Ⅳ決戦
戦闘は翌日の昼ごろに始まった。
出撃したユルゲニス籠城軍は幾つもの集団に分かれて、封鎖施設の全周各所へ攻撃を開始した。
兵力の分散投入は、本来なら愚挙に他ならないが、この場合においては正しい。籠城軍の戦力だけでもエルトリア軍の五倍になる。これだけの物量を一箇所に投入しても渋滞するばかりで効果が薄い。むしろ全周に亘って攻撃すれば、元から兵力の少ないエルトリア軍をさらに分散させることができた。
エルトリア軍は城砦にこもって各所で防戦に入ったが、あちらこちらで劣勢を強いられている。
先日の戦闘では問題なく下した相手だというのに、今日はそれができないでいた。先日のように工事現場を放棄して密集隊形を作れないからだ。包囲を破らせまいと要塞を死守するなら、おのずと兵は分散せざるをえず、集団が少人数になるほど四倍、五倍という数の差が効いてくる。加えて久しぶりの充実した食事を与えられ、救援軍到着の報を得て、ゴルニア軍の士気が高まったことも要因のひとつであった。
出撃したゴルニア籠城軍は担いできた柴束を落とし穴に放り込み、板を渡して壕を渡り、次々と突破してくる。対するエルトリア軍は投槍や弓で応戦するものの、その数は明らかに不足していて、満足な足止めさえ期待できなかった。
梯子を立てかけて土塁をよじ登ろうとするゴルニア兵に、上から岩を落とし、また長柄武器で突き落として何とか防戦しているものの、最も防備の弱かった幾つかの部分では、土塁の上に築いた胸壁を挟んでの小規模な白兵戦に持ち込まれていた。
その中でも激戦を繰り広げているのは、封鎖施設の北側にある陣地だった。決戦に臨んでいまだ未完成だった陣地は、両軍ともに攻防戦の焦点と目していた場所でもある。
ゴルニア軍は物量に任せて障害物を乗り越え、すでに土塁の上で両軍入り乱れての戦闘が起こっていた。そうした状況下で鋭く剣を煌めかせながら、トゥリアスは白兵戦の最中に身を置いている。
ゴルニア軍はこの陣地にもっとも分厚い戦力を叩きつけて来た。完成したのが一重の堀と土塁だけという陣地では、とても持ちこたえられない。そのためトゥリアスは本陣の予備戦力を率いて救援に駆け付けて来たのだ。
「ガイウス! 無事か!」
直率してきた二個中隊に、苦戦を続けていた味方を援護させながら、トゥリアスは目に付いた百人隊長の肩を掴んで呼びかけた。
ハッと振り返った百人隊長は、大小の傷を負っていたが、ことに左腕の刀傷は深かったようで、腕が真っ赤に染まっている。傷口に乱暴に巻き付けられた布が、応急手当を受ける事も出来なかった激戦を物語っている。
「傷はどうだ? まだ戦えるか?」
「無論です。どのみち後ろに下がる余裕もないでしょう」
「うむ。……今のうちに体勢を立て直せ。各所に出払って、もう本陣に予備戦力はない。敵の展開如何によってはここからも兵力を抽出せねばならんぞ」
「それほどですか?」
猛攻にさらされたガイウスたち守備隊は、よその状況を観察する余裕もなかったのだろう。苦戦しているのが自分たちだけではないと知らされて、顔を曇らせた。
「善戦しているが、いつどこが崩壊してもおかしくはない。そういう状況だ。分かったら、部隊の再編を急げ」
「ハッ」
部下を掌握するためにその場を離れたガイウス百人隊長を見送って、トゥリアスは額から鼻筋へと伝った汗を指先で拭った。
陣地を巡る攻防戦は、トゥリアスの率いる援軍によって、エルトリア軍が盛り返しつつあった。壊乱しかかっていた部隊は、救援部隊の作り出した壁の後方で再編されて、前線に復帰する準備を整えている。ひとまずはこれで問題ない。
守備隊は救援部隊を加えても約千と言ったところだが、一方で攻め寄せる籠城軍も六千前後だ。各所に分散し過ぎて、要所に戦力を集中しきれていない。加えて統率がほとんど取れておらず、しゃにむに突っ込んでくるばかりで、状況に応じて攻撃に用いる予備兵力がない。実質的な戦力の層は防御施設に拠って再編を繰り返すエルトリア軍より薄いぐらいだった。
「が、これで終わりではあるまい」
トゥリアスは後方を睨みつけた。偵察によって襲来が確認されているユルゲニス救援軍が、まだ押し寄せていなかった。正確な規模は不明だったが、五万から六万と推測される大軍が後方から雪崩れ込めば、防衛線は各所で破綻する。
エルトリア軍の劣勢も、正面の敵の多さに圧倒されているばかりではなかった。後方の大軍がいつ攻めてくるかが気になって、正面に集中できないでいる。
この救援軍をウェルティスはいったいどう使うつもりなのか。使い方にさほど選択肢があるとも思えなかったが、いまだ確たる動きが見られないことが不安を呼ぶ。
「あるいはうまく連絡が取れておらんのか?」
それはありうる事だったが、そこまで甘くはあるまいとトゥリアスは思いなおした。とにかく、今は出来る限り余力を作っておくことだ。正面の籠城軍を撃退できないまでも、十二分に消耗させ、守備隊の体勢を整えておかなくてはならない。それさえ出来ないようでは、偉大な勝利など夢物語に終わってしまう。
そう思って前線を守備隊に返そうと命令を下しかけたところで、近くに居た中隊長が吼えるような声を発した。将軍、あれを!
血塗れの剣で示されたのは、ユルゲニスの城壁から幾筋も立ち上る、血のように赤い狼煙だった。ゴルニアの神官に伝えられる調合薬を用いた、連絡用の狼煙だった。
それが意味する所は、今の状況においてひとつしか考えられない。
「来る」
総攻撃だ。それは要塞を挟んで位置する救援軍への合図に違いなかった。にしても、不吉な色だ。そう思いながら、トゥリアスは外周守備隊に一層の警戒をさせるようにと言い含めた伝令を走らせた。
狼煙の合図とともにユルゲニスから新たに出撃したのは、ゴルニア王の直率する本隊だった。精鋭とは言えず、数も五千と決定打としては少ないが、最も装備の充実した部隊であり、そして籠城軍に残されていた最後の戦力でもあった。
「行け! 行け! 突破しろ!」
エストリカから奪ったエルトリア式の直剣を頭上に掲げて、ウェルティスは直率する兵団に繰り返し怒鳴りつけていた。
王は最後の決戦に臨んで、顔の戦化粧を特別なものに変えていた。左右を黒と青に塗り分け、その境目に朱色のラインを引いている。黒は地を、青は空を、その狭間にあってひときわ鮮やかな赤は血――すなわち人間を示していた。大地と空と人間、ゴルニアのすべてをこの決戦に賭けるという覚悟の表明に他ならない。
「何としても突破しろ!」
背後に赤い狼煙を背負って、ウェルティスが部隊を率いて攻め寄せるのは、防備の薄い北面だった。
王の気勢に応じて、兵士は吶喊を上げ、押し返されつつあった味方を吸収しながら土塁をよじ登り始める。
「すぐに味方が裏手から攻撃する! そうなれば、このでかい要塞も、奴らの墓標になるだけだ!」
ウェルティスは声を限りに叫んで兵を鼓舞しながら、懐に一抹の寒さを感じないではなかった。興奮の熱気に浮かれ過ぎたのではないかという後悔が、今さらながらに湧いていた。
救援軍は合図に用いた狼煙の色から十万前後と確認できているが、連携のための連絡は十分に確保できなかった。昨夜、夜陰に紛れて伝令を送り、救援軍に作戦概要を伝えていた。敏いサンジェナトスなら、それで十分に連携してくれるはずだが、急場ごしらえの援軍が果たして戦闘に耐えうるものなのか、その質の確認はできていなかった。
期待以上の援軍の規模に浮かれて、俺は事を急ぎすぎたんじゃないのか?
その確信のなさは、天才には初めての感触であり、それだけに不安は拭えなかった。
いや、これでいいんだ。食料だって残り少ない。まして燃料はほとんど枯渇している。日が経てば、それだけ要塞は堅固になる。だから即座の総攻撃は間違っていない。自身に言い聞かせても、感じた不安は合理的な説明だけでは打ち消せなかった。
そもそもが、こんな不安を抱えながら決戦に臨んでいいものなのか?
そんなウェルティスの内心をよそに、部隊はエルトリア軍を押し込みつつあった。すでに土塁の上で白兵戦が展開されていて、エルトリア軍は苛烈な抵抗を示しつつも劣勢は否めなかった。
後方でじっと本命を叩きつける機を狙っていたウェルティスの読みは正確だった。エルトリア軍は一息付けると思った矢先の再攻撃に晒され、明らかに士気が低下している。対するゴルニア軍は、疲労していない新戦力だけではなく、一度は押し返された第一陣も増援の勢いをw得て盛り返している。
このままの勢いで押しまくれば、あるいは救援軍の挟撃を待つことなく陣地の突破も出来そうな形勢だ。
だと言うのに、なぜ不安が消えない? 自問したウェルティスの耳に、戦場の騒乱を縫うようにして、低い管楽器の音が聞こえた。エルトリア軍の使う甲高いラッパではない。ゴルニア軍の使う伝統的な角笛の音だ。ハッとして澄ました耳に、繰り返す角笛の音が連なって聞こえる。
「来たか!?」
土塁を見上げれば、その上に立っていたゴルニア兵の幾人かが剣と盾を打ち合わせていた。
「味方だ! 救援軍が来たぞ!」
幾人もの中継を経て、ウェルティスの耳にもその声が届いた。狼煙の合図を見過たず、救援軍が反対側から押し寄せているのだ。
「よし、勝てる。勝てるぞ!」
不安を振り払うように、あるいは自分自身に言い聞かせるように、ウェルティスは叫んでいた。
「ここまでか」
必死の防衛を続けながら、トゥリアスは胸中に諦めを呟いていた。正面の戦闘で押されつつあった所に、駄目押しとも言える後方からの襲来もあり、陣地のエルトリア軍は急速に崩壊しつつあった。それはトゥリアスの戦歴でも類を見ないほどの速度で進行している。
おそらく救援軍も主力をこちらへ回しながら、各所へ兵力を投入しているだろう。あちこちで同じように防衛線が破綻しつつあるはずだ。となると、守備側の増援は期待できない。
せめて兵力がもう一万もあれば、せめて設備が完璧ならばと、言っても栓ないことばかりが脳裏をよぎる。いや、やはり総督の暴挙を掣肘できなかった自らの失態か。いや、いや、だから今度こそは最後まで戦い抜くと決めたではないか。ここで死ぬとしても、雄々しく戦い抜いて、エルトリアの意地を見せるのだ。
「ここを凌げば、奴らとてもう打つ手はない! これが最後の戦いだぞ。負けて終わらせるわけには行かん!」
恐慌に陥りつつある部下を叱咤しながら、トゥリアスは硬く剣を握り締めた。そう、これを凌ぎ切れば、まだ打つ手は残されている。完全に手詰まりに追い込まれたわけではない。
「閣下、陣地を放棄する許可を!」
が、そのように請願されると、中年男の決意はぐらりと傾いてしまう。この場に踏み止まっても全滅するだけだ。それよりは、ここは退いて部隊を立て直すのが正しい判断というものだ。理性的な判断に気持ちが冷えるのが、はっきりと自覚された。
そう、最後の一手に手をかける以前に、ここを支え切る手立てがないのだ。ここで全滅することに意味などない。ならば――
「ならん!」
甲高い声がトゥリアスの弱気を制止した。
「撤退はならぬ! ここがそなたらの命を賭ける場所だ!」
ぎょっとして振り返った視線の先には、涼やかな金髪をむき出しにした総督の姿があった。黄金の月桂冠を戴き、背に赤いマントをはためかせて、エストリカはまたも最前線に乗り込んでいた。
頬に血を昇らせた総督は、重い装備で走ってきた末に叫んだせいで、大きく咳き込んでいた。トゥリアスはそちらに駆け付けた。
「総督!? なぜ、ここに?」
「事前の打ち合わせ通りだ。ここが焦点だから、劣勢であれば速やかに援軍を送らねばならないと、将軍がそう言ったはずだぞ」
「確かに、それはその通りですが……」
それはトゥリアスや大隊長らの話であって、総督が前線に出てくる手はずではなかった。が、スタニウム包囲戦で、ゴルニア騎兵隊の迎撃戦で、それぞれ自ら前線に立ったエストリカの気性を考えれば、非常事態にあって彼女がどう動くかは分かり切っていた。
だが、その救援をありがたく思うには、事態はすでに百名余の親衛隊の加勢ぐらいではどうにもならなくなっている。トゥリアスはその事を説明して、撤退を進言するべきだと考えかけたところで、再びぎょっとした。エストリカに従って戦場に乗り込んで来たのは、親衛隊ばかりではなかったのだ。
ざっと見積もっても増援は千名を超えている。
「こんな人数をどこから引き出して来たのですか!?」
「知らぬ」エストリカの答は簡潔だった。「こちらに走っていたら、いつの間にか付いて来たらしい」
「無茶苦茶だ」
他に言うべき言葉が見つからなかった。が、絶句したトゥリアスの口を付いて出たのは、場違いに明るい哄笑だった。
計算も戦術もない。救援に走る総督を目撃した指揮官たちは、彼女を守らなくてはならないと、足りない手持ちから後先考えずに兵力を抽出したはずだ。エストリカが走ってきた後の防衛線は穴だらけになっているに違いない。
だが、その無茶苦茶な行動だけが現状を変える力を持っていた。
駆け付けて来た部隊が猛反撃を開始しただけでなく、最前まで潰走しかかっていた守備隊も総督の来援を得て持ち直している。
元から冷静な計算でどうにかできる状況ではなかったのだ。ならば常識を無視した行動は正しくさえある。
「何を笑っている?」
「……いえ、ふと気が緩んだ様で」
「そうか。しんどいのは分かっているが、頼むぞ」
「お任せを」
答えて指揮に戻ったトゥリアスを見届けて、エストリカも自分の仕事を開始した。
「わたしはここから引かぬぞ! 我が軍団兵なら、この程度は持ちこたえてみせよ!」
エストリカの鼓舞に応えるように、エルトリア軍の勢いが盛り返す。大軍に前後を挟まれ、もはや全滅は免れ得ない状況にも関わらず、将兵は必死の抵抗を見せている。
それはやはり怜悧な計算を超えた出来事だった。本来ならほんのわずかな時間の抵抗だけを置き土産に、速やかに殲滅されるべき守備隊が、今やゴルニア軍の前線を押し返すほどの威力を発揮しているのだ。
どうにも理屈に合わない。と言うより、それは狂気の光景だった。腹に剣を突き立てられ、斧に腕を斬り落とされながら、エルトリア兵はそれでも抵抗をやめない。殴り付け、蹴り飛ばし、噛みつきさえして、返り血と出血で全身を真っ赤に染めた兵士は戦い続けている。
圧倒的な優勢を信じ、確実な勝利さえ実感していたゴルニア兵は、その凄まじさにたじろがざるをえなかった。やはり、やはりエルトリアには魔女が付いている。ゴルニアに災いを成す悪神の巫女だ。そうとでも解釈しなければ、わずか千やそこらの増援で、急に三万から四万を数えたゴルニア軍の挟撃を跳ね返し始めたエルトリア軍の強さは理解が及ばなかった。
「お、押すな! 押すんじゃない! ここは一度退いて――」
狂乱するエルトリア兵の姿に気圧されたゴルニア側の前線指揮官の叫びは、唐突に途切れた。
「退く者は殺す」
退却を口走ろうとしていた指揮官の延髄から喉を剣で貫き通して、殺気さえ感じさせる宣告を行ったのは、敏感に変化を感じ取って前に出ていたウェルティスだった。
「逃げる者は、ゴルニアの敵だ! 一族もろとも生贄として神々に捧げてやるぞ」
前線に出た王に直々に宣告されて、ゴルニア兵は逃げ道を塞がれた。変わらぬ及び腰ながらも、とにかく前に出るしかない。
それはどちらの方が生き残れる確率が高いかという、消極的な判断でしかなかった。退けば一族もろともに必ず殺される。ならば、幸運によって生き残れる可能性があるエルトリア軍の前面に出るしかなかった。
が、エルトリア兵の体力も無尽蔵ではない。敵との格闘戦を二度、三度と重ねると、いかに屈強であっても体力がもたない。なおも抵抗の意思を瞳に燃やしながら、エルトリア兵は確実に動きを鈍らせていた。
それはエストリカの影響力が及ばぬ領域だった。意思は潰えなくとも体は動かなくなる。
「があっ!」
吠えながら鉛のように重くなった腕を振り回すが、剣はゴルニア兵の盾に弾かれるばかりで、荒い息とともに動きを止めたエルトリア兵が次々と蹂躙されていく。
「これが当然の帰結だ」
ウェルティスは前線に留まって督戦しつつ、趨勢を見て呟いた。その声は寂しげですらあった。勇気は認めよう。覇気は讃えよう。しかし、これはもはや無意味な抵抗に過ぎない。
一時は持ち直しはしたが、土塁の上に取り付かれていた時点で結果は見えていたのだ。むしろ将兵を奮起させたエストリカの行動は、残酷な延命措置に等しかった。総督がこの場にいる以上、彼らは死ぬまで戦う以外の選択肢がなかったのだ。せいぜい空虚な満足感――総督と共に最期まで戦ったのだという誇り――を死にゆく将兵に与えたに過ぎない。
評価するならば、それはこの絶体絶命の窮地にあって、いまなお将兵を離反させないエストリカの影響力だろうか。ただし、その求心力は無意味を通りこして、残酷ですらあったが。
「それとも兵とともに殉じようというのか?」
すでに勝敗は決した。ならば、みじめな敗退と逃避行に身をゆだねるよりも、最期まで蛮族には屈しないと、自らの誇りを守り抜こうと、そういうことなのか。
「そういう女だった」
呟いた王は、しばし瞑目した。
あるいはこの激烈な抵抗によって、ゴルニア軍の戦意が挫かれていたのなら、逆転の目もあったろう。ウェルティス自身が前線に踏み込まざるを得ない程度には、その可能性は残されていたのだ。
俺が感じていた不安は、やはりこの常識を無視した少女の存在だったのか。なるほど、どう計算しても答えからはみ出してしまう存在ほど、鋭利なウェルティスの知性にとって厄介なものもない。
「が、それも終りだ」
そのように胸中に結論を下した時、ウェルティスは確かに勝利を眺めていた。その視線の先には、解放され、統一された新時代のゴルニアが開けているはずだった。




