡々と言葉を紡ぐルカに愛莉は薄ら寒いものを覚えた。人の命を何とも思っていないことではない。的確な情報収集。それによる的を射た推測。心を見透かされているような気味の悪い感覚に、愛莉の肌は粟立った。
「……簡単に、言ってくれるわね」
虚勢を張りつつ、愛莉は答えた。少女のことを不気味に感じている。そんな些細な弱みすら、彼女に悟られることは致命的な失態だと感じるのだ。
「ええ。そうね。彼を殺すことは相当難しいとわたしも思う」
「なら、何で私に教えたの? そこまで危険な状況だと分かってるなら、貴女が自分の手でやればいい。そもそも、こういう話は私よりも弥生たちの方が適任でしょ?」
「いざというとき、彼女の心象兵装では対処できない可能性があるからよ。逆に貴女の心象兵装なら確実にメタトロンを止められる。わたしが七枷愛莉と接触を図った理由はこれで十分だと思うけれど」
まだ何か説明が必要? と、ルカは冷淡な笑みを浮かべながら言い切った。
何故、そこまで自信を以て言い切れるのだろうか。まさか、暗澹とした森の中から這い寄って来たようなこの少女が、七枷愛莉のことを信頼しているとでもいうのだろうか。
確かに愛莉が生み出す拳銃から発射された弾丸は、地の果てまで獲物を追い詰め、その心臓を穿つ。影沼徹を仕留める可能性が高いという点において、愛莉自身も異論はない。しかしその可能性も、弥生に比べれば僅かに高いというだけで、単純な戦闘力を比較すれば彼女に軍配が上がるだろう。
ルカの意図が――分からない。
向かい合うだけでどうしようもなく不安をかき立て、異形と見紛う程の少女。一体愛莉のどこが、彼女の眼鏡に適ったのか。気に入られた理由が皆目見当がつかない。
「それ、説明になってる? 私に話を持ち掛ける理由にはなってないわよね?」
するとルカは露骨なまでに怪訝な表情を浮かべたのだ。
「まさかとは思うけど、自分の心象兵装の本質に気付いてないの?」
本質? 本質とは何だ? 彼女は何を――言っている?
返す言葉が思い浮かばず、口を閉ざして少女の瞳を見つめ返す。ルカのつぶらな双眸から溢れる感情は窺い知れない。水底を測れない、深い湖を覗き込んでいるようだった。水面に自分の顔が映り、自身の感情を見つめている。店内に流れるBGMが少しだけ大きくなった気がした。
「フェイクのつもりもなく、よくあんな不細工な心象兵装を扱えるわね」
無知を見抜かれたのだろう。相手を見下すせせら笑いと共にルカは言葉を放った。人の神経を逆撫でする、堂に入った嘲笑だ。上から目線の高慢な態度に愛莉の心はささくれ立つが、激昂するまでには至らない。彼女の仕草は気に食わないが、自分が無知であることなど、重々承知しているつもりだ。
表立とうとする反発心を抑えることに愛莉が腐心していると、ルカは呆れたように息を吐いた。
「いい? 愛莉。貴女の宿神はフリッグでしょう? 絶対必中の銃というのは、まあ、ギリギリ納得は出来ると思う。未来予測と雲を編んだと言われる流体操作があれば、再現は可能でしょう。でも、性能以前に根本的な疑問があるのだけれど、どうして貴女の銃は黄金で出来ているのかしら?」
金なんて、柔らかい上に重くて、武具にするには頼りない金属だと思わない? そう、ルカは問い掛けてくる。
言っていることはその通りだと愛莉も思う。しかし、その条理を覆すのが心象兵装ではないのだろうか。人の手が及ばない神秘を体現した武具こそが、神話生物に打ち勝てる。そう思っていた。思い込んでいた。使える物を受け取ったままに使い続け、深く考えたことなど無かったのだ。
「北欧神話において黄金関連で有名な神といえば、フレイヤではないかしら? 金色の涙を流し、それが地面に染みて固まったのが黄金だと言われているし、『ラインの黄金』の発端には、フレイヤも絡んでいるしね」
「待って。そもそもフレイヤ自体が北欧神話で最も有名な女神じゃない? 一番の有名所を例に挙げれば、何かしら関係性は見い出せると思うけど」
「そうね。じゃあ、どうしてフレイヤが一番有名なのか、愛莉は知ってる?」
愛莉は首を横に振った。初めから説明するつもりだったのか、気にすることもなくルカは続ける。
「後世の詩人たちによって、他の女神の功績がフレイヤに奪われてしまったからよ。神話のキャスティングそのものを変更されてしまったのね。……そう、Fridayの原義はフリッグの日だけれど、フレイヤの日と誤解している人が偶にいるようなもの、と言って、分かるかしら?」
「まあ、なんとなく。軒を貸して母屋を取られる、的な感じ? 要するに、私はフリッグとフレイヤの伝承を混合して解釈してるって言いたいわけね?」
「ええ。特にオーディンの正妻であったフリッグと愛人のフレイヤはよく間違えられがちだし、元々は同一の神格だった、なんて説もあるくらいだから」
拡大解釈をすれば他の神の逸話や特性を流用し何かと便利そうではあるが、そう都合の良い話が転がっているわけはない。浅く広く知識を付けたところで、結局は自身の宿神を蔑ろにしているだけなのだ。紛い物の情報ばかりが募り、宿神本来の力が弱まってしまう。
試されているのは、理解の深度。自分に宿る神を、どれだけ正確に把握できているか。雑多な情報を精査し、淘汰し、濾過した者こそ、混じり気のない純粋な奇跡を扱うことが出来る。
それは七枷愛莉にとって、寝耳に水の話だった。初耳には違いないが、力を借りる相手を良く知ることに異議はない。ただ、そんな重要な情報を正体不明の少女から聞くことが、問題と言えば問題と言える。
「アンタ、何者?」
だが、改めて問うたところで彼女の返答は決まっている。
「わたしが何者かなんて、心の底からどうでもいいわ。手段は提示したのだから、あとは愛莉が有効利用できるかどうかに掛かってるのよ」
弓なりに唇を歪ませた、意地の悪い笑みをルカは浮かべる。しかし彼女のスタンスも、今となっては疑問の一つだ。恨みを買うような発言や仕草を繰り返しているものの、ルカは愛莉に有力な情報を提供したに過ぎない。ガセを掴まされた可能性も皆無ではないが、わざわざこんな真似をする理由は無い筈だ。
「まあいいわ。情報提供感謝します。ありがとう」
口の悪い人間はどこにだって居るし、それが魔術師ともなれば素直な者の方が珍しいくらいだ。〈事務局〉でも実力者に限って性格に難があることは珍しくない。
だからそんな風に、愛莉はルカへの心象を少しだけ改めた。
性格が捻じ曲がっているだけの、事情通な関係者だと認識を改めた。意外と話せる相手だったからか、警戒が少しばかり緩んだのだろう。ルカに対する第一印象を忘れ、そこまで悪いヤツじゃないかもしれない、と少女の評価を改めてしまったのだ。
初対面の相手に『邪悪』などという単語、普通は思い浮かぶ筈がないのに。
「ここまでお膳立てしてあげたのだから、ちゃんとメタトロンを始末してね。まさかとは思うけれど、実の親を殺しかけた程度で育ての親を傷つけられない、なんて激甘なことを――この期に及んで言わないわよね?」
「黙って」
ほとんど反射的に、愛莉は力の篭った言葉を発していた。
激昂し、激情に身を任せ、怒号を浴びせるだけならまだよかった。所詮一時の感情に支配されただけであり、大声を出せばすぐに平静を取り戻した筈だ。精神修養が足りないと、笑い話で済んだ可能性もあった。
しかし愛莉の対応はそれよりも尚酷く、融けることのない永久凍土のような憎悪を以って、ルカと相対したのだ。
楔を――打ち込まれた。
悪辣な笑顔と弾むような声音で以って、ルカは愛莉の心傷を深く広く抉ったのだ。そして滑稽な程愚直に、愛莉は過去の傷が癒えていないことを晒してしまった。今も心のどこかで影沼徹殺害を享受できていない自分が居ることを、曝け出してしまった。何よりも、問題を思考の外へ追いやっていただけで、自分自身が相当気に病んでいたことを悟ってしまった。
「――――ッ!!」
かつてない程の動揺が愛莉を襲う。不味い、と思った。これ以上この少女と話していたら、直視したくもない本心や本音を詳らかにされてしまう。そうなれば、魔術師としての七枷愛莉も終わってしまう。
これが弥生や禅蔵のような気心の知れた相手からの申告ならばまだ良かった。愛莉も理知的に相手の言葉を受け止められた筈である。だが、今現在愛莉と話しているのは初対面の少女なのだ。加えて、終始相手を小馬鹿にする態度を貫き、人の弱みを弄んで悦に浸る性悪。いや、世界滅亡という切羽詰まった状況を遊戯として認識している彼女は、やはり――邪悪、なのだろう。逆鱗に触れられた愛莉に、冷静な判断など出来うる筈もなかった。
ルカは嗜虐を楽しむかのように目を細め、ホットチョコレートを啜る。
「でも、出来ないなら出来ないで構わないと、わたしは思うわ。甘いのは大好きだもの」
そして彼女は、手の平を返すように、甘い毒を囁いた。
「わたしの読みでは愛莉の心象兵装は確実にメタトロンを止められる。でも、いくら公算が高くても、所詮は一個人の勝手な予想に過ぎないわ。愛莉が責任を放棄したとしても、別の誰かが同じくらいの公算の高さで影沼徹を殺してくれるでしょう」
よかったわね、愛莉が行動しなくても、どっち道世界は救われそうよ。と、悪意を孕んだ笑みを湛えて、ルカは言った。
「黙れッ!!」
今度は荒々しく言葉を発する。
気付けば、呼吸が乱れていた。一度の呼吸は浅く速い。心臓も早鐘を打つかのようだ。
頭が真っ白になる経験は久しく味わっていなかった。思考は散り散りに解体され、何の意味も為さない空転を繰り返す。
普通なら、何も恥じることはない。親を殺さなければならないシチュエーションなど起こり得ないし、その選択に忌避を覚え、拒絶することは、むしろ人として真っ当と言える。
しかし、彼女は魔術師なのだ。確かに師匠殺しは禁忌になるが、その師が結社を裏切ったのなら話は変わる。親交があったとしても、紅谷弥生あたりは容赦なく制裁を下すだろう。
ほんの十数分前なら、愛莉も同じ領域に立てた筈だった。だが、ルカから自分が手を下さなくても済むと聞いた瞬間、心のどこかでほっと胸を撫で下ろしてしまった。安堵してしまった。影沼徹を殺害出来る目新しい情報よりも、無造作に示唆された逃げ道に飛びついてしまったのだ。無配慮に弱い心を曝け出された愛莉に、同じ選択が出来るだろうか。
こうして迷いが生じたことが、一つの答えと言えた。
「あら? あらあらあら? どうしたの愛莉? そんなに青い顔をして」
それでも尚、眼前の少女は黙さない。両手で頬杖をつき、下から見上げるように愛莉の瞳から目を離さない。ルカの双眸は獲物の逃げ道を着実に塞ぐ猛獣のように、爛々と輝いていた。
「まさか。まさかとは思うけれど、動揺しちゃった? 素性もわからない小娘の甘言に唆されて、都合の良い現実逃避をしちゃったのかしら?」
にまにまとルカは笑う。愛莉が怒ろうが怯えようが関係ない。愛莉から発露する感情を見て、ルカは顔色を愉悦に染める。他人の苦悩こそが最上の甘味だと言わんばかりに。
「ふふっ。全く以て、愉快だわ。愛莉が何度決意を新たにしたところで、所詮それは学生が粋がっているのと大差ないのよ。良かったわね。愛莉が居なくても代わりは居る。だったら、いっそ誰かに任せちゃえばいいじゃない。押しつけるわけじゃない。ただ適材適所の精神で働くだけよ。責任なんて感じなくていい。使命なんて愛莉には関係ない。出来る人に全てを任せて、愛莉はぐっすり眠っていればいいわ」
――これで万事解決ね。と、七枷愛莉の意志や決意を丁寧に踏み躙りながら、あくまでも和やかな口調でルカは言った。
「そんなこと、出来るわけないでしょう……」
弱々しい愛莉の反駁に、すぐさまルカは「どうして?」と聞き返す。とっさに反論できず返答に窮する愛莉を無視し、さらにルカは言葉を連ねた。
「曲がりも何も、愛莉が今まで頑張ってきたのは先の展開を知ることが出来たのが愛莉だけだったからでしょう? なら、もう不安になることはないわ。だって、同じビジョンを共有しているわたしが居るのよ。愛莉を見ていて気が変わったの。ちゃんと〈事務局〉にも情報提供してあげるわ」
そして、七枷愛莉が戦う理由を剥奪してあげる。と、ルカは言外にそう告げた。
「情報は秘匿し、希少性を持たせてこそ価値がある。局員全員が知れば、愛莉から特異性は無くなるわ。そうすれば、気兼ねなく女性局員Aとして雑用に励むことが出来るでしょう?」
頬杖をついたまま、ルカは可愛らしく小首を傾げる。同意を促すようでありながら、責務の否定を強要している。だが、彼女の言い分は悔しい程に正しかった。
これまでの経緯など、愛莉の独り相撲でしかなかったのだ。影沼は誰の意見も聞かず、誰の手も借りず、目的を果たすだろう。そして彼の目的である世界滅亡を止めたければ、形振り構わず人事を尽くすことこそが最良だった筈だ。それを愛莉は今の今まで放棄していた。問題の重要性を鑑みれば、あるべき姿に成ると言える。
そして、そんな重要な情報を隠匿し、精神状態に不安がある者に、一体誰が重大な任務を与えると言うのだろうか。
全てルカの言う通りだ。彼女の言っている事が、現状に即している。状況に適し、事態を終息させる近道なのだろう。
ならば何故、七枷愛莉は第三者に指摘されるまで最善を尽くそうとしなかったのか。
改めて、振り返る。自身の心境を、己が心情を。初めて半端な予知を視たときのことを。その後、影沼が〈事務局〉を裏切ったと知ったときのことを。
今となっては認めよう。七枷愛莉の本心は、影沼徹を殺したくはなかったのだ。当然、根幹に位置する理由としてはこれが最も大きな割合を占めている。だが、この本心は見て見ぬ振りをし続けて、先程ルカに揺さぶられるまで厳重に封印していた感情だ。事案の存在を知った当初の頃では、仕事の一環と割り切って魔術師として活動していた筈だ。
果たしてその時、七枷愛莉は何を割り切ったのだろう?
「――――ぁ」
僅かな吐息に紛れ、小さな声が漏れた。
「どうしたの?」
そしてそれを聞き逃すルカではない。些細な心境の変化を目敏く感じ取り、ルカは愛莉に話の続きを促した。
「別に。ただ、思い出しただけよ」
力弱くない。震えているわけでもない。答えた声音は普段の調子に戻っていた。
「何を、思い出したのかしら?」
興味深そうに、ルカは相槌を打つ。
愛莉は苦笑を浮かべて、首を横に軽く振る。関心を示してくれるのは結構だが、これから言うことはそんな大それたものではない。決意でもなければ信念でもない。強いて言うなら、初心のようなものだ。世界滅亡の事前知識がある状態で影沼徹の裏切りを知ったとき、まず初めに思ったこと。
「そうね。多分、貴女の言う通りよ。私には徹を殺すつもりなんて無かったんでしょうね」
だとすれば初めから、魔術師としての七枷愛莉には端役すら与えられていなかったのよ。と、愛莉は心中をあるがままに吐露し始める。
「私はただ――娘として、彼と話がしたかった」
そう。原初の想いなど、たったそれだけに過ぎなかった。予見できた未来の情景や、組織の一員としてのしがらみが、瑣末な感傷を塗り潰していた。
憑き物が落ちたような気分だった。ルカが言っていた通り、責任や使命など、最早愛莉にとってはどうでもいい。明かりもなく彷徨い歩いていた迷宮の中でようやく出口を見つけられたような、清々しいまでの開放感が胸の内から溢れてくる。
「――そう。それが愛莉のホントウなのね」
その時、愛莉は見た。眼前で居住まいを正した少女が、真の意味で無邪気に微笑むのを。これまでの所作が全て嘘に感じられる程、優しさと慈愛に満ちた笑みに、愛莉は軽く目を瞠った。
――それも一瞬。
ルカの表情は相手を嘲り、小馬鹿にしたものへと変容していた。まるで蜃気楼でも見たかのようだ。愛莉が口を挟む間もなく、ルカは尋ねる。
「それで? 話を聞いてどうするの? 愛莉に出来ることがあるとでも?」
「さあ? あるかもしれない。――と言ってみただけで、そんなものは無いって分かってるわよ。話を聞くだけで解決するなら、こんな大事にはなってないでしょ」
「そうね。そしてその行為は、無駄以外の何物でもないと思うけれど?」
「知ってる。でも、まったくの無駄ってわけじゃないわ。――少なくとも、私は納得できるもの」
納得。そう、納得だ。
ルカの解説によって、背後関係は漠然と把握した。事情もなんとなく察した。しかし、肝心の影沼徹の心理変化がまるで見えてこない。分からないのなら、それは本人に尋ねるしかないだろう。
自分勝手極まりない動機に準ずれば、今の立場や人間関係など様々な物を失うかもしれない。だけどまあ、別にいっか。と、現在の愛莉は良くも悪くもしがらみを吹っ切った物の考え方をしていた。
水を差すように、ルカが口を開く。
「でもそれは、何の解決にもなっていないわよ」
対する愛莉は、力強い笑みを浮かべて言葉を返した。
「知らないの? 私のチームメイトの紅谷弥生は日本で五指に入る陰陽師なのよ」
惚れ惚れする程の他力本願。愛莉の返事にルカは淡く笑う。微笑むだけで、反論はない。痛烈な批判が返ってくると覚悟していた愛莉は、それだけで毒気を抜かれてしまった。
「なら、もういいわ。時間を取らせて悪かったわね」
話すべきことは全て話したという態度で、ルカは制服のポケットに手を入れる。そしてガサゴソとポケットの中身を検めながら、言った。
「ま、別に嘘を教えたつもりはないから、情報は有効利用してちょうだい。ついでに、最後の忠告を愛莉にあげるわ」
「……何よ」
目の前の少女は、気を緩めた瞬間にこそ鋭い一太刀を浴びせてくる。このように会話をまとめると見せかけて、どんな爆弾を投下してくるのか予測が付かない。これまでの応酬でルカのやり口を察した愛莉は反射的に身構えていた。
しかしルカは表情が強張った愛莉に注意を払う素振りは見せず、マイペースにポケットから手を引き抜く。そして、手の内に収まっている物を愛莉に向けて指で弾いたのだ。「あなたの父と母を敬いなさい」と言いながら。
真っ直ぐ顔に迫る物体を、愛莉は反射的に顔を背けつつ空中でキャッチする。突拍子もない行為に目を白黒させつつも、言葉の真偽を尋ねるつもりで口を開こうとした。
言葉だけならば、愛莉でさえ知っている。モーセの十戒に含まれる一項目。しかし、この会話の流れでその一文を引用することに違和感を覚える。先程まで育ての親を殺せと唆してきた相手が唐突に手の平を返したのだ。
「ねぇ、どういう――」
しかし視線を戻せば、少女は跡形もなく消えていた。
席を立った気配は無かった。すぐさま店内に視線を走らせるが、白銀色の目立つ頭髪をした女子高生は存在しない。……本当に狐に抓まれた気分になる。
空になったホットチョコレートのコップと、愛莉の掌が感じている硬質な感触だけが、ルカという少女が今までここに居たことを証明していた。
ふと、手の内を見る。ルカが放ち、愛莉が反射的に握り込んだのは、一枚の五百円玉。
「……ホットチョコレートのお代ってとこか」
すっかり冷えてしまった自身のコーヒーを啜りながら、愛莉は独りボヤく。
何食わぬ顔で現れて、霞のように消えた少女。結局愛莉には、最後まで彼女の目的を看破することは出来なかった。いけ好かぬ言動が鼻を突き、終始ペースを掻き乱されたまま逃げられてしまった。
これを言霊という呪術の応酬と見るならば、完膚なきまでに七枷愛莉の敗北だ。
しかし、敗北を喫したというのに愛莉の心中は清々しさに満ちていた。
解を得たのだ。
もう迷いはない。憂いは晴れた。原動力を与えられた半人前の魔術師は、暴走しそうになる推進力を抑え込むのに精一杯だ。
この一杯を飲み終えたら、やるべきことに溢れている。
まずはじっくりと、このコーヒーを味わおう。
緩く弧を描く口元へ、七枷愛莉はカップを運ぶ。




