第2話:蘇る魂と北への道
メルシエ家の豪奢な門が、背後で重々しく閉ざされた。カナリス・ヴァン・ベルクは、夜明け前の冷たい静寂の中に立ち尽くしていた。風は鋭く、身体を締め付ける重厚なドレスは、今や彼女を拘束する鎖にしか感じられなかった。
その時だった。
先ほどロランが放った言葉が、頭の中で反響していた。
「共倒れになればいい」
その一言が、引き金だった。
カナリスの脳が、勝手に動き始めた。ベルク男爵家の負債総額。メルシエ家が肩代わりを撤回した場合の返済期限。差し押さえられる資産の順序。親族の収入から逆算した返済能力——。
数字が、意志とは無関係に積み上がっていく。
(……なぜ、こんなに自然に計算できる。私は、これを知っている)
記憶の奔流が、彼女の意識を飲み込んでいく。それは今世のカナリスが知るはずのない、遥か遠い異郷の、しかしあまりにも鮮明な光景だった。
地方の、どこまでも続く田園風景の中に建つ、古びた信用金庫の建物。そこは、彼女の戦場だった。実家は兼業農家で、幼い頃から泥にまみれて育った。土の匂い、収穫の喜び、そして天候一つで生活が崩れ去る農家の危うさを、誰よりも肌身に染みて理解していた。だからこそ、彼女は数字を武器に選んだのだ。
机に積み上げられた、町工場の財産台帳や商人の不格好な出納帳。その一行一行を、彼女は厳しい目で検分し続けていた。時に「融資」という名の命綱を差し出し、時に「このままでは立ち行かない」と、冷徹に、しかし誠実に相手の喉元を突き続けた。休むことも、己を労わることも忘れて。薄暗い事務所で、計算盤が手から滑り落ちた瞬間のことは、もう思い出せない。気づいた時には、すべてが終わっていた。命の灯火を、仕事という名の炎で燃やし尽くしたのだ。
カナリス:「…………」
金縁の眼鏡を指で押し上げる。前世の記憶が戻った今、ロラン・ド・メルシエの放った罵詈雑言は、もはや彼女の心を傷つける刃にはなり得なかった。「冷たい計算機」という蔑称すら、実務家としての最高の賛辞に聞こえる。絶望に震えていたはずの心は、鏡のような凪へと変わっていた。
カナリス:「……よかった。これで、すっきりしました」
彼女は一度も振り返ることなく、実家であるベルク男爵家へと歩き出した。
ベルク男爵家の屋敷に戻ったカナリスを待っていたのは、安堵の言葉ではなく、汚泥を投げつけるような罵倒の嵐だった。
親族:「この家門の恥晒しが! メルシエ家の慈悲を無下にするとは、どれだけ恩知らずなのだ!」
応接間に集まった叔父や従兄弟たちが、口々にカナリスを責め立てる。父であるベルク男爵は、ただ苦虫を噛み潰したような顔で沈黙を守っていた。彼らにとって、カナリスは一族を借財から救うための、高価な「商品」に過ぎなかった。その商品が結婚初日に返品されたのだ。その憤りは、もはや理性の範疇を超えていた。
親族:「お前という女は、昔から可愛げがなかった。数字ばかりを追い、夫を立てることも知らぬ。不吉な眼鏡女め! ベルク家の負債はどうするつもりだ!」
カナリスは帳簿に視線を落としたまま、指で静かに、手元の茶器の縁をなぞった。その瞳には、親族たちの激昂など一切映っていない。
カナリス:「……取り乱されても、何も変わりません。私に対する罵倒に時間を費やしても、男爵家の借金は一銭も減りません」
親族:「な、何だと……!?」
カナリス:「離縁の証書には、私の過失を問う文言はありません。婚姻を解いたのは先方の意向によるものです。私の落ち度ではございません。ただ、資金の提供が止まったことは理解しております」
彼女は顔を上げ、冷徹なまでに落ち着いた声で告げた。そのあまりに無機質な態度に、親族たちは気圧されたように口を噤む。
親族:「……ふん。ならば、さっさと厄介払いをしてやろう。北の果て、ヴァイス領の領主が会計の心得ある者を探しているという。没落寸前の、石ころと氷しかない不毛の地だ。そこへでも行け。二度とその不吉な顔を見せるな」
ヴァイス領。王国でも最果てに位置し、荒廃しきった辺境として知られている。親族たちにとって、それはカナリスに対する最後通牒であり、事実上の追放宣告だった。だが、カナリスの唇は、わずかに、本当にわずかに弧を描いた。
カナリス:「承知いたしました。明朝、発ちます。ベルク家との関係も、これで終わりということでよろしいですね」
実家への未練は、一滴たりとも残っていなかった。
北への道中。中継地点となる街の商人組合にて、カナリスは馬車の乗り継ぎと物資の手配のために立ち寄っていた。受付の男は、カナリスが差し出した旅券を一瞥すると、小馬鹿にしたような笑いを浮かべた。
受付:「女の一人旅か。身分があるようだが、契約を結ぶには男性の保証人が必要だ。父か夫の署名を。……まさか、連れに捨てられたわけではあるまいな?」
周囲の行商人たちが、好奇の目をカナリスに向ける。だが、カナリスは動じなかった。彼女は懐から、ロランの署名が記された離縁の証書を取り出し、無機質な動作で受付の机に置いた。
カナリス:「王令第24条第3項。離縁したる女性には『単独活動の権利を持つ女』の地位が認められ、男性の庇護なしに一切の商取引を行う権利が保障されています。 保証人など不要です。さあ、手続きを進めてください」
受付:「な……っ。フェム・ソールだと……?」
男の顔が驚愕に染まる。離縁した女性が自らの権利をこれほど毅然と、しかも法の条文を正確に引いて主張することなど、この辺境に近い街では前代未聞だった。居合わせた行商人たちは、その金縁の眼鏡の奥に宿る、氷のように研ぎ澄まされた意志に圧倒され、言葉を失った。
手続きを終えたカナリスは、一人、馬車に乗り込んだ。揺れる車内で、彼女は自らの筆を確認する。
(誰の評価も、誰の庇護も、もういらない。私は私の筆一本で、己の人生を記していく。それが、前の人生で燃え尽きた私が、この世界で手にした唯一の財産なのだから)
数日の旅を経て、馬車はヴァイス領の入り口にある村に辿り着いた。そこは、想像を絶する惨状だった。土は乾き、民の顔には覇気がない。立ち並ぶ家々は補修もままならず、村全体に澱んだ沈黙が流れている。
村の広場では、着飾った革の外套に身を包んだ代官が、痩せこけた村人たちを見下ろして声を張り上げていた。
代官:「ええい、黙れ! 備蓄が尽きたなど嘘を申すな! 領主閣下への納付が滞れば、貴様ら全員、この地を追い出すぞ。納付は絶対だ、不可能など認めん!」
村人:「そんな、無茶な……。冬を越すための麦すら、もう……」
絶望に沈む村人たちの姿を、カナリスは馬車の窓から静かに見つめていた。彼女は無機質な動作で、旅鞄の中から使い古された一冊の帳簿を取り出した。
カナリス:「…………」
帳簿の表紙を撫で、彼女は馬車の扉を開ける。その足取りは、もはや迷える令嬢のものではなく、理を正すために現れた、冷徹なる実務家のものだった。
カナリスの指が、帳簿の最初のページを開く。次なる戦場の数字を、暴くために。




