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5億km²の牢獄  作者: Wolke
4/19

04:邂逅

 逃した。


 そう判断した愛莉の胸に去来したのは、安堵感にも似た感情だった。問題が先延ばしになったことによる安心感。背信とも取れる気持ちの整理を付けておきたい欲求に駆られるが、そんな暇はもちろんなく降って湧いた仕事の対処をしなければならない。


 愛莉は再度、頭上を仰ぐ。大破したビルの中からは、元凶とも呼べる白髪の少年が、相も変わらずこちらを見下ろしている。どこかへ立ち去ることもなく、姿勢すら変えることもなく。ただジッと、面白がるように愛莉と弥生の挙動に注目している。


「おーい。そこの白髪頭ー」


 まず、アクションを取ったのは弥生だった。気楽な調子で緊張感の欠片もなく、正体不明の少年に話しかける。その横で、愛莉はヘッドセットのマイクに向かい、声を発した。


「こちら七枷。影沼には逃げられたわ。現場には神話生物をぶっ飛ばしながら乱入して来た民間人が居るんだけど、どっちを優先させる?」


『どっちを』というのは、結界を破って逃亡した影沼と、異常性極まる民間人の確保、二択の内どちらを優先させるかということだ。はっきり言って、結界が破られ、上空からの逃亡を許した時点で愛莉には追跡する手段がない。これに関しては弥生も同様だろう。


『了解しました。七枷局員及び紅谷局員は標的の追跡を中断。闖入者の確保を優先してください』


 指示を受けた愛莉は弥生にもアイコンタクトを送る。


 そして件の少年は、二人が見ている目の前で、虚空へ向けて一歩前へ足を踏み出した。ビルが刳り貫かれたように大穴を空けているのは地上から三階付近。そこから唐突に少年は飛び降りを謀ったのだ。


 次から次へと目まぐるしく移ろう状況に愚痴を零す暇もなく、愛莉は唖然とその光景を見つめていた。


 初めはその少年が影沼と協力関係にあるのかと疑った。影沼の攻撃を封殺する。それがどれ程の難易度なのか分からない局員は〈事務局〉には居ない。それを苦もなく素手でやってのけるなんて、悪い冗談にも程がある。少年が影沼の傀儡であり、狂言に利用されたと考える方が現実的だ。


 影沼の逃亡を幇助し、用が済むと自身は自殺を企て、黙秘を貫く。そうすると〈事務局〉は影沼に対し、完全敗北を喫することになるだろう。


 飛び降り自殺を防ごうと身体が動いたときには全てが手遅れになっており、少年の身体は地面と接する寸前であった。


 そして、白髪の少年は音も無く地面に着地した。


 接地の衝撃など一切感じていない足取りで、少年はこちらに歩いて来る。大口を開けて、哄笑を発しながらである。自然と、愛莉の表情には剣呑な相が入り混じる。


 もう一度、愛莉は弥生に目配せする。


 無論。何らかの方法を用い、ショゴスを吹き飛ばした時点で、ただの民間人だとは思っていない。近付いて来る姿から敵意は感じないものの、本当に敵ではないとは限らない。


 近くで見ると、少年の年齢は愛莉よりもほんの少し上といったところだろうか。ファー付きのジャケットを羽織り、下はデニム。普遍的な格好だが、白く染まった頭髪が自然と目を引いてしまう。


 口火を切ったのは少年からだった。


「いやー、面白かったよ。世間に関心が無くて、風の向くままに過ごしていたんだが、やっぱり世の中には面白いことが溢れてるみたいだな」


 ある程度近付いたところで、少年は足を止めて話し掛けてきたのだ。


 その口振りは観劇を終えたばかりの聴衆のようで、今にも満面の笑みと共に拍手を始めそうな雰囲気を纏っている。


「残念だけどなー、さっきのは見世物じゃないんだー。でも見物したからには、ちゃんと料金を払っていけよなー」


 愛莉の険しくなる眉間とは裏腹に、弥生は軽い口調で会話に応じる。


「参ったな。生憎持ち合わせが少ないんだが……」


 金を払えと言われて本気にしたわけではないだろう。応じる少年の声音も軽いもので、軽口の応酬だと聞き分けられる。


「そもそもさー、おまえは誰なんだよ。一応この辺りは一般人立ち入り禁止区域なんだぞ」


「へぇ……それは悪かった。気付かなかったよ。――俺は天笠征悟。まあ、人を捜しててこの辺をぶらついてたんだが……銀髪でやたら人を食った笑い方をする十六歳女子とか見かけなかったかな?」


 そのとぼけた返答に、いよいよ愛莉の我慢が利かなくなった。


「弥生っ」


 すでに実力行使も辞さない雰囲気を醸し出している愛莉を、弥生は「まあまあ」と片手で制した。


 別段、七枷愛莉が他人よりも短気な性格をしているわけではない。ただ、作戦失敗の要因となった不審人物と呑気に雑談を交わせる方が、この状況にそぐわない筈なのだ。


 相手の素性も目的も判然としていない中で、平然と言葉を交わすことが出来る。しかしそれを、並外れた胆力の持ち主だと評すことは、愛莉には出来そうにない。


「愛莉はさー、もっと落ち着きなって。まだ自己紹介の途中だろー? あたしは紅谷弥生。で、こっちが七枷愛莉なー。まあ、よろしくしとこうぜー」


 弥生はのほほんと、締りのない笑みを白髪の少年――天笠征悟に向けた。対する征悟も「よろしく」と笑みを返す。両者共に、声色にも表情にも険を帯びている様子はない。目の前でビルが大破し、周辺に瓦礫が散乱していなければ、そのまま握手でもしそうな雰囲気だ。


 一人だけ蚊帳の外とも言える空気の中に取り残された愛莉は、諸々の理解を放棄した。有り体に言えば開き直った。悟ったと言い直してもいい。


 深く、深く息を吐く。肺が空になるまで、ゆっくりと息を吐き出した。そして、さらにゆっくりとしたペースで身体に空気を取り入れる。熱くなった思考回路を強引に冷却し、現状を客観的に改める。やはり、七枷愛莉にとって影沼徹は鬼門であると再認しながら。


 新たな任務は彼の身柄確保。最も厄介な点は影沼の逃亡に関わりがあるかもしれないこと。捕縛現場に神話生物を投入するなんて真似は不可能に思えるが、如何せん、タイミングが悪すぎた。完全に無関係であるならば、影沼の唐突な攻撃が腑に落ちない。あそこで攻撃を加えるべき相手は自分か弥生になる筈だ。


 敵である可能性は否めないが、穏便に話が進むのならば、愛莉としても否定する要素はない。先程は猜疑心が強くなり過ぎて初手から力に訴えようとしてしまったが、要は互いの背景を説明し合い、天笠征悟には〈事務局〉までご同行願えばいいだけだ。


 この二人に、のべつ幕なしといった調子で語らせていれば、いつ話が終わるのか分からないという致命的な問題点があるだけで。


 紅谷弥生のマイペースさは知っているが、どうやら少年の方も負けず劣らず自分のペースを崩そうとはしないらしい。


 ここは自分が主導権を握らなければ、進む話も進まなくなる。


 よって、愛莉は実力行使に及ぼうとした警戒心はそのままに、穏当に対話での解決を試みた。


「一応確認するけど、私たちのことは知ってるよね?」


「ん? ああ、見たところ〈特殊防災戦略事務局〉の関係者だろ?」


「そう。で、今きみが見ていた通り、私たちは犯罪者の捕縛をしようとしていたわけ。これが警察の仕事だったら、さっきのきみ自身の行いを省みて、次の展開を予想できるわよね?」


「まあ、これが普通の逮捕劇なら、仕事を妨害したっぽい俺は、署に連行されて事情聴取を受けるんだろうな」


「その通り。で、警察に限らず、私たちにも同じことが言えるんだけどさ――」


 無駄口を叩かず、黙って付いて来てくれるよね? と、言外に愛莉は征悟へ語りかけた。


 先程のように激情に身を任せているわけではない。口調も穏やかなもので、瞳には理知的な光が宿っている。それでも、彼女の言葉には有無を言わせぬ力が込められていた。


「――つまり、俺はここで石を投げればいいわけだ」


 しかし愛莉の意に反し、けらけらと笑いながら、征悟は自然な動作で足元の瓦礫を拾った。巫山戯ているようで、彼の目には遊びの色が無い。その反抗的な態度を受けて、愛莉は静かに霊力を漲らせる。


 征悟は拳よりも一回り大きい礫を、苦もなく手の内で弄んでいる。彼の異常な身体能力を愛莉たちは理解した。一方的に愛莉が激高したときとは違う、一触即発とでも言うべき張り詰めた空気が場を支配する。


 そして意外にも、真っ先に行動を起こしたのは弥生だった。愛莉が積極的に征悟と話し合うようになった時点で、彼女は自分をお役御免だと判断したのか、ポケーっと二人のやり取りを眺めていた。その姿は緩みきっていたと言っていい。にも関わらず、征悟が瓦礫を手にした瞬間、彼女から弛緩した気配が消失した。あたかもそれは引き絞った弓の如く。


 間髪を入れず、彼女は矢を放った。


 手に持つは霊符。目を覆いたくなる程に眩い白銀の霊力が、霊符を基点に鏃を形作る。ただの鏃では事足りず、霊力は長大に自身の形を形成し、気付けば槍と見紛うサイズにまで膨れ上がった。


 続く擲槍。


 人間相手では過剰とも言える殺傷力を秘めた必殺の槍を、弥生は投げ放つ。ただし、身体を反転させ、自身の背後に向かって。


 征悟が立つ場所から正反対の位置に向かって放たれた霊槍は、闇中で蠢く奇怪な生物を串刺しにした。それは征悟が投げ入れ、影沼がバラバラに解体した筈のショゴスであった。


 影沼の攻撃を受けたときは、ただの肉片に成り下がったように愛莉の目に映っていた。


 しかし、とどめは刺せていなかったようだ。元々液状生物であるショゴスは、一度は破断された己の肉体を粘土細工のように寄せ集め、再び一つの塊として結合したのだ。


 再生しつつある肉体を貫かれ、地面に縫い留められたショゴスに、征悟が追い打ちをかける。何の変哲もない瓦礫を、力一杯投擲するだけ。凡そ全人類が成し得るであろう、普遍的な攻撃。だがその威力には目を瞠るものであった。


 てらてらと輝く異形の瞳。人間を丸呑みに出来る大口。それらを礫の一投で、抉り取った。


 驚嘆する。愛莉も弥生も同様に。


 その感情は武器と戦果のアンバランスさを讃えるものであり、何より、神話生物を前にして冷静に行動できる精神力を賞するものであった。


 この瞬間に限り、天笠征悟を『敵』という枠内から除外する。問題を棚上げし、まずは神話生物を排除することに専念する。無論、選択の根幹には〝こちらに刃を向けた時はショゴスと共に葬ればいい〟といった打算が根差していた。


「愛莉ー。おまえ大砲なー」


 間延びした声。相変わらず、敵を眼前に迎えても緊張感の欠片もない。されど、気負いのない台詞は頼もしく、心強い。


 弥生の指示に従い、愛莉はショゴスから距離を取る。三人の中では最もショゴスから遠い位置に陣取った形だ。そして、影沼を迎え撃ったときと同じく、全霊の霊力を漲らせる。


 距離を取る愛莉とは対照的に、天笠征悟はショゴスに向かって突貫する。その踏み込みの強さを物語るように、彼の足元ではアスファルトが爆ぜ、文字通り爆発的な加速力を彼に与えた。その速度は疾風の如く。


 ショゴスに肉薄すると同時に、征悟は拳を振り下ろした。彼の拳が、玉虫色に光を反射する皮膚に触れる。直後、ショゴスの肉体が四散した。衝撃に耐え切れなかったのか、爆弾を抱え込んでいたかのように、神話生物の身体が飛び散った。


 それでも元が巨大なためか、全体から鑑みればダメージはほんの一部分に留まっている。


 攻撃を終えると、即座に、征悟は地面を蹴って飛び退いた。


 いつの間にか、ショゴスからは人間の腕を模した物体が生えている。形を真似ているだけでサイズは人の身長ほどもある。ショゴスからの明確な反撃だった。


 豪腕が振るわれる。


 粘性の強い液体だとは思わない方がいいだろう。ショゴスが発する風切り音は鉄塊を振り回しているかのよう。何よりも、その速度が尋常ではない。迅雷の反撃は、間を置かずに撤退することを選択した征悟の鼻先を掠めていた。一歩間違えれば肉塊になっていたことを思うと、征悟の背筋を冷たいものが伝っていった。


 次いで、征悟の口から哄笑が漏れる。


「おいおいおいおいッ! 質問するぜ、女性陣! コイツには核みたいなものがあって、それを中心に動いてるのか!? それとも、細胞の一つ一つが意思を持って行動してるってのか!?」


 彼の問いに答えたのは弥生。それは半ば呆れ、半ば感心した声音だった。


「すげーなーおまえ。根本的なことも知らずに神話生物殴ったのかよ。つーか、よく触れたなー。あたしはアレを素手で触るなんて絶対に無理だなー」


 軽口を叩いている間にも、ショゴスは新たに形成した腕で、自身に突き刺さる霊槍を引き抜きに掛かっている。槍を握ったところから白煙を上げているが、多少のダメージには構うことなく、槍を握り潰した。


 その様子を見ても尚、弥生の調子は変わらない。後ろで霊力の凝固・圧縮を繰り返している愛莉からすれば、そろそろ慌てて欲しい時分だった。


「いいかー天笠。神話生物はな、基本的にあたしたちの常識じゃ測れないんだよ。だから、殲滅するときは常に最悪を想定して戦っておけば、まず問題はない。おまえの言葉だと、コイツは後者の可能性が高いと思っておけー」


 無論。弥生はショゴスについてある程度の知識を有している。奴らは脳と呼ばれる器官を持ってはいるが、それは彼ら自身が後天的に作り出した器官に過ぎない。『古のもの』と呼ばれる存在に創造されたばかりの頃は頭脳などなく、ただの奴隷種族として使用されていた。


 殲滅という観点から語るならば、細胞の一片も残らず駆逐するのがベストな手法なのだ。


 詳しく説明している時間はないということもあるが、それ以上に面倒なので、弥生は多くを語らずに要点だけを征悟に伝えた。


「そういや、こういうおどろおどろしいのと相対するのは初めてだ。これは新しいステージを用意したってことかね……。いやはや、勉強になる」


 獰猛な笑みを浮かべながら征悟は新たな瓦礫を手にし、弥生は新たな霊符を構える。それらが投擲されるのも厭わず、ショゴスはまたしても肉体を蠢動させ、新たな器官を生成し始めた。より効率的に人間を始末できる形態へと。大部分は蠕動を繰り返す最中、先程固定化させた豪腕がズルりと伸びて、又も征悟に向かって振るわれる。


 遠距離から石礫をぶつけるだけでは埒が明かないと判断したのか、天笠征悟は固く握った拳を突き出す形でショゴスの攻撃を迎え撃った。


 一撃で豪腕が弾け飛ぶ。


 しかし征悟は拳一つで攻撃を終わらせるつもりなど毛頭なく、ショゴスへ肉薄すると何度となく拳を打ち付けた。クロスレンジでのインファイト。正気の沙汰とは思えない戦法だが、彼の乱打がショゴスの動きを押し留める。


 やがてショゴスの体表からは粘性が消え、鋼のように硬質化し始めた。


 一方で、神話生物と殴り合いを演じる征悟を横目に、弥生は攻め方を変えていた。霊符に霊力を込め、武具を模し、投擲するだけではショゴスに傷一つ付けられなくなったためだ。


 ショゴスの体表からは可塑性が無くなり、如何なる圧力にも変形しない理想的な剛体といった様相を現し始めていた。よって、弥生が放つ霊刃はその鋼の如き皮膚に弾かれてしまう。


 弥生たちの攻撃に、ショゴスが対応し始めているのだ。硬い殻に閉じ籠もり、決定的なチャンスを伺っているようで、気を抜けば言い知れぬ不気味さに呑まれそうになる。


 そして弥生が選択した新たな攻め手は、火行符。符を通し、烈火へと変換された霊力はショゴスの肉体を焼き払う。だがそれも肉体の一部を煤にするだけに留まってしまう。


「愛莉ー」


 焦れてきたのか、はたまた面倒になっただけなのか、弥生は先程から自身の背後に控えている愛莉へと言葉を投げた。


 愛莉からの返答はない。ただ――


心象兵装(オーナメント)招来(インストール)


 影沼も口にしていたキーワードが調べのように流れ出て、神話生物を滅ぼさんとする明確な殺意が場に溢れ返る。


 圧縮する霊力。凝縮される秘跡。途轍もない存在感が、形を成して愛莉の手の内に顕現する。


 月から零れ落ちた雫を掬うような神秘性を伴い、愛莉の掌に収まった物は、黄金色に輝く回転式拳銃だった。無骨さなど欠片もない流麗なフォルム。一点の曇りもない銃身は、気品に満ちた貴婦人のよう。グリップ部には勝利を意味するテュールが幾重にも刻み付けられている。その有り様は人殺しの道具ではなく、一級の芸術品として扱うのが相応しく感じられる。


「――『マーチ・トリガー』」


 七枷愛莉は自身が持つ最強の手札をそう呼称した。


 背後でおこった絶対的な異変を察し、天笠征悟はショゴスの眼前から飛び退く。


 直後、銃口が火を吹いた。


 征悟が退避したかどうかなど問題ないといった態度で、愛莉は引き金を引き絞った。諸共で構わないといったいい加減な心持ちで撃ったわけではない。彼女の顔には、絶対に狙った獲物のみを射抜くという確信の色が浮かんでいる。


 ショゴスに向かって発射された弾丸は、愛莉の理想通りショゴスの肉体を穿ち抜いた。肉が弾け、風穴が空く。征悟と弥生の牽制によって、奴の皮膚は硬度を増していたにも関わらず、障子紙を破るように容易くだ。


 少女の細腕で支えられる反動だったにも関わらず、その威力は対物ライフルと何ら遜色が無い。榴弾が炸裂したかのようなダメージがショゴスを蝕む。


 加えて、ただ威力が高いだけには留まらない。如何様な術が施されていたのか、肉体を貫通した弾丸は颶風を纏い大きく弧を描くと、背後からショゴスに喰らいつく。狭い範囲を縦横無尽に翔けながら、神話生物の体積を悉く削り取っていく。その様は、銃弾自身が意思を持っているかのよう。


 解き放たれた弾丸は、間もなくショゴスを仕留めるだろう。だが、愛莉は冷徹に瞳を光らせると、続け様に引き金を五回引いた。


 ショゴスが踊る。文字通り身を削りながら、一定の間隔で肉体が弾けていく。その姿は無様なマリオネットのようだった。どんなに乱暴に糸を振り回されようとも、人形が操者を害することなど出来はしない。


 隙の無い弾幕結界は徐々に狭まり、暴虐な龍の顎によって弄ばれたが如く、神話生物の身体を喰い散らかす。


 一線を、画している。


 時間を稼いでいた弥生の魔術も、単体ならば恐ろしく冴え渡った一流の術であった。だが、愛莉が放つ弾丸に比べれば、それも児戯に感じてしまう。


 再装填(リロード)


 新たに六発の銃弾を解き放ち、計十二個に及ぶ死がショゴスへと殺到する。


 一発目の弾丸が発射され、ものの数分でショゴスは拳大の肉塊へ分割された。その取り零しとも言うべき肉片は、弥生が火行付を放つことで、煤塵へと存在を転じた。愛莉たちの頭上から飛来した時は、建築物と比較できる大きさだったにも関わらず、それが今や、見る影もない。


 そして最後の一片へ向けて、十二個の穿孔機は無慈悲に死を宣告した。


 塵は塵に。灰は灰に。そんな聖書の一節を体現するかのように害悪は滅び、僅かな煤だけがこの世に留まることを許された。


 そして神話生物を滅却したことで役割を終えた弾丸は、そのまま地面へと弾痕を残す。


 事が終息する様を眺め、征悟は軽快な口笛を吹いた。茶化しているような軽やかな音色は、場の緊迫した空気を和らげる効果を果たす。愛莉と弥生の視線は、自然と音源へ吸い寄せられた。


 その単調な一音を契機に、三人はショゴスの乱入によって中断された会話を再開する。


「さってと。話の腰を折られちゃったけど、そろそろ本題に戻りましょうか」


 何事も無かったかのように愛莉が口を開いた。そして銃口を征悟へ向ける。


 リロードを終えていない弾倉は、当然空っぽ。凶弾を孕んでいない回転式拳銃は、黄金色に輝く美麗なオブジェでしかない。それでも、常軌を逸した銃撃は逃亡という選択肢を封じるには十分な抑止力となる。


「私たちに、付いて来てくれるわよね?」


 手にした凶器が与える重圧とは裏腹に、愛莉は気楽な語調で征悟に問いかけた。


「おう、いいぜ。なんだか、面白くなってきたところだしな」


 成り行きを面白がるように笑いつつ、征悟は答えた。銃器を向けられていることなど、眼中に無い口調で。緊迫感など欠片もない姿勢には、愛莉の方が鼻白んでしまう。


「なら愛莉ー。報告は任せたー」


 楽をするための努力なら、欠片も惜しむことはない。息抜きを味わうために、杜撰な対応を憚らない。性格に難がある同僚は、ショゴスとの一戦でやる気を使い果たしているようだった。長髪が地面に接することも気にせずに彼女はその場にしゃがみ込む。その挙動から底無し沼に沈むような印象を受けるのは、戦闘中と覇気の落差が激しい所為だろう。


 黄金の回転式拳銃は空気に溶けるように消え、愛莉はインカムへと声を吹き込む。


 オペレーターにショゴスとの戦闘を終え、これから天笠征悟を〈事務局〉まで連行する旨を報告した。ついでに、今にも波打つアスファルトをベッドにしそうな友人のため、位置情報も告げる。


『了解しました。ただちに運送班の者を手配します』


 機械的な応答は淡々としたものだ。これで〈事務局〉までの移動手段を確保。あとは舗装が整っている道路まで移動し、迎えの車を待つだけだ。


 一段落付いたような錯覚が生まれ、愛莉は深く息を吐く。


「まあ、この徒労感じゃ弥生の自堕落っぷりに磨きがかかるのも仕方ないか」


 愛莉は苦笑を漏らしながら独りごちる。


 彼女が本来与えられた職務は、影沼徹の捕縛であった筈なのだ。それがどうしてか、神話生物の討伐と民間人の身柄確保が任務に割り込み、肝心の標的には逃げられる始末。


 何一つ終わってなどいない。何一つ全うできていない。まさに、骨折り損のくたびれ儲け。


「何か知らんが気を落とすなよ。一応アレも大物なんだろ? 俺が見つけた時はマンホールから湧き出て来たんだぞ。あんなのが都市の地下で蠢いてるなんて、割りと絶望的な状況じゃあないか。一つの懸念事項を解消できたんだから、それで良しとしとこうぜ」


 やるせない気持ちを持て余していると、そんな風に慰めの言葉を掛けられた。愛莉が声の主に視線をくれると、天笠征悟と名乗った少年は瓦礫に腰掛けて愉快そうに笑っている。自分の立場を分かっているのかいないのか、その態度は現状を楽しんでいるかのようだった。


 七枷愛莉が判断することではないが、彼の処遇もまた、頭を悩ませる問題の一つには違いない。一時的に共闘を許したものの、彼が何者なのかは依然として謎のままなのだ。


 改めてここで誰何をしておくべきか悩む愛莉だったが、彼女の思考を弥生の言葉が遮った。一瞥しただけで愛莉の考えを察したのだろう。弥生は逡巡する愛莉を窘める。


「なー愛莉ー。こいつが誰かなんて、今はどうでもいいことだろー。それよりも、下手な問答をして逃げられた方が面倒だ」


 何よりもさー、こいつが逃げたら誰があたしを車まで運んでくれるんだよー。と、荒れた地面に腰を下ろし、弥生は心底から怠惰に満ちた声を発した。


 呆れ返る。愛莉だけではない。


「いつから俺がお前を運ぶことになってるんだよ」と、これには征悟も苦笑を漏らした。


 むしろ弥生の警戒心の無さに恐れ慄きそうになる愛莉だが〝歩み寄る姿勢を見せている相手に突っ掛かることは言うなよ〟と、彼女の巫山戯た物言いをこれ以上は無理という程に好意的に解釈する。


 弥生は自分が歩きたくないからおぶれと本気で言っているのだろうし、質疑応答をするにしても、お茶とお茶請けを飲み食いしつつ行いたいといった本音が見え隠れしているのだが。


 はあ、と愛莉は溜息をつく。そして、征悟に視線をやった。


「悪いけど、この怠惰なお姫様を運搬してもらっても構わない?」


 彼が突然凶行に及んだとしても、それは弥生の自己責任。彼女の人を見る目が無かっただけの話だ。万が一の場合はのんびりと彼を撃ち殺す心算で、愛莉はそう問い掛けた。


「運搬って、完全に荷物扱いだな。……まあ、運ぶくらいなら構わないけど」


 笑いながら、彼は瓦礫から腰を上げた。ジャケットの裾やパンツに付いた砂礫を払い落とし、弥生の元へ歩み寄る。そして無造作に弥生の両手を掴むと「取り敢えず一回立とうな」と、弥生を強引に引っ張り上げた。両手を上げて力無く立ち上がる様は、弥生から覇気を感じないことも相俟って、研究所に連行されるリトル・グレイを連想させた。


 征悟が弥生を女性として意識していないことは傍目からも十全に感じ取れる。先程彼女を荷物扱いしたばかりの愛莉だが、うら若き乙女の尊厳が現在進行形で踏み躙られているとなると、流石に同情を禁じ得ない。


「おー、こらー。もっと丁寧に扱えー。乙女をなんだと思ってやがる」


 口では抗議しつつも、彼女の両腕は征悟の首へと回されて、すでに重心を彼に預けているようだった。客観的に見れば若い男女が抱き合っているというのに、この色気の無さはどうしたものか。


 初対面の異性が身を寄せ合っているというのに、どぎまぎした心理変化が一切見られないことがその原因だろう。互いに運搬作業と割り切っているのか、征悟は自然な動作で弥生の背と膝裏に手を回し、弥生もそれを抵抗なく受け入れている。


 一瞬の内にお姫様抱っこを実行する二人だが、愛莉の貞操感からすれば信じられない感覚だった。弥生の常識を疑うことは恒例化していて然程気にならないが、この少年も中々に世間ズレしているようだ。


 辟易とした溜息を大きく吐き出し、愛莉は征悟を先導するように歩き始める。


 そういている間にも愛莉が手配した装甲車が到着。三人が乗り込むと、車は〈事務局〉へ向けて発進する。


 座席に座った途端、電池が切れたように紅谷弥生はシートに寝そべる。こちらはいつも通り。そして人生で初めての体験を味わっているであろう征悟へと愛莉が視線を向けると、彼は何の気負いもなく寛いだ様子で座席に腰を下ろしていた。


 ふと、天笠征悟と視線が交わる。


「なんだか浅からぬ縁になりそうだし、よろしくお願いするぜ」


 愛莉の視線の先で、快活に笑いながら彼はそう宣った。


 色々と信じられないことが起こった一夜だったが、それでも七枷愛莉は天笠征悟と出会った。この出会いが、彼女の運命を捻じ曲げるまで、あと数日も掛からない。

 

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