Ⅱ着陣
「やはり、無理だ」
トゥリアスは広くなった額に浮かんだ冷や汗を拭いながら、一枚の図面に目を落としていた。そこにはルーヴェニア族の本拠地ユルゲニス周辺の地形が詳細に書き込まれている。ユルゲニスを臨む位置に陣を敷くや、すぐさま部下に測量させて作った地図だ。それを見ながら、攻城戦の算段を行っていたわけだが、どうでも無理だとしか思えない。
さすがはゴルニア最大の部族の本拠地、あるいは古のルーヴェニア帝国の都と言うべきか。エシュシュどころか、スタニウムさえ比較にならない大きな城市である。これを包囲しようとするだけで、兵力は不足気味になる。加えて、天然の台地の上に立つ城壁は容易に攻城兵器を寄せ付けない。寒波の到来にも邪魔されて、接城土手の建設はスタニウム以上に困難となるだろうし、あの時と同じく目と鼻の先で工事などしていれば、敵が黙ってはいまい。
唯一の朗報は、サンギ族の補給が再開されたことだった。
ユルゲニスに向けて無謀ともしか思えない進軍を再開して数日後の事である。食料を積んだサンギ族の補給部隊が合流して来た。
それはゴルニア総督府の対応あっての事ではなく、まったくの僥倖と言うべきだった。なぜなら、幸運をもたらした要因はゴルニア人の内紛にあったからだ。
来襲した第二軍団に対応すべく北上したロンダリア族が、サンギ族の支配領域を無断で往来するに及んで、連絡を受けていなかったサンギ族の方で混乱が起こっていた。ロンダリア族が自分たちの土地を奪うのではないか。そうした危惧は、あながち被害妄想とも言えなかった。ルーヴェニア帝国という連合政権の崩壊から後、ゴルニアは群雄割拠の真っただ中で、力のない弱小部族は土地を奪われ、隷属させられるのが倣いとなっていたからだ。
とすれば、大部族を前にして、せいぜい中規模でしかないサンギ族の取るべき道は二つに一つだ。すなわち、ゴルニア王に直訴して取りなしてもらうか、あるいはエルトリア人におもねって自らの地位を保つか、だ。
たちまち反旗を翻したはずのサンギ族指導部で内紛が起こった。それに乗じて、部族内で監禁されていた親エルトリア派の長老たちが復権し、ゴルニア総督の支援へと踏み切ったのだ。
偶然と言うには出来過ぎた幸運に、これがエストリカの持つ豪運なのかと思わなくはない。そうして僥倖に後押しされる形で、ゴルニア属州軍はユルゲニス近郊まで迫っていた。本営からも高みにそびえる古の都を臨むことのできる距離だった。
「にしても、これだからゴルニアは……」
複雑怪奇だ。トゥリアスは呟いたが、しかし、その不安定な支援こそ、何は措いても必要だった。あるいは、ここに来てエストリカのわがままとも言える決断が功を奏したと見るべきか。不安はあるものの、体勢は整っている。あとはユルゲニスを落とし、決戦に勝利するだけなのだ。
「が、それが不可能だ」
ゴルニア属州軍に残された兵力は七千と少し。第十二軍団が四千名弱、補助軍団が三千名。騎兵に至っては全て合わせても四百騎しかない。
対するゴルニア軍の籠城戦力は、下限三万と見積もられていた。脱出して来た難民や逃亡兵を捉えて聞き出した情報である。最低でも四倍の戦力を前に城攻めするなど、聞いたこともない暴挙だった。どころか、敵は四万を超える可能性が濃厚だった。
ちらりと周囲を窺うが、作戦立案のために本営に詰めていた幕僚たちも難しげな表情で一言もなかった。
かちゃん、と金属音が聞こえた。トゥリアスが顔を上げると、上座に座っていたエストリカが足を組みかえた所だった。肩当てに留まったフレースを撫でながら、総督は幕僚の意見が出るまで待っていた。
その表情は、男たちをけしかけた張本人とは思えないほど涼やかで、苦境を前にして余裕さえ感じられた。かと言って、思うさまに軍団を動かして、それで満足していると言う風でもない。あるいは、飄々と無責任な総督副官の態度に似ているようにも見えた。
「あの若造め」
トゥリアスは不意に思い出して呟いたが、文句を言うべき相手の姿は本営にない。と言って、強行軍で倒れているわけでもなかった。自らの発案で別命を帯びたアリウスは、若干の護衛を伴って本隊をを遠く離れている。
トゥリアスが忌々しく思うのは、この難事を前にして陣を離れた事に対してではなく、出立前にアリウスが何気なく漏らした方針を認めるしかない事だった。忌々しいが、他に打つべき手立てがない。
「やはり、あれしかあるまい」
将軍の諦観の混じる発言に、幕僚たちは気落ちした様子で同意した。そこで、ようやくエストリカは口を開いた。
「決まったか?」
「やはり、封鎖しかないかと」
それがアリウスが残して行った基本方針だった。正面攻撃でユルゲニスを落とすことができないとなると、他に方法はない――のだが、トゥリアスにはそれこそバカげた発案としか思えなかった。
なぜなら、それは軍で警戒線を張るというものではなく、ユルゲニスをぐるりと取り囲む封鎖施設を建設し、一人とて出入りできなくするという意味だった。
相手はユルゲニスに流入した十数万の人口を養うために、大量の食糧を必要とする。この場合の最適解は、やはり兵糧責めだった。
ゴルニア軍としては、飢えを防ぐには食料を運びこむために外との連絡線を確保するしかなく、包囲網の突破を計るだろう。押し寄せてくる敵の大軍に対抗するためには防御施設が必要だった。
「どれほどの規模になる?」
「総延長は、およそ九メイル(約十五キロ)になるかと」
平常時でも人口十万を数える都市をぐるりと取り囲む封鎖施設を建設するのだ。およそバカげた事だと思いながら、トゥリアスは図面から検討した範囲でおおまかな数字を挙げた。
幕僚たちが改めて息を呑む。これほど巨大な規模で前線築城した例は、古今に存在しない。それをたった七千人でやり遂げようと言うのだ。
それだけでも茫漠たる思いに駆られると言うのに、若き総督副官は余計な注文も付けていた。
「封鎖施設は二重とし、外からの攻撃にも対応できるようにするべきでしょう」
つまり、実質的な総延長は二倍、十八メイルという途方もない数字になる。
言わんとする所は、さすがに幕僚たちにも分かった。問題は籠城軍だけではなく、外から押し寄せて来るかもしれない援軍である。もし第二軍団の迎撃に向かっているロンダリア族が引き返して来たら、外側にも数万単位の敵を抱えることになる。そのための二重の防衛施設なのだ。
確かに理には適う。何倍もの敵と渡り合うには相応の防御施設が必須だった。
が、理というなら、これほどバカげた話もない。数年かけてのんびり作ろうというのではない。ロンダリア族が引き返してくる最短の日時を計算に入れた時、許された工期はほんの三十日ほどでしかなかった。
途方もない規模を、少数で、しかもわずか一月足らずで作り上げなくてはならない。作戦そのものが狂気だった。
「やろう」
それを――世の常識を軽やかに飛び越えて、エストリカは何の事もない様子で言った。
「やろう、と申されましても……」
「ウェルティスはゴルニアの歴史を動かそうとしている。これに対して、我々も歴史に残る偉業で対抗する。それだけだ」
エストリカの言葉は空虚な理念に過ぎない。だが、これこそが自らの役目だと、ようやく彼女は気付いていた。
機略はアリウスに任せればよい。軍事技術はトゥリアスに任せればよい。それが組織というものであり、文明の成果と呼ぶべきものだ。が、それでも他のだれかに任せられないものがひとつだけある。与えることだ。おまえたちこそが正しいのだという確信、おまえたちにできないはずがないという信頼――それらを存分に与えられれば、男たちは動くのだ。
その証拠に、それまで意気消沈していた戦術会議はにわかに活気を取り戻していた。出席する幹部たちは、さっそく封鎖施設の建設ラインをどこに設定するかを議論し始めている。
専門の知識と用語で交わされる議論に、エストリカは付いて行けない。彼女は軍事教練など受けた事がなかった。軍事で役に立つ事と言えば、せいぜい体育の一環として乗馬に勤しんでいた程度に過ぎない。
だが、それでよいのだ。ウェルティスは天才かもしれないが、エストリカには数世紀にも及ぶ歴史から学んだ専門家が付いている。彼らに匹敵する人材はゴルニアには居まい。それは畢竟すれば世界に冠たる大帝国と、辺境の部族連合との差だった。
「惜しむらくは……」
ウェルティスがエルトリア人ではなかったこと、何もない未開の地に生を受けたことか。いや、あの野性味を帯びた鋭気は、恵まれた文明の地で生まれはしないだろう。そう考えて、エストリカは短く息を吐いた。
そう鋭さだ。エストリカに、いやエルトリア人に欠けていたものがあるとすれば、暴力的なほどに荒々しい、その鋭さに違いなかった。
文明においてゴルニアはエルトリアに勝るところなどひとつもない。素人総督の率いる一個軍団が連勝を続けられたほど、その差は明らかだった。それでも最終的には勝てない、思うに任せない。軍事だの政治だのと、専門知識を持ち出すまでもない。文明を重視するというのは、要するに秩序を何よりも重視することに他ならず、エルトリア人は何事にも型にはまり過ぎて、堅実に積み重ねることしかできないからだ。
ルール無用のゴルニア人が碁盤をひっくり返すたびに、緻密に組み上げた目論見は崩れ去る。サンギ族が裏切り、根底をひっくり返した時、エルトリア軍はそれでもルールに従うしかなかった。足元を固めて、再び機会を窺うしかないと、冷静に計算し直すしかなかった。それが文明国の限界だった。
その限界を、ただ後先を考えない少女の癇癪だけが吹き飛ばした。
それが愚挙だと、破滅への第一歩だと、良識のある者は眉をひそめるだろう。エストリカ自身、みずからの正しさを信じているわけではなかった。それでもと、今なおエストリカが信じるのは、目にしたウェルティスの印象だった。
ウェルティスはその才気によって、ゴルニアをエルトリアに匹敵する帝国へと塗り替えるだろう。あの逞しい肩は、おそらくそれほどのものを担えるのだ。あるいはそれは女の勘とも言うべきものだったろうか。
だから、今を措いて他にないのだ。あの男が自らの帝国を築く前に、何としても叩き潰さなくてはならない。いや、そんな現実的な理屈とて関係ない。あの逞しい男は存在そのものが脅威なのだ。
脅威は取り除かれなくてはならない。自らの安全を保障するためには、生温い友好条約などでは到底足りない。絶対的な保障とは、敵が二度と立ち上がれなくなるまで戦い抜くことでしか得られないのだ。
「だから、潰す」
不利など恐れるに足りない。エルトリア人にとって、敗北とは自らの破滅によってしか訪れることはないのだから。
その狂気ともいえる原始的な執念こそは、エルトリアを都市国家から大帝国へと成長させた原動力――自らが滅びるか、敵が滅びるまで戦いを終わらせないという他に類を見ない獰猛さだった。




