第26話 ソノ名、ゼロ
ラグナはしばらく、呆然と掌を見つめていた。
まるで、そこにあるはずの何かを探すように。
その視界の先で、倒れていた客たちが次々と目を覚ましていく。
失われていた価値が戻っていく。
《貴族令嬢:0G → 30,000,000G》
《魔道商会長:0G → 2,620,000G》
《王国騎士団員:0G → 1,980,000G》
価値は俺にしか見えないが、ラグナは悟ったのだろう。
肩から力が抜け、彼女の口から自嘲するような笑いが漏れた。
「……負けたわ」
ラグナは深く息を吐く。
その息には、負けた悔しさが滲んでいた。
それでも、彼女の顔はどこか晴れやかだった。
「……約束は約束よ。何でも言うことを聞いてあげる」
言って、ラグナは床へ背を預けた。
手足を大の字に開いて、ゆっくりと目を瞑る。
「煮るなり焼くなり、ペットにするなり好きにしなさい」
それはそれで、潔すぎてちょっと不気味だった。
けれど俺は、持っていたキューを棄てて、その場にしゃがみ込んだ。
まだ膝がビリビリする。
痛みを押し殺して、ゆっくりと口を開く。
「夜天競売会の会場、その裏口の鍵をくれ」
俺の言葉に、ラグナは目を見開いた。
「それと、裏口まで案内してほしい」
「……アナタ、本気で言ってるの? 私はアナタたちの敵なのよ?」
「何でも言うこと聞くって約束だろ?」
当然のように答えると、ラグナは呆れたように額を押さえた。
「普通お金とかじゃないの? そもそも、そんなこと言われて易々渡す奴が――」
その時、後ろから慌ただしい足音が聞こえてきた。
「クラドー!」
振り返ると、ミリスがルーレットの盤上を走ってこちらに駆け寄ってくる。
続いてカグヤも、スカートの裾を押さえながら盤上に降りてきた。
「無事で良かった」
「いや、結構痛い。膝が……」
「それは自業自得です。クラド殿はもう少し、計画的に無茶をしてください」
「なんか冷たくない⁉」
「作戦とはいえ、私たちを冷や冷やさせた罰です」
早速覚えた言葉で刺された。ちょっと傷付く。
ミリスは子供をあやすように俺の膝を撫で、クスクスと笑っている。
「あのー、痛いからやめて」
そんな俺たちを見ながら、ラグナはぽかんと口を開けた。
「ねえ、本当にそれだけなの?」
「それだけだよ?」
ミリスが不思議そうに首を傾げ、言葉を紡ぐ。
「ミリスたち、競売会で出されるカグヤの大事なモノ、取り返しに来ただけ」
「組織に恨みはあれど、アナタたちを殺すつもりはありません」
ミリスとカグヤの言葉に、ラグナはしばらく不満げな表情を浮かべる。
そうして、深いため息を吐いて楽しそうに笑った。
「ホント、変な子たち」
その声には、先程までの棘はなかった。
「気に入ったわ。ペットにできなかったのは残念だけど、言うこと聞いたげる」
ゆっくりと立ち上がると、彼女は胸を張った。
「アナタたちが欲しいのは、これかしら?」
すると、胸元からカードキーが顔を覗かせた。
「いや、どこに入れてたんだよ」
「細かいこと気にする男の子はモテないわよ?」
「そういう問題じゃねえ!」
「クラド殿が取らないなら、ここは私が」
そう言って、カグヤは躊躇なく胸元からカードを奪い取る。
地下エレベーター用のカードキーとは違い、こっちは真っ白だった。
「……クラド殿、これはあなたに託します」
唐突に、カグヤがカードを手渡してきた。
……妙に生温かい。
まさかと思いラグナを振り返ると、
「あらあら、顔を真っ赤にしちゃってどうしたの?」
どうしたもこうしたもあるか!
やっぱりこの女、ヴェルカの次くらいには面倒な奴だなと、俺は思った。
「ま、意地悪はこの辺にして。約束通り連れてってあげる」
***
かくして、俺たちはラグナの案内のもと夜天競売会の裏口へ向かった。
道中で拾った布を顔に巻き、人気の少ない通路だけを選んで移動する。
さらにカグヤの《陰》で気配を覆い隠したおかげで、一階まで驚くほど簡単に戻って来た。
「さて、ここから先が運営専用区域よ」
ラグナが立ち止まったのは、エントランスの受付カウンターだった。
相変わらず屈強そうな黒服が待ち構えている。
ロビーに客はいない。
競売会の開会まであと三十分ほど。
参加者は皆会場へ行った後なのだろう。
「本当に、この奥にあるんだろうな?」
「しかし理にかなっていますね。ここなら、客に強奪される心配もない」
「そゆこと。もっとも、そんなバカな子はいないけど」
クスクスと悪戯そうな笑みを浮かべ、ラグナは堂々とカウンターを通過していく。
受付カウンターの奥は、思っていたよりずっと狭かった。
帳簿や書類棚が並んだ、いかにも事務室といった風景が広がっている。
だがラグナは迷わない。
そのまま一番奥の壁へ歩いて行くと、白いカードキーを端末へ翳した。
ピッ――という電子音が響いた直後、壁がゆっくりと横に滑る。
「うわっ!」
思わず声が漏れる。
現れたのは地下へ続く長い通路だった。
壁も床も無機質な灰色一色。
人が使う通路なのに、生活感だけが不自然なほど存在しない。
耳が痛くなるような沈黙だけが、暗がりの奥の奥まで続いていた。
「何だか、不気味ですね……」
カグヤが小さく呟く。
ミリスも無意識に俺の袖を掴んで震えていた。
すると先頭を歩いていたラグナが、不意に足を止め、静かに口を開いた。
「そうだアナタたち」
振り返った彼女の顔からは、いつもの余裕が消えていた。
「ここから先は、本気で気を付けなさい」
「何だよ、急に」
「ゼロよ」
名前を聞いた途端、通路の空気が変わったような気がした。
さっきまで軽口ばかり叩いていたラグナが、言葉を選ぶように口を閉じる。
「正直に言うわ。もし私が戦うとしたら、ガノックかミザールと殺り合った方がマシ」
アリィ――アルベリオのことだろう――は特別として。ラグナはため息交じりに言葉を続ける。
「ゼロとだけは、死んでも嫌だわ」
「そこまで、なのか……?」
「それくらい戦いたくない相手ね」
俺の問いに、ラグナは真面目な面持ちで答えた。
冗談を言っている顔ではない。
彼女の震える手が、それを静かに物語っていた。
「アイツの標的はね、何故か勝手に死ぬの。自然に、なんの前触れもなく」
「勝手に死ぬって、どういうこと?」
ミリスが恐る恐る訊ねる。
するとラグナは大きく肩を落とし、ざっと十秒の沈黙を経て、ゆっくり言葉を続けた。
まるで思い出したくないものを思い出しているみたいに。
「……たとえば昔、私たち組織を裏切った男がいたの」
静かな語り出しに、俺たちは思わず固唾を呑み込んだ。
「とにかくその男は、顔を変えて、色んな国を転々として、組織から逃げ続けたそうよ」
「それで、どうしたの?」
ミリスが続きを促す。
ラグナはそこで二度、深呼吸をしてから続きを口にした。
「朝起きるのと同時に、バラバラに切り刻まれて死んだわ」
思わず足が止まりかけた。
途中、話を聞き逃したのかと思ったが、違う。
「……殺されたのか?」
「そう。だけど世間は、奇妙な怪死事件として片付けた。犯人を特定できなかったから」
迷宮入り、ということか。
だけど、ラグナの口ぶりからして、その犯人がゼロという男なのだろう。
「信じられないかもしれないけど、彼の標的は見えない“何か”に殺されるのよ」
とても同じ仲間のことを語っているようには思えなかった。
まるで、村を滅ぼした魔物を思い出しているような、そんな語り口に近い。
「もしかして、召喚術の類ですか? 霊魂や精霊を操るような――」
カグヤが訊ねるが、ラグナは「違うわ」とはっきり否定した。
「少なくとも召喚術師でも、死霊術士でもないわ」
――もしそうだとしても、魔力の残滓を辿られて足が付く。
ラグナはそう付け加えた。
「それじゃあ一体、どうやって衛兵の目を掻い潜って――」
「それが分からない。だから嫌いなのよ、アイツは」
彼女は、それ以上のことを語らなかった。
いや、語りたくない。
思い出したくないと言うべきか。
「クラド、ちょっと怖くなってきた」
「大丈夫だ。俺がいる」
そっとミリスの手を取ると、横からさらに手が伸びてきた。
カグヤの手だった。
顔を逸らしているが、不安に染まった表情は隠しきれていない。
かくいう俺も、恐怖と酸欠で死にそうだった。
進む度に空気が浅くなっていく。
氷河のような寒気が背筋をなぞる。
だがそこへ希望の光が差し込んできた。
「皆さん、あそこ」
カグヤが指差した先で、通路はようやく終わりを迎えていた。
そこにあったのは、小さな倉庫のような空間だった。
壁際には競売用の番号札が整然と並び、木箱には予備のガベル――落札時に叩く木槌――が無造作に放り込まれている。
顔を隠すための仮面や制服まで積まれていて、いかにも裏方の部屋らしい光景だった。
「ここが搬入口?」
ミリスが周囲を見回すと、ラグナは軽く肩を竦めて笑った。
「そうよ。表から運べない商品は、全部ここを通るの」
拍子抜けだった。
もっと厳重な施設を想像していたが、目の前にあるのはただの倉庫でしかなかった。
「誰もいませんね」
カグヤが呟く。
確かに人の気配がない。
開会の準備で、全員会場へ出払っているのだろうか。
そう考えると辻褄は合う。
合うはずなのに、胸騒ぎだけが消えなかった。
俺たちの足音だけが、やけに大きく響く。
「……変ね」
不意にラグナが立ち止まった。
嫌な予感がして、後ろを振り返る。
「どうした?」
俺が問い掛けたのとそれは、同時だった。
――ブシュッ。
ラグナの肩口から、突然血が噴き上がる。
「え――」
見えない何かに身体を切り刻まれ、ラグナは顔から地面に倒れ伏した。
あまりにも唐突で、状況を理解するまでに時間がかかった。
「だ、誰だッ!」
俺は無意識に叫びながら、慌てて辺りを見渡す。
けれど、どこにも敵の気配はなかった。
誰も動いていない。
武器を抜いた者も、当然いない。
それなのに、ラグナの肩だけが自然と裂けていた。
「ラグナ!」
ミリスが駆け寄る。
だが当の本人は、傷より別のものに怯えていた。
震える指で肩口を押さえながら、部屋の奥を見つめている。
「嘘……」
掠れた声だった。
「なんで、そこに残ってるのよ……」
その言葉の意味が分からない。
けれど次の瞬間、部屋の奥から、小さな拍手が聞こえてきた。
パチ。パチ。パチ。
それは誰かを称える拍手ではない。
聞いているだけで神経がすり減るような、不快な音だった。
「ダメじゃないか、ラグナ」
男の声が響く。
静かで、平坦な、耳にまとわりつくような嫌な声だ。
「侵入者をここまで案内するなんて」
暗闇から現れた男は、月光のような銀髪を揺らしていた。
黒い外套の裾から覗く両手には、細身のナイフが一本ずつ握られている。
だが俺の視線を奪ったのは、その姿だけじゃなかった。
男の周囲だけ、妙に景色が歪んで見えたのだ。
まるで目に見えない何かが、そこに大量に刺さっているように。
「これは、ぼくたちへの裏切りと見ていいのかな?」
ラグナが後退る。
俺はその姿を見て、初めて理解した。
彼女は今まで、一度もゼロの脅威を誇張していなかったのだと。
「ゼロ……こいつが……」
男は答えない。
ただ手の中のナイフを、くるりと回した。
何も斬っていない。誰にも届いていない。
それなのに、壁が裂け、木箱が崩れた。
床に、細い亀裂が走った。
そして俺は悟った。
コイツはガノックとも、ラグナとも違う。
目の前の男だけ、戦いの前提が噛み合っていない。
「いかにも、ぼくがゼロ。《始末屋》のゼロだ」




