第3話:帳簿の綻びと鉄の断罪
北の最果て、ヴァイス領の入り口にある村は、静かな絶望に包まれていた。
馬車を降りたカナリス・ヴァン・ベルクの目に飛び込んできたのは、ひび割れた大地と、力なく地べたに座り込む領民たちの姿だった。
村の中央にある広場では、立派な革の外套を羽織った男——代官が、壇上から領民たちを冷酷に見下ろしていた。
代官:「ええい、何度言えばわかるのだ! 今年の不作は天の怒り、天候不順による理不尽な天災だ。収穫は昨年の半分にも満たず、次の植え付けに必要な種籾すら尽きかけている。領主閣下への納付など夢のまた夢。お前たちに分かつ麦など、この倉には一粒も残っておらん!」
領民:「そんな……種籾まで尽きたら、来年はどうすればいいのですか。このままでは冬を越せずに死んでしまう……」
代官:「黙れ! 文句があるなら大地の神に言うがいい。記録にはそう記されているのだ。文字も読めぬお前たちが、理に口を挟むな!」
カナリスは、金縁の眼鏡を指で押し上げ、広場へと歩み出た。代官の言葉の端々に混じる「淀み」が、不快な雑音として耳に響いていた。
カナリス:「……少々、よろしいでしょうか」
代官は、突然現れた見慣れぬ女を不審げに睨みつけた。
代官:「何だ、貴様は? 女の身で、しかもこの最果ての地に何の用だ」
カナリス:「カナリス・ヴァン・ベルクと申します。財務の心得ある者として、こちらの領主閣下が招聘されている財務顧問の職に応じるべく参りました。……ですが、その前段階として。代官殿、あなたが今仰った『記録』を、私に検分させてはいただけませんか。この村の過去三年の収穫記録と、直近の報告書を。理を正さねば、信義は守れません」
代官は鼻で笑った。
代官:「はっ、王都の令嬢が算術の真似事か。いいだろう。記録の正しさを知って、己の無力さを思い知るがいい」
数刻後。
カナリスは広場の石段に座り、用意させた粗末な木机の上に二つの古びた帳簿を広げていた。周囲では、領民たちが不安げに見守り、代官が退屈そうに鼻を鳴らしている。
だが、カナリスはその喧騒を完全に遮断していた。彼女の指先は、羊皮紙に記された数字の一行一行を、病的なまでの誠実さでなぞっていく。
(……やはり。稚拙な帳簿の誤魔化しね。収穫の記録に、物理的な整合性がない)
カナリスの脳内では、前世の「信金融資担当」としての冷徹な思考が高速で回転を始めていた。
(作付面積に対して種籾の投入量が変わっていないのに、収穫高だけが不自然に半減している。天候不順を言い訳にしているけれど、それなら藁の残り具合も変わるはず。それに、特定の倉だけ不自然なほどの『腐敗による損失』が記録されている……。要は、収穫があったのに『なかった』と帳簿に書いている。種籾が消えた分だけ、誰かの懐に入っている)
日が高くなり、傾き始めた頃。カナリスは静かに帳簿を閉じた。
彼女は立ち上がると、いまだ壇上でふんぞり返っている代官へ、帳簿を手にしたまま向き直った。視線は代官の顔ではなく、手元の帳簿の行末に落としたままだ。
代官:「何だ、その不気味な図面は。そのような紙切れで何が分かると言うのだ」
カナリス:「そうですね。……ただ、私の手元の帳簿は、あなたの言葉とは違うことを言っています。代官殿、特定の三つの倉において、過去二回、収穫の三割が『腐敗』により失われたと記録されていますね。しかし、同時期の降水記録と気温の推移を検分するに、穀物がそれほど急激に傷む理は見当たりません」
代官:「き、貴様……! 天候など、年によって異なるものだろう! そんな古い記録を持ち出して、何が言いたいのだ!」
カナリス:「……天候が原因なら、腐敗は倉全体で起きるはずです。なぜ、この三つの倉だけが毎回同じ割合で傷むのでしょう。倉の構造に問題があるのなら、修繕の記録があるはずですが、それも見当たりません」
沈黙。
カナリスは代官の目を初めてまっすぐ見据えた。
カナリス:「……つまり、あなたが今おっしゃっていることは、この数字では証明できません」
逃げ場のない静寂が、代官を追い詰める。
代官:「き、貴様……っ! 適当な数字を並べて、私を愚弄するつもりか!」
グロック:「――いいや。愚弄されているのは、俺とこの地の民の方だな」
人だかりを割って、一人の男が現れた。
夜の嵐を思わせる黒髪に、鮮やかな青いメッシュ。吸い込まれるようなサファイアブルーの瞳は、野生動物のような無遠慮な好奇心に輝いている。ヴァイス領主、グロカール・フォン・ヴァイス。
グロックは代官を一瞥し、低く言い放った。
グロック:「その腐敗損の倉、俺も以前から気になっていた。確かめに行ったら鍵が新しく変わっていた。代官、説明しろ」
代官の顔から、急速に血の気が引いていく。
(……好都合ですね。帳簿の綻びと、領主の証言。これで十分です)
カナリスは内心でそう判じながら、表情ひとつ変えなかった。
領民たちの間に、低く唸るような怒りの声が広がり始めた。
グロックは周囲を威圧する覇気を纏いながら、カナリスの至近距離まで歩み寄った。
グロック:「お前、面白いな。俺は数字を見ただけで頭痛がするが、お前の言葉を聞いていると、この古狸の嘘が剥がれ落ちる音が聞こえるようだ」
カナリス:「……領主閣下。距離が近すぎます。三歩、下がっていただけますか。実務の妨げになります」
カナリスは眉一つ動かさず、無機質な声で告げた。グロックはその反応に、不敵な笑みを深くした。
グロック:「連れて行け。俺の民を飢えさせた落とし前は、お前の体で払ってもらう」
兵たちに引き立てられる代官の叫びが遠ざかる。
グロックは再びカナリスに向き直った。その眼差しにあるのは、もはや単なる興味ではない。渇望していた「領地を救うための何か」を、ついに見つけた者の確信だった。
グロック:「カナリス・ヴァン・ベルク。お前のその冷徹な数字、俺のために使え。この破綻した領地の差配、お前にまるごと預けてやる」
カナリスは金縁の眼鏡の位置を直し、初めてグロックの瞳を真っ向から見据えた。
カナリス:「職を請うのは私の方ですが、条件の提示が先決です。私はもう、誰かの評価のために自分を曲げるつもりはありませんので」
不毛の地に吹き抜ける風が、彼女の髪を揺らした。
理による変革の第一歩が、今、刻まれようとしていた。




