表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
99/176

那須宮と美月の過去

「気にならない?」


 午後の診療時間が始まっても、患者が駆け込んで来ることはない。

 ゆったりとした流れる診療所で、氷室がぼんやりと休憩室で眠る天門紗雪の様子を眺めていれば、美月に問いかけられた。

 大きな声を出せば、眠る紗雪が起きてしまう。

 いつもより控えめな声のトーンで話す美月の声に動きを止めた氷室は、眉を顰めて言葉の続きを待つ。


「紗雪ちゃんが自分と同じ可哀想。見ていられないと深録が泣いていた」

「いい年した大人が泣くなど情けない。それ以外に抱く感情があるとは、到底思えないが」

「あら?桔梗ちゃんの泣き顔で恋心を自覚した氷室にとっては、深緑が第三の女として浮上するにはもってこいの展開ではないのかしら」

「面白がるな」

「あたし、桔梗ちゃん。深緑。第四の女として紗雪ちゃんも控えているのよ。ハーレム形成も夢ではないわね?」

「美月」


 冗談にしてもたちが悪い。

 氷室が非難するように名を呼べば、おどけていた美月の表情から笑顔が消えた。

 氷室が悪ノリするようなタイプではないと知っているのに、美月はなぜ氷室をからかうのだろうか。

 美月の表情が変化した理由を理解できず、氷室はより一層顔をしかめた。


「あたし、思うのよ。氷室が開き直って名前の上げた全員と恋愛関係を継続する……甲斐性のある男ならば、あたしが身を引く必要などなかったのではないかと……」


 桔梗と氷室が自分の思った通りの行動をするまで、彼女の座は渡さないと胸を張って堂々と宣言するほどだ。

 この状況で美月が身を引いたつもりでいる理由がよく分からず、氷室は思わず美月を批難してしまった。


「正直な気持ちを教えてくれ」

「あら。あたしはいつだって自分に正直よ?」

「美月は、俺をどう思っている」

「永遠の愛を誓いあった仲よ?当然、好きだったわ」

「今好きではないなら、なぜ──」


 今氷室に、好意を持っていないならば。

 桔梗と氷室の仲を反対する必要ないだろう。

 氷室に何故かと問われた美月は、顔色を変えず、悪びれもなく答えを口にする。


「──だって、悔しいじゃない」


 恋愛は勝ち負けではない。

 人の心は様々な環境や要因により変化する。

 その時は駄目でも、時が経てば思いを通じ合わせることだって不可能ではないだろう。

 桔梗に恋愛面で負けたと思い込んでいるから、おかしくなるのだ。

 美月は負けてなどいない。

 社会的には、美月の方が正しいのだ。

 たとえ美月にとって、社会的な正しさがなんの慰めにもならないとしても……。


「鬼の居ぬ間に、氷室を奪い取った桔梗ちゃんに反論もせず幸せを願うのは、氷室と将来を誓い合った仲であるあたしにはとても屈辱的なことなのよ」

「気があるふりをして邪魔をした所で、俺に対する思いがないのならば時間の無駄だ」

「そうね。氷室は意味のないことで時間を浪費するのは嫌いだったものね。大病院をやめて生活環境がよくなっても、効率を優先する癖は簡単には抜けないのかしら」

「美月」

「あら、ごめんなさい。気に触った?」


 氷室は心の底からこの場に桔梗がいなくてよかったと思う。

 桔梗がいれば、「私の知らない氷室先生を語らないで」と美月へ怒鳴り散らしていた所だ。


「私は、氷室と深い仲になるなら深緑の方だと思っていたわ」


 氷室が美月を非難すれば、彼女はひとしきり笑った後那須宮の名を出した。

 那須宮は仕事中、氷室のサポートをする看護師だ。

 それ以外でもそれ以下でもない。

 何度か関係が深まりそうな場面もあったが、今の所恋愛感情のれの字すら懐いていなかった。


「那須宮は仕事上のパートナーではあるが、プライベートでも仲良くしようとは思わない」

「あら、どうして?おっちょこちょいで、可愛い所があるじゃない。氷室とは7歳違いで、年下がいいなら桔梗ちゃんよりも手頃ないい女よ」

「あれをいい女と思える感性は持ち合わせていない」

「可哀想に……」


 美月はまったく可哀想だと思っていない声音で言葉を紡ぐ。

 棒読みに近いのだ。

 那須宮を恋愛対象外として見ていることは、当然だと言わんばかりの声音が表す意味を。

 氷室が探ろうとしたところで、明るい美月の声が響く。


「深緑の可哀想な生い立ちを知れば、氷室も好きになってくれるかしら」


 それは楽しそうに、美月は那須宮のプライベートを暴露する。


「深緑は先祖代々暴力団の家系に生まれた、犯罪をするために生まれた子なの」


 美月と那須宮の出会いは、天門総合病院ではない。

 今から13年前──那須宮が中学生の時、暴力団の抗争に巻き込まれて泣いている那須宮と出会ったようだ。


「両親は泣き虫で引っ込み思案で怖がりな深緑を、暴力団の跡取りとして育てることはなかったそうよ。後ろ暗いことは全てお兄さんに任せて、那須宮は普通の女の子として育った」


 それは7年近く前、那須宮本人からも聞いている。

 自分は天門総合病院の臓器売買事件には関わっていないと、ぶるぶる震えていた那須宮を思い出した氷室は、なんとも言えない微妙な顔をした。


(あれを守りたいとは思わないな……)


 少しでも不機嫌そうな顔をすればぴゃっと声を上げ、口をすぼめて大慌て。

 縮こまりぶるぶる震える那須宮は、大人になっても小さな子どものままだ。


(精神的に未熟な桔梗と、似ても似つかない……)


 同じ小動物でも、桔梗はか弱い小動物のふりをした魔物のような一面がある。

 自分本位で、したたか。

 自分が利益を得るためなら、他人がどうなろうが知ったことではない。

 そうした他の人にはない部分が、氷室は魅力的に感じるのかもしれなかった。


「普通の女の子として育てられた那須宮を、敵対する暴力団関係者は那須宮の父親が管理する暴力団を潰す弱みと見なしたわ」


 生まれたときから暴力団員として犯罪を犯すために生まれた子どもを、運命に抗い暴力団関係者と引き離して普通の女の子として育てたら、弱み扱いされて狙われるとは皮肉なものだ。

 問題は、この那須宮の境遇と天門紗雪の境遇に関係性を見いだせないことくらいか。


「那須宮の身の上話などどうでもいい。はっきり言ってくれないか」

「あら、そう?もっと辛くて悲しいエピソードが山ほどあるのだけれど……まぁいいわ」


 氷室が聞き飽きたと美月に申告すれば、紗雪を可哀想だと那須宮が告げた理由を話し始めた。


「子どもは生まれる場所を選べない。紗雪ちゃんはあの男の娘でなければ、静かに長寿を全うできた。深緑も、組長の娘でなければ誰にも狙われることなく、静かに暮らせたのよ」


 那須宮は見ず知らずの人間に襲われる恐怖や狙われる悲しみ、抵抗できない不条理を知っている。

 だからこそ、那須宮は自分のようになってほしくないと告げたのだろう。

 那須宮は7年近く前に組長の娘であるせいで、天門総合病院くらいしかまともな就職先がないと怯えていた。

 氷室が仲間に引き込まなければ、今頃働き口がなく、男に寄生するなり身体売るなり、犯罪に手を染めるなどの違法行為に手を染めていただろう。


「人は人。自分は自分だ」


 わざわざ自分の辛い経験を他人と重ね合わせ、心配していればきりがない。

 無理に同一視する必要はないと氷室は冷たく言い放ったが、当人にしか分からない苦しみがあることは、尊重しなければならないと感じた。

 誰かに言われて簡単にやめられたら、苦労などしないのだ。


「自分を強く持てない子は、苦労するわ」


 かつての氷室も、そうだった。

 周りと同じではない自分を受け入れられず、同じになることもできずに。

 氷室はずっと一人で生きてきた。

 誰かに頼り生きていく道を教えてくれたのは美月だ。

 できることならば、氷室は美月が導いてくれたように桔梗を導いてやりたかった。


「深緑、桔梗ちゃん、紗雪ちゃん……。立ち止まっている暇などないのよ。氷室に救われたがっている女の子は、山ほど順番待ちしているのだから」


 桔梗はともかく、那須宮と紗雪の名前を出すのは反則だろう。

 氷室でなければ恋愛的な場面かと勘違いする所だ。

 氷室は不機嫌そうに胸の前で腕を組むと、美月へ問いかける。


「力になってやるべきだと思うか」

「これからは、自分の足で歩いていかなくてはならないのよ。あたしに頼るのはやめて」


 氷室は頼っているのではなく、助言が欲しかっただけなのだが──美月が氷室にしてほしいことは一つだけなのだけなのだから、答えを出すわけには行かなかったのだろう。


「……そうだな」

「氷室が桔梗ちゃんを幸せにできなくて、桔梗ちゃんが氷室にふさわしくない女だと明らかになった時は、その限りではないけれど。あの様子では、他の男にうつつを抜かすようなことはありえないものね」


 桔梗が氷室に向ける愛は本物だ。

 美月に桔梗の愛が本物だと自信を持って宣言するのはおかしい気がして、氷室は口にこそ出せなかった。

 氷室が何か言いたそうに黙り込んだのを確認した美月は、くすりと笑顔を浮かべて氷室を見つめる。


「氷室の中にある答えを、見ぬふりしては駄目よ」


 美月の預言者のような発言に惹かれたことを思い出した氷室は、彼女への恋心を思い出さないように首を振り、小さく頷いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ