吉更の仕事と、彼の主張
(どいつもこいつも……俺にどうにもならないことを頼むなよ……)
氷室はスーパーマンではないのだ。
正義の味方に憧れ、美月の背中に追いつこうと必死になっていた若い頃ならば。
氷室は喜んでどうしようもない事件にも首を突っ込んだかもしれない。
だが、氷室はもうすぐ33歳。
どうにかできること、どうしようもならないことの分別がつく年齢だ。
守りたいものが危険に晒されていた、7年近く前の事件に関連する出来事だとしても。
直接氷室の守りたいものが加害されているわけではないならば、口を出す理由がない。
(桔梗が自宅に残った代わりのお願いに天門紗雪を助けることを願われたら、その時は……)
夜になってみないと分からないが、氷室が考えている通りのことを願われたとしても、紗雪が一人で歩けるほどに回復しなければどうにもならないのだ。
今は全貌の見えない事件を解決するよりも、自身の痴情の縺れをどうにかしなければならないだろう。
氷室の薬指に、桔梗へ繋がる運命の赤い糸が巻き付いていたとしても。
それより前に氷室の指に巻き付いていた美月に向かって伸びていたはずの千切れた糸が、氷室と再び関係を結ぼうと迫って来ているのだ。
氷室は絡み合う運命の赤い糸を、早急に処理しなければならなかった。
(処理するって言ってもな……)
人の気持ちが口にしなければ分からないように、運命の赤い糸だって目に見えない。
今どんな状態なのかを想像することは出来ても、何が正解なのかわからないのは、まるでお手本が用意されていないパズルのようだ。
氷室は残りの1週間で桔梗を氷室に相応しい女であると納得させ、桔梗が側にいることこそが美月と生活するよりも幸せであることを証明しなければならなかった。
これが、意外と難しい。
氷室が桔梗に惚れたのは、彼女の泣き顔に惹かれたからだ。
彼女を幸せにしたいから、好きになったわけではない。
(男が女に与えてやれる幸せってなんだよ……金か?)
金か身体か。
下世話なことばかりを考える氷室は、自分でも嫌になって顔を覆う。
(違うだろ……)
氷室は今まで、誰かを幸せにしてやることよりも、自分が幸せになるため他人を利用することばかり考えて生きてきた。
今更自分の力で誰かを幸せしろと言われても、どうやって幸せにしてやればいいのかなど見当もつかない。
(美月は俺が泣きつくことを期待しているのか……)
7年近く前ならば、弱い自分を見せ縋ることもあっただろうが。
氷室はおっさんと呼ばれてもおかしくないほどの男であり、今更迷子の子どもみたいに美月へ縋り付くのはプライドが許さない。
氷室はすでに、観月との縁を断ち切ったのだ。
今更美月を頼り、桔梗に気のあるフリをして彼女からの愛を享受し、甘い汁だけを啜る気などなかった。
(これ以上、最低男になってたまるかよ)
美月との関係をはっきりさせないままふらふらと桔梗の誘惑に負け、彼女に好意を懐いてしまった氷室は、桔梗と交際するとはっきり告げていない。
美月からしてみれば、最低最悪な浮気男に該当するだろう。
氷室にだってその自覚くらいはあるのだから、今更言い訳はしない。
どんな罰も、受け入れるつもりだ。
(俺の幸せと桔梗の幸せ。あと一週間で、見つけられんのか……?)
自問自答した所で、前に進めないなら考えるだけ無駄だ。
氷室はまず、桔梗の幸せとは何かを探ることにした。
『なんすか。今忙しいんで。日曜の真っ昼間に連絡してこないでくれます?』
桔梗の理解者として真っ先に思い浮かぶ人間は、やはり双子の弟である愛知吉更だろう。
氷室が彼と連絡を取った所、電話越しに聞こえてくる声は恐ろしく不機嫌そうだ。
昨日の深夜桔梗が電話をしてきたかと思えば、今度は氷室から連絡が掛かってきて辟易しているのかもしれない。
氷室は吉更に一言申し訳ないと謝罪をしてから、本題に入る。
『はぁ。桔梗の幸せ?俺がわざわざ伝えなくたってわかりますよね。簡単に』
吉更によると、桔梗の幸せは氷室が深く考えなくてもわかりやすいものであるらしい。
氷室にはどんなに考えても答えが出せなかったと言うのに……。
流石は双子だ。
桔梗のことは何でもお見通しらしい。
「血縁者とも婚姻できれば、桔梗はとっくの昔に幸せだっただろうな」
『は?何言ってんの?俺と桔梗が結婚とか、近親相姦が法律で許可されていたとしてもありえねぇから。まず好みじゃない。わがままで人の迷惑顧みねぇ女なんざ、同時に生まれてなかったら口も聞きたくねえよ』
酷い言いようだが、氷室はよく知っている。
口こそ悪いが、吉更は桔梗を姉として、大切に思っていることを。
『はぁ……しろゆき先生って、たまにわけわかんねぇこと言うよな。お似合いだよ』
「俺はお前の方が得体の知れない人間であると考えているが」
『俺のどこが得体の知れない人間だって?』
「全てだ」
『ざけんな。切るぞ』
流石は双子だ。
桔梗がすぐ自分の思い通りにならないと頬を膨らませ、むくれて不機嫌になるように。
吉更も気に食わないことがあると、すぐにキレる。
氷室は双子の神秘を存分に味わい終えると、くつくつ声を上げて笑った。
「悪かった。桔梗とよく似ていたから、からかってやりたくなったんだ。許してくれ」
『許すわけねぇだろ。笑いやがって……』
テレビ電話ではないため表情こそ見えないが、不貞腐れた顔をしている姿がありありと目に浮かぶ。
氷室は吉更へ一度軽く謝罪をしてから、ずっと気になっていたことを聞くことにした。
「これは興味本位だが」
『なんすか』
「今、どのような仕事をしている」
『はぁ……?俺の仕事?』
桔梗はアイドルこそ辞めたものの、芸能人として芸能界でマルチに活動する芸能人だ。
双子の弟である吉更は、テレビで大々的に取り上げられることなく、桔梗のプロフィール紹介で「双子の弟」がいることを仄めかされるだけ。
一般人であることは確かだが、氷室は一度どんな職業をしているのか、吉更へ聞いてみたかったのだ。
「言いたくないなら言わなくて構わない。興味本位だからな」
『はぁ……。スケボーのインストラクターですけど……』
「インストラクター?」
スポーツのインストラクターと言えば、現役時代そこそこの成績を収めた人間にしかなれないイメージを持っていた氷室は、思わず吉更へ聞き返していた。
7年近く前、何度かスケボーに乗って遊ぶ吉更の姿を目にしている。
少し遊んでいるだけでもプロ顔負けの技術があるのは見て取れるが、吉更は有名な大会に出場してテレビで取り上げられるような活躍をしていない。
有名ではないのに、インストラクターになど、なれるのだろうか。
『大会で優秀な成績を収めなくたって、初心者向けのインストラクターは資格さえあれば誰でもなれる』
「プロにはならなかったのか」
『大技失敗した時のリスクを考えれば、プロになる選択肢はないですよ。俺はあいつの一部になるよりも、愛知吉更として生きていたいので』
吉更の示すあいつとは、桔梗ではなく紗雪だろう。
桔梗と吉更は双子だ。
二卵性であることもあり、遺伝子情報がピッタリと一致するわけもないはずなのだが……桔梗と吉更は、天門紗雪に適合する臓器を持っている。
スケートボードのプロとなれば、車の走行するスピードをスケートボードの上に乗り、生身で滑走するのだ。
いくらヘルメットなどで頭を守った所で、頭から落ちればひとたまりもない。
吉更は肝臓が無事ならば、そのまま天門紗雪に自分の臓器が移植されるのを恐れているようだった。
「大技を失敗したから、必ず脳死になるわけではないだろ」
『あいつの父親が生きている限り、いくらでも裏で手を回せましたよね。逮捕されたって、息が掛かっている奴らは野放しだ。隙を見せれば、俺たちの未来はない』
「……悪魔の子に認定された患者は、臓器移植を法律で禁じられている。協力する医者がいるとは……」
『あいつの父親は無期懲役。一生ブタ箱から出てくることがないとしても。あいつに媚び売って私利私欲を満たしたい、悪魔みたいな大人はまだまだ掃いて捨てるほどいるってことじゃないですか』
吉更は普段あまり自身の気持ちや行動を口に出すことなどしないのだが、この日の吉更は饒舌だった。
助けを求める天門紗雪の手を拒んだことを、やはりイヤリングを通じて聞いていたのだろうか。
吉更は事件に関連する違和感を氷室に打ち明けた。
『桔梗は気づいているかどうかわかりませんけど、俺はずっと監視されている』
「監視?」
『機会があればいつでも、あいつらは俺と桔梗を殺して、あいつを救うつもりですよ。俺も桔梗も一人にならないようにしているので、今の所は事件に巻き込まれるようなことはないですけど』
吉更が氷室に嘘をつくメリットなどない。
桔梗に聞いてみなければ分からないが、監視されているのは事実だろう。
問題は、桔梗と吉更を監視している人間がどこの誰かだけだ。
「あいつを生かしたい集団がいるのならば、なぜあいつは俺に助けを求める」
『信頼できないからじゃないですか』
「俺を信頼できないなら──」
『あいつを守ろうと行動する集団が、ですよ』
吉更は不機嫌そうな声のまま、自身の考えを氷室へ打ち明ける。
天門紗雪は現在、悪魔の子を束ねるリーダー的存在だ。
悪魔の子たちが普通の人間として暮らせるように、偏見を失くす為行動していた。
悪魔の子たちにとって、天門紗雪は氷室にとっての美月みたいな存在だ。
目標であり憧れ。
道標でもある彼女を失うくらいならば、誰を犠牲にしても構わないと思うほどに。
天門紗雪とって悪魔の子は、守りたい存在であるはずだ。
自分の父親が起こした事件により、違法な手段を用いて生かされた子どもたちの健やかな成長を願うからこそ、紗雪は悪魔の子として先頭に立ち、悪魔の子を救おうとしている。
「守ろうとしている人間が信頼できないなら、守る必要があるとは思えない」
『どう思っているかは本人に聞けばいいだろ。悪いこと考える大人と、誰も悪いことをしていると言えなかったやつをブタ箱に押し込んだ先生なら、どっちを信頼できるかは明白だ』
吉更の話は想像の域を出ないが、彼の話は一理あるだろう。
桔梗が命の危機を助けてくれたヒーローであると思い込んだように、偉大なる権力に逆らえず、悪事を指摘できなかった大人たちを長年見てきた紗雪は、ある日突然ふって湧いて出てきた氷室が悪事を暴いた姿を見て、光を見出した。
「……俺があいつを助ければ、お前らを監視する奴らも手を引くのか」
『あいつの命を、俺や桔梗の肝臓以外で補えるなら』
「……そうか」
その辺りのことは、天門紗雪からもっと詳しい話を聞かなければ氷室は一歩を踏み出せない。
(桔梗と吉更の安全が保証されているとばかり思っていたが……)
安全が保証されていないとすれば、氷室は紗雪の助けを求める声から頑なに目を背ける必要がなくなる。
氷室にとって桔梗はすでに、「守らなければならない大切な人」だ。
当然、吉更も。
守らなければならない大切な人の片割れであるならば、失うわけには行かない。
『あれはあいつの頼み方が悪かった。わけも分からぬまま助けてと言われたって、あんたはあいつの手を取らない。だけど……理由があれば別だろ』
「桔梗の命にかかわることがあれば」
『それ、ちゃんと桔梗の前で言ってやれよ』
氷室は肩を竦めた。
残念ながら、桔梗に告げる予定などなかったからだ。
氷室が「桔梗を失いたくない」と言えば、彼女は飛び跳ねて喜ぶことだろう。
最悪なのは、氷室に心配してほしいからと自ら危険の中に首を突っ込んでいくような危うさがある所だろうか。
(美月は誰かを助けたいから、自らを犠牲にする。桔梗は、俺に心配して欲しいからわざと危険な目に会おうとする──)
どちらが正しいのかと優劣をつけようとするのが間違いなのだ。
どちらにも、それぞれ異なる魅力がある。
それでいいじゃないかと自分を納得させた氷室は、改めて吉更に桔梗の幸せとはなにかについて聞いた。
『俺に聞かなくたって、桔梗なら喜んで答えますよ』
「桔梗は俺に自分をよく見せようと必死だからな……」
『よく見せようとしたって、あの女に勝てないことは理解しているみたいなんで。あんたも、桔梗から逃げようとすんなよ。ちゃんと向き合えば、収まる所に収まるはずだ。俺とあの人みたいに』
吉更は氷室にアドバイスのような言葉を告げた後、電話を切った。
(……弟はうまく行っているようだ)
だからこそ桔梗は羨ましくて仕方ないのだろう。
早く、幸せいっぱいの吉更と同じかそれ以上に、氷室と幸せになりたいと考えている。
(そもそも、幸せが何なのかすらよくわかんねぇ俺に……桔梗を幸せにする権利はあんのか……?)
氷室は寄せては返す波をじっと見つめながら、昼食のおにぎりにかぶりついた。




