第31話:官僚の沈黙(情報の停滞)と予算の檻
王都の中央財務府。そこはかつて、情報の独占によって王国の富を恣にしてきた官僚たちの聖域であった。しかし今、その聖域を支配しているのは、冷徹な筆の音と、場違いなほどに若々しい子供たちの足音だった。
第30話において王国そのものを実質的に管理下に置き、経営権を掌握したカナリス・ヴァン・ベルクは、間髪入れずに王国の全財産と負債の再調査を開始した。彼女が求めたのは、過去20年分の徴税記録、王領地の資産目録、そして聖職者や門閥貴族への補助金支出の全容である。
しかし、そこに立ちはだかったのは、物理的な城壁よりも堅牢な「官僚の沈黙」であった。
財務府の長官である老貴族、ピエール侯爵は、積み上げられた埃まみれの書類の山を前に、優雅に茶を啜りながらカナリスを見下ろした。
ピエール:「……やれやれ、辺境の女会計士殿。陛下との契約は承知しているが、ここは王都だ。記録は複雑怪奇に絡み合い、素人が一朝一夕に解き明かせるほど単純ではない。……あいにく、担当の書記官たちは皆、急な流行り病で休暇を取っていてな。記録の場所を知る者がおらんのだよ」
財務府の広間には、仕事の手を止めた文官たちが椅子に深く座り込み、嘲笑を浮かべてカナリスを眺めていた。情報を淀ませることで権威を保ってきた彼らにとって、業務の放棄は、外部から来た改革者を無力化するための最強の防衛策だった。
カナリスは、金縁の眼鏡を指で静かに直した。
カナリス:(流行り病、ですか。不衛生な情報の淀みが原因かもしれませんね。ピエール殿、あなたがたの協力は、もはや期待していません。期待は不確実な変数であり、私の帳簿には計上しませんから)
カナリスは背後の扉を開けると、テオを呼び入れた。
カナリス:「テオ君、入ってください。ここが今日からの君たちの職場です」
現れたのは、ヴァイス領の育成校でカナリスが手塩にかけて育て上げたジュニア・監査官たちだった。テオを筆頭とした十数人の少年少女たちは、見たこともない奇妙な記号木札と、精緻な計算盤を抱えていた。
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文官たちの嘲笑が、驚愕へと変わるのに時間はかからなかった。
テオたちは、カナリスが教え込んだ記号簿記とマニュアル化された監査手法を、王都の最高機関へと持ち込んだのである。彼らにとって、難解な言語や複雑な装飾語は関係ない。ただ、モノの動きを示す記号と、それに対応する対価が左右で一致しているか否か。それだけを、機械的な速度で突き合わせていく。
テオ:「ベルク殿! この『教会の聖具修復費』の木札、支出先が貴族の社交クラブの『ワイン代』の記号と整合しています。不自然な淀み……裏での不当な利益の還流を検出しました!」
カナリス:「修正仕訳。該当する支出を『回収不能な損失』として再分類してください」
官僚たちが隠蔽していた情報の隙間を、偏見のない子供たちの目が次々と暴き出していく。彼らは、官僚たちが数十年かけて複雑化させてきた、お小遣い帳レベルの単式簿記を、瞬時に複式簿記の論理構造へと組み替えていった。
カナリスは、テオたちが抽出したデータをもとに、一つの巨大な王国再建予算案を描き上げた。彼女が導入したのは、王国全体の支出をそれぞれの役割ごとに明確に切り分ける、機能別予算の仕組みである。
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翌朝。王宮の最高評議府。 昨夜一晩で書き上げられた報告書を前に、大臣たちは憤死せんばかりに激昂していた。
大臣:「無礼な! 門閥貴族への伝統的な儀礼補助金を一律カットだと!? さらに、我が部署が管理していた名誉維持費をすべて道路補修と下水整備へ強制配分するとは、何の真似だ!」
カナリスは、騒然とする広間の中心に立ち、冷徹な一撃を放った。
カナリス:「大臣。あなたの部署がこの一週間で生んだ価値は、私の帳簿上では『ゼロ』です。それどころか、情報の秘匿による行政の停滞という、無駄な損失を発生させている。付加価値を生まない組織に、民の税……すなわち貴重な資本を投じる理はありません」
大臣:「な、何だと……! 伝統をゼロと言い切るか!」
カナリス:「伝統は流動資産ではありません。もし、あなたがたが予算を必要とするなら、来週までに自身の部署が生み出す将来期待できる収益を数値化して提出してください。私の『予算の檻』は、整合性のない支出を一銭たりとも許しません」
官僚たちの怒りは頂点に達し、彼らは団結してカナリスを物理的に排除しようと動き出した。
評議官:「辺境の魔女を王都から追放せよ!」
不穏な声が財務府の廊下に満ちようとした、その時だった。
グロック:「――おい。さっきから聞いてりゃ、随分と騒がしいじゃねぇか。古狸ども」
重厚な扉を蹴破らんばかりに開け、グロックが姿を現した。彼は不機嫌そうに剣の柄をガチャリと鳴らすと、カナリスの横にどっかと座り込み、官僚たちを射抜くように睨みつけた。
グロック:「なぁ。俺の相棒はさっきから数字が合わねぇって、理屈を並べてやってるだろ。だが、俺はバカだから、そんな難しいことはわからん。俺に分かるのはな、お前ら全員の『態度が気に入らねぇ』ってことだけだ」
グロックは一歩、また一歩と、ピエール侯爵の目の前まで踏み込んだ。
グロック:「お前らが仕事をしないせいで、カナのペンが止まる。カナのペンが止まれば、俺の領地の連中のスープが薄くなる。どっちの理屈が先に通るか、俺の剣と、お前らの不整合な首で、今すぐ試してみるか?」
剥き出しの殺意に、ピエール侯爵は持っていたティーカップを落とし、ガタガタと震え出した。
グロック:「カナ。あとの書類のことは任せるぜ。俺は、こいつらが二度と流行り病なんて言い出さねぇように、出口のところで『検疫』をしててやるよ」
グロックの放つ圧倒的な重圧により、官僚たちの業務放棄は一瞬にして霧散した。彼らは慌てて机に戻り、震える手で羽ペンを握り始めた。
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夕暮れ時。かつて情報の墓場だった財務府には、テオたち子供監査官による情報の循環が生まれていた。カナリスは、自身の帳簿に「中央財務府:管理権の確立」という項目を書き加え、その末尾に小さく「整理完了」と記した。
カナリス:(不純物を排除し、予算という名の檻で組織を縛り上げる。これでようやく、この国を経営するための土台が整ったのだ)
カナリスは眼鏡を外し、窓の外に広がる王都の夕闇を見つめた。行政の淀みを正し、国家の血脈を強制的に流し始めた勝利の充足感。だが、その静寂を、血相を変えて駆け込んできたテオが破った。
テオ:「ベルク殿! 大変です! 王都の中央市場から、突如として物資が消え始めました! 特に『塩』と『油』が、商人ギルドの号令で一斉に店先から引き上げられています!」
カナリスの手が止まった。官僚という行政の淀みを掃除した直後、今度はフーガー商会の差し金による実体経済の兵糧攻めが、牙を剥こうとしていた。
カナリス:(……想定内ですね。情報の檻に閉じ込められた者が次に狙うのは、物理的な『供給網の遮断』ですか。実地での略奪が始まった、ということですね)
王都の冬に、寒気よりも鋭い「飢え」の予感が忍び寄っていた。




